「敬天愛人」について



西郷と菅の銅像(写真)
庄内藩家老・菅実秀と西郷隆盛の銅像(鹿児島市)


 本サイトのメインタイトルともなっている「敬天愛人(けいてんあいじん)」という言葉は、西郷隆盛が好んで使い、よく揮毫した言葉です。
 「天を敬い、人を愛する」と読みますが、この「敬天愛人」という言葉には、西郷の自己修養のための指針(目標)と、信仰的でもある天命に対する自覚という考え方が含まれています。
 これからその西郷が目指した「敬天愛人」という考え方を、出来るだけ簡単に説明していきます。


【西郷と庄内藩士の交流】
 『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』という一冊の書籍があります。
 これは西郷に心服していた旧庄内藩士たちが、西郷から直接聞いた教訓等を一冊の本にしてまとめ、刊行したものです。
 庄内藩と言えば、「鳥羽・伏見の戦い」の契機ともなった江戸薩摩藩邸の焼き討ちを行った主力藩であり、戊辰戦争でも執拗果敢に薩長を含む新政府軍に抵抗した藩です。
 このような経緯があったことから、庄内藩が新政府軍に恭順した際、厳罰な処分が下ることを庄内藩士一同は覚悟していたのですが、新政府軍の参謀であった薩摩藩士・黒田了介(後の清隆)は、庄内藩に対し、極めて寛大な処分を言い渡しました。
 この黒田の温情ある処分に対し、庄内藩の人々は非常に感激したのですが、実はこれらの軽い処分は、当時庄内に居た西郷が陰で黒田に指示して行わせていたのです。そのことを後日知った旧庄内藩士たちは、西郷を大変慕うようになり、明治に入ると、西郷を東京や鹿児島に訪ね、教えを請うようになりました。
 明治三(一八七〇)年八月には、旧庄内藩主・酒井忠篤(さかいただずみ)は、薩摩遊学を計画し、藩士七十六名を引き連れて、鹿児島の西郷のもとを訪ねました。忠篤と旧庄内藩士たちは、翌明治四(一八七一)年三月まで鹿児島に逗留し、西郷に教えを請うとともに、薩摩の軍事教育などを学んだのです。
 このような深い関係から、後年勃発した西南戦争においても、旧庄内藩から鹿児島に留学していた青年二名が西郷率いる薩軍に参戦し、後に戦死までしています。これほど、西郷と旧庄内藩士との交流は、大変厚く深いものであったのです。


【南洲翁遺訓の刊行】
 明治二十二(一八八九)年二月十一日、大日本帝国憲法発布の特赦により、西南戦争での西郷の賊名が除かれることになりましたが、それを機に旧庄内藩の人々は、西郷から学んだ様々な教訓を一冊の本にしてまとめ、出版することを計画しました。

「西郷先生の教えをこのまま朽ちさせてはならない」

 という考えのもと、旧庄内藩の人々は、西郷の遺訓を世に多く広めるため、『南洲翁遺訓』という書物を発刊したのです。
 このように『南洲翁遺訓』は、旧庄内藩の人々の情熱と努力によって発刊されたものでした。
 この遺訓の中に、西郷が終生に渡って自己修養の目的とした「敬天愛人」のことが書かれています。
 遺訓の第二十四にこうあります。
(『南洲翁遺訓』は、岩波文庫から発売されており、気軽に手にすることが出来ますので、是非一度読んでみて下さい)


「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」

(現代語訳)
「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」(西郷南洲顕彰会発行『南洲翁遺訓』より抜粋)



 私なりに解釈すると、西郷の指す「天」とは、すなわち「この世の中を創造し、万物を育成しているもの」、キリスト教で考えるならば、「神(ゴット)」と同じ概念です。

「人それぞれには、天から与えられた「天命」があり、それに従って人は生きているのである。だからこそ、人はまず天を敬うことを目的とするべきである。天というものは「仁愛」、すなわち人々を平等に、かつやさしく愛してくれるものであるので、「天命」を自覚するのであれば、天が我々を愛してくれるように、人は他人に対しても、天と同じように「慈愛」を持って接することが何よりも必要である」

 私流の解釈を加えましたが、「敬天」つまり天を敬うということは、「愛人」つまり人を慈愛するということにつながる、この「敬天」と「愛人」という言葉は、実は表裏一体、相通じるものであるのです。
 このように「敬天愛人」という言葉には、西郷の自己指針(目的)が語られています。
 つまり、それは「仁愛の人」になるということです。天と同じように、分け隔てなく愛情を注ぎ、そして自らを厳しく律し、無私無欲の人であることを、西郷は終生心がけたのです。
 そしてまた、この「敬天愛人」という言葉には、西郷が体得した「天命に対する自覚」という考え方が表れているとも言えるでしょう。

