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宮崎の青空
宮崎の青空(西都原公園)


(巻頭エッセイ)「宮崎の青い空」
 平成17年3月30日(水)午後7時30分。
 私は大阪南港のかもめ埠頭からフェリーに乗り込み、一路宮崎へと旅立った。
 歴史好きが高じ、毎年のように九州各地の歴史深い街並みを探訪してきた私にとって、宮崎行きのフェリーを利用するのは初めてのことではなかったが、この日はいつものような気楽な船旅ではなかった。私は生まれて初めて故郷の大阪を離れ、遠く900キロ以上も離れた、九州の宮崎に居を移すことになったからだ。
 大阪から宮崎へはフェリーで約12時間。夜に大阪を発ち、宮崎に着くのは翌朝のことである。
 フェリーに乗船し、最上階にある展望デッキへと出た私は、これから始まる新しい生活への期待感と共に、生まれ故郷を離れる一抹の寂しさを併せて感じ持っていた。私は当分見納めになるであろう大阪の街の灯りをただひたすら眺めながら、フェリーの出港を待っていた。

 私は九州に住むことが昔からの憧れだった。
 毎年のように鹿児島を中心に九州各地を巡る旅をしてきたからであろうか、気がつけばいつしか九州という土地は、私にとって特に思い入れの深い特別な場所になっていた。

(九州の風土や自然、そして歴史や民俗などを肌で感じながら生活することが出来れば、幸せだろうな……)

 九州各地を旅する内に、いつしか私の心の中にそんな気持ちが生じ始め、私は九州という地名の持つ言葉の響きにさえ心惹かれるようになり、その空気に直接触れ、そこで生活したいと思うまでになっていた。
 そして、その夢がようやく実現した。
 我が敬愛する西郷隆盛の故郷である鹿児島ではなかったが、私はその隣県の宮崎へ行くことになった。宮崎は何度か史跡巡りで訪れた地であったが、私は宮崎に対して、特に強い思い入れや関心を持ってはいなかった。「南国」、「神話」、私はそれくらいのキーワードしか、宮崎について思い浮かべる知識を持ち合わせていなかった。
 そんな私が宮崎へ行くことになったのは、私と宮崎の間を取り持つ不思議な縁が生じてのことだったと今ではそう感じてならない。

 ただ、私は九州への移住という大きな夢が叶ったのとは裏腹に、故郷の大阪を離れることに一抹の寂しさを感じるようになっていた。宮崎に行くことが決まった当初は、憧れの九州移住への期待感で私の胸は高鳴る一方だったが、大阪を去る日が近づくにつれ、いつしか私の胸中には複雑な思いが生じ始めていた。

(いつも何気なく目にしている大阪の風景をもう見ることが出来ないのか……)

 今にして思えば、とても大げさだが、その頃の私は、大阪を離れることに対し、ある意味一種の悲壮感を感じていたように思う。
 夢を叶えるためには、それと同時に大切な何かを失わなければならないこともある。
 とても悲しいことなのかもしれないが、夢を叶えるに伴って、失うものも少なからずあるのだ。
 私は自分自身にそう言い聞かせていたが、故郷を去る寂しさは、宮崎へ旅立つ日が近づくにつれ、日増しに大きなものになっていくことを感じとっていた。

 汽笛が鳴り、いよいよフェリーが港を離れ始めると、私は自然と呟いていた。

「ありがとう、大阪」

 海水でべたついた展望デッキの手すりにもたれかかりながら、どんどん小さくぼんやりとかすんでいく大阪の夜景を私は見えなくなるまでずっと眺めていた。

 翌朝の3月31日(木)。
 眠気まなこをこすりながら、船室の窓のカーテンを開けると、朝焼けに光る宮崎の台地が見えた。
 私は急いで展望デッキへと出ると、地平線からは日向(ひむか)の国と呼ぶに相応しい、宮崎の真っ赤な太陽が顔を出していた。
 空を見上げると、天上には青々と澄みきった空が果てしなく広がっている。

(何て綺麗な青空なんだ……)

 太陽の光に照らされて輝く宮崎の青い空は、眩いまでの鮮やかな光を放つと同時に、どこか目に優しく、そして穏やかな光を併せ持っている。そんな空を見ていると、まるで清水に目を洗われるかのような感覚さえ覚えた。
 昨日の夜までは、心の中に大きな靄がかかったかのように、私は故郷を離れる寂寥感で一杯であったが、宮崎の青い空を見て、そんな複雑な気持ちが一気に晴れていくような気がした。
 私の心の中で身を細めるようにすっかりと萎んでいた新生活への期待感は、宮崎の青空に優しく包みこまれ、再び風船のように大きく膨らみ始めているのを感じた。
 私は何だかとても嬉しくなってきた。こんな綺麗な青空の下でこれから生活できるのだと思うと、無性に嬉しくてたまらなくなった。宮崎の青い空は、私の身も心も深い芯の部分から癒してくれるような気がした。
 宮崎で迎えた初めての朝は、新生活が始まるに相応しい爽快な朝だった。私の人生の中でも、最も清々しく感じられた朝だったかもしれない。

(さあ、いよいよこれから始まるぞ……)

 私は心の中でそう呟くと、フェリーを下船し、これから生活が始まる新居へと向かった。
 私の宮崎での新しい生活は、この時から始まった。


終わり




(あとがき)
 平成17年3月31日から平成20年3月30日までのちょうど丸三年間、私は生まれ故郷の大阪を離れて宮崎で過ごしました。
 このエッセイは、私が宮崎で迎えた初めての朝の感慨を取りとめもなく、まさに徒然なるがままに書き記したものです。
 今思えば、宮崎での生活はとても楽しく、そして充実した日々でした。その宮崎での楽しかった日々の記憶を文章にして書き残したいと常々思っていたのですが、三年間の日々を一つの文章にまとめ上げることは到底不可能なことです。
 そのため、私は宮崎で初めて迎えた朝について書こうと思い立ちました。私の宮崎生活の記念すべき第一歩となった、初めての朝の感慨を書き残すことが、私の充実した宮崎での生活を形容するに最も相応しいと考えたからです。

 本文中にも書きましたが、宮崎の青空は本当に「素晴らしい」という一言に尽きます。
 宮崎で生まれ育った人にとっては、そんな青い空の色は、極普通で当り前のことなのかもしれません。
 しかし、大阪という大都会の中で生まれ育った私にとっては、それは本当に特別なものでした。綺麗な青い空の下で生活出来るということは、人間にとっていