海音寺潮五郎と西郷隆盛

(画像)海音寺潮五郎と鹿児島展
海音寺潮五郎没後30年企画展「海音寺潮五郎と鹿児島」


(海音寺潮五郎の史伝文学について)
 鹿児島が生んだ偉大な歴史作家・海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)は、『天と地と』、『平将門』、『二本の銀杏』など、多くの歴史小説を手がけた作家です。
 特に、海音寺文学として有名なものは、『武将列伝』、『悪人列伝』など、その生涯の間に多く手がけた「史伝文学(しでんぶんがく)」と言えましょう。

 史伝文学とは、作品の中にフィクション(虚像)を交えず、史実(歴史上の事実)を徹底的に追求することによって成立する文学形式です。小説には、作者が想像して作り上げた人物や話が当然の如く存在しますが、史伝文学にはそれは許されません。歴史上の人物や出来事に対し、あくまでも真摯に史実を追求して書かなければならないからです。

 海音寺潮五郎は、明治中期以後衰退した史伝文学の復興を目指し、多くの史伝文学を手がけました。
 海音寺史伝文学を一度でも読まれたことのある方は、お分かりと思いますが、その作品中に表現される海音寺氏の豊富な歴史知識と歴史を見る眼力(史観)は、読者を大いに魅了し、圧倒されるほどの迫力を持っています。
 未だ海音寺文学に接したことのない方は、是非一度、海音寺史伝文学を読まれることをお勧めします。


(海音寺潮五郎の西郷隆盛関係書籍)
 海音寺潮五郎の作品の中には、同じ郷土の英雄・西郷隆盛を扱った著作がたくさんあります。
 代表的なものをあげると、次のような作品があります。

『西郷隆盛』(朝日新聞社全9巻、朝日文庫全14巻)
『西郷と大久保』(新潮社、新潮文庫)
『西郷と大久保と久光』(朝日新聞社、朝日文庫)
『西郷隆盛』(学習研究社全3巻、角川文庫、学研M文庫全5巻)
『史伝西郷隆盛』(旺文社文庫、文春文庫)


 また、その他にも、歴史随筆や史論等を含めると、その数は膨大なものにのぼります。
 特に、海音寺潮五郎の絶筆となった大長編史伝『西郷隆盛』(朝日新聞社刊全9巻、文庫版は全14巻)は、西郷の心事を最も理解している西郷伝と呼ぶに相応しい作品です。
 大長編史伝『西郷隆盛』は、海音寺潮五郎の代表作と呼ばれるもので、最初に筆を起こしたのは、昭和36年から38年にかけて「朝日新聞」夕刊へ連載したものからでした。
 海音寺潮五郎は、世に広く普及している西郷隆盛を扱った伝記や研究書の中に、余りにも間違いが多く、このままでは今後、誤った西郷評価が定着してしまうという危機感から、この『西郷隆盛』を書き始めたのです。
 海音寺潮五郎は、『西郷隆盛』第1巻の「あとがき」の中で、次のように書いています。

「どうしても西郷伝を書かなければならない。おれが書いておかなければ、西郷はこの妄説の中に埋もれてしまい、ついにはこれが定説となってしまう」

 海音寺潮五郎がこれほどまでに西郷隆盛に対して熱い情熱を持ち、惚れ込んでいたのは、その生まれ故郷にルーツがあると思われます。



海音寺潮五郎句碑(写真)
鹿児島県大口市に建つ海音寺潮五郎句碑
「ふる里の さつまの国は 空青し ただ あをあをと 澄み通るなり」
(海音寺潮五郎と西郷隆盛)
 海音寺潮五郎は、明治34(1901)年11月5日、鹿児島県の北方、熊本県との県境にある現在の伊佐市(いさし。以前は大口市(おおくちし))に生まれました。
 大口と言えば、西南戦争の激戦地であった高熊山(たかくまやま)がそびえ立ち、薩軍の雷撃隊の辺見十郎太(へんみじゅうろうた)と熊本隊の池辺吉十郎(いけべきちじゅうろう)が、政府軍を相手に孤軍奮闘したところです。そんな土地柄であったことから、村には西南戦争に従軍した古老たちがたくさん生き残っていました。
 海音寺潮五郎は、村の古老たちから聞かされる西南戦争や西郷隆盛の話を、まるでおとぎ話や子守唄を聞くような感覚で聞き育ちました。そんな古老たちから聞かされる西南戦争や西郷隆盛の話は、少年期の海音寺潮五郎に深い感動を与え、後年、西郷隆盛の伝記を執筆するきっかけとなったのです。

 子供の頃から、まるで本を読むかのような感覚で西郷の話を聞き育った海音寺潮五郎は、作家としてデビューしてからというもの、数々の西郷隆盛や西南戦争についての作品を次々と発表していきました。大長編史伝『西郷隆盛』は、その集大成であり、決定版と言って良いでしょう。
 大長編史伝『西郷隆盛』は、昭和36年から38年にかけて「朝日新聞」夕刊に連載したものを大幅に手を入れて書き改めたものを基礎とし、それに加えて今まで執筆した作品の一部や新たに書き下ろした膨大な原稿を繋いで一つの作品にしたもので、第1巻の刊行は、昭和51年3月のことでした。つまり、最初の新聞連載から第1巻が刊行されるまで、約16年の歳月がかかっているのです。
 その間、海音寺潮五郎は二度の大病で入院し、最愛の御夫人を失うなど、波乱万丈に満ちた時を過ごしましたが、その晩年、『西郷隆盛』の完成に全力を注ぎ込みました。真の西郷伝を世に残すことが自らに課せられた最後の大きな使命であるかのように、海音寺潮五郎は創作を続けたのです。

 しかし……、第6巻が刊行される直前の昭和52年11月19日、海音寺潮五郎は脳出血で意識不明の重体に陥りました。そして、12月1日、とうとう帰らぬ人となったのです……。
 海音寺潮五郎は、脳出血で意識不明に陥るその瞬間まで、『西郷隆盛』を執筆中であり、倒れた時、その机の上には、海音寺潮五郎が西郷隆盛の手紙等を現代語訳した「西郷文書口語訳」と表記された大学ノート9冊と、第9巻まで浄書された42冊の立罫ノートが残されていました。
 海音寺氏は、死の直前まで『西郷隆盛』の原稿を書いていたのでしょう。絶筆となった第9巻の最後の章には、見出しがついていませんでした。見出しをつけようと考えていた矢先の急逝だったのです。
 西郷隆盛の全生涯を描くため、全力を注いできた海音寺潮五郎の死は、海音寺文学を愛する読者や歴史作家を志す人々にとって、心から惜しまれる死でありました。



海音寺著「西郷隆盛」
朝日新聞社刊「西郷隆盛」
(西郷隆盛を貫く史観)
 海音寺潮五郎の急逝で、大長編史伝『西郷隆盛』は、上野の彰義隊戦争の部分で終わり、未完となってしまいました。
 しかし、未完となったといえども、海音寺潮五郎の『西郷隆盛』が、これまで数多く出版された西郷隆盛の伝記の中でも、他の追随を許さない、出色のものであることは間違いないでしょう。
 海音寺潮五郎の『西郷隆盛』が、他の伝記と大きく異なっている点は、西郷の生涯を描くために、幕末・維新史全体を詳細に記述しているところにあります。
 明治期、キリスト教徒で評論家であった内村鑑三(うちむらかんぞう)は、その著書『代表的日本人』の中で、

「維新における西郷の役割を余さず書くことは、維新史の全体を書くこととなるであろう」

 と書いています。
 海音寺潮五郎もまた、そのことを痛切に感じており、思案の末、西郷という人物の生涯を真に描ききるためには、幕末・維新史全体を書くことが必要であると決意しました。
 従来の西郷伝は、西郷が奄美大島や沖永良部島といった南の島に身を隠している間の幕末史の出来事を詳細に記述せず、なおざりしていたため、西郷の真の姿が伝記の中で正確に浮かんでこなかったのです。
 そのため、西郷隆盛を封建制の巨魁だとか、士族の棟梁だとか、何の根拠もない論を展開する作家や学者が多く出て、戦後は西郷批判を繰り広げました。
 しかし、真の西郷像を追究するためには、幕末・維新史全体を理解する必要があると言えます。
 海音寺潮五郎は、『西郷隆盛』第1巻の「あとがき」の中で次のように書いています。

「西郷という人は、幕末・維新史全体の上に浮かべないと、真の姿がわからないのです」

 また、次のようにも書いています。

「この書は西郷の伝記ですが、同時に幕末・維新史を兼ねています。西郷を主として申しますなら、「幕末・維新史と西郷隆盛」ということになりましょうか。どうか、そういうつもりでお読み下さい」

 海音寺潮五郎という人物が、いかに西郷を理解する上で、幕末史全体の流れを重要視し、幕末・維新史を俯瞰した上で、西郷の実像を描こうとしていたのかが、よく分かる言葉だと思います。

 また、海音寺潮五郎は『西郷隆盛』で幕末・維新史全体を書くにあたって、一般人にとっては非常に読みにくい古文書や手紙類のいわゆる「歴史史料」を、全て現代語訳して書くことにしました。史料を生のままで引用すれば、一般の読者には受け付けにくく、読みにくいものになってしまうであろうと考えた末での配慮でした。
 その作業だけでも膨大なものですが、海音寺氏は労をいとわず、『西郷隆盛』の中で引用する古文書類全てを現代語に直して執筆を続けました。
 このことだけをもってしても、海音寺潮五郎の『西郷隆盛』にかける情熱や気迫、そして読者に対する並々ならぬ配慮というものが、十分に理解して頂けるのではないでしょうか。


(結び)
 最後に、海音寺潮五郎の『西郷隆盛』第1巻の「あとがき」を抜粋して終わりたいと思います。この「あとがき」を読めば、いかに海音寺潮五郎が西郷隆盛を愛し、そしてその伝記の完成に全力を尽くしたのかが分かると思います。
 また、是非これを機に、海音寺潮五郎がその生涯を賭け、完成に全力を注ぎ込んだ畢生の大長編史伝『西郷隆盛』を一度読んでみてはいかがでしょうか。必ずそこには大きな感動が待ち受けているに違いありません。

 
私が西郷の伝記を書こうと思い立ったのは、私が西郷が好きだからです。理由を言い立てればいくらもありますが、詮ずるところは、好きだからというに尽きます。好きで好きでたまらないから、その好きであるところを、世間の人々に知ってもらいたいと思い立ったという次第です。
 伝記というものは、ほれこんで、好きで好きでたまらない者が書くべきものと、私は信じています。そんな者には厳正に客観視することが出来ないから、よい伝記は書けないなどという人がありますが、人間にはほれこまなければわからない点があるのです。「子を見ること親にしかず」という古語がありますね。親は子供を愛情をもって、生まれた時からずっと見ているから、長所・短所、誰よりもよく分かるという意味であると、私は理解しています。人間はそういうものなのです。ほれて書けないなどという人は、人間というものを知らないのです。単に公平であるというだけが取柄の伝記など、何になりましょう。貴重な時間を費して読む道楽は私にはありませんね。
(海音寺潮五郎著『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)第1巻「あとがき」から抜粋)