「人は天から天命というものを与えられ、それに従い生きている」

 西郷の生涯を俯瞰すると、その行動全ては、この「敬天愛人」の言葉の中にある、天命への自覚というものに準拠されていることに気づきます。
 それでは、なぜ西郷がこのような天命に目覚めたのでしょうか。これには一つの事件がきっかけとなっています。


田原屋跡(写真)
月照が宿泊した使者宿・俵屋跡(鹿児島市)
【月照との自殺未遂】
 安政五(一八五八)年十一月十六日、西郷は僧・月照(げっしょう)とともに、鹿児島錦江湾の寒中の海に投身自殺をはかりました。
 薩摩藩の朝廷工作に深く関わっていた京都清水寺成就院の住職であった月照は、大老・井伊直弼が行った「安政の大獄」により、その身に危険が迫りました。井伊大老は、反幕府と見られる行動を取った人々を根こそぎ罰しようとしていたからです。月照は「将軍継嗣問題(第十三代将軍・徳川家定の跡継ぎを巡る問題)」において、井伊大老と立場を異にする一橋派として働いた経緯があり、そのため幕府に睨まれる存在となっていたのです。
 そんな月照の身を案じた西郷は、月照を保護するため、京都を脱出させ、彼の身柄を薩摩藩内に匿うことを計画しました。
 しかし、西郷の恩師でもあり、後ろ盾ともなっていた藩主の斉彬が急逝したことにより、薩摩藩の方針は百八十度変わり、保守的になっていたことから、藩政府ははるばる京都から逃亡してきた月照の保護を拒否しました。
そして、藩政府は西郷に対し、月照を藩外に追放するよう命じたのです。
 月照の藩外追放を命じる藩政府のやり方は、西郷にとって許容しがたいことでしたが、一薩摩藩士として、藩の命令に背くこともできず、また、幕府の捕方が迫る危険な藩外に月照を追放するというような非情な扱いも、西郷には到底できませんでした。
 このような事態に絶望した西郷は、月照と相談し、二人は相伴って寒中の海に身を投じたのです……。
 結果、月照だけが絶命し、西郷は奇跡的に息を吹き返しました。
 一人だけ生き残った、そして死にきれなかった西郷の悲しみは、いかばかりであったでしょうか……。共に身投げした相手だけが死んだのです。武士として、そして一人の人間として、これほどの恥辱と苦しみはなかったことでしょう。
 西郷はまさに気が狂わんばかりに、悩み苦しみました。今からでも月照の後を追い、死にたいと考えたこともあったでしょう。現に西郷家では、西郷が自害することを恐れて、西郷の周辺から刃物類を一切隠したと伝えられています。
 このように苦しみに苦しみ抜いた西郷は、ようやく一つの考え方に行き着きます。

「こうして自分一人だけが生き残ったのは、まだ自分にはやり残した使命がある。だからこそ、天によって命を助けられたのだ……」

 西郷は、自分一人だけが助かったのは、天が使命を与えているからだと考えることによって、ようやく死にきれなかった苦しみから少しだけ抜け出すことが出来たのです。
 そしてこの時西郷は、自らが天によって生かされたという、天命への信仰に目覚めるのです。
 以上のように、月照との自殺未遂が、「敬天愛人」への思想へとつながっていきます。
そしてこの後、西郷はいかなる恥辱や艱難辛苦を味わおうとも、決して自ら命を断つという選択はしませんでした。

「自分の使命が終われば、天は自分の命を自然に奪い去るであろう。天が自分を生かしてくれている内は、自分にはまだやらなければならない使命があるということだ」

 西郷はそんな風に考えました。
その結果、天命というものを常に身近なものとして感じ取り、その天命をつかさどる天を敬うことによって、天の本質である慈愛を体得しようと考えました。
 天は人々を平等に愛してくれる存在なので、西郷はその天をならい、一切の私利私欲という欲を捨て、天と同じように、仁愛の人になることを人生最大の目標とし、終生努力し続けることとなるのです。

 以上のように、「敬天愛人」という言葉には、西郷の本質が語られていると言っても良いと思います。
 そしてまた、西郷という人物を理解するためには、この「敬天愛人」という言葉を理解することが最も重要だとも言えます。
 西郷が日本史上最も清廉誠実な英雄であり、仁愛の人であったことは、この言葉の意味することを深く考えれば、理解出来るのではないでしょうか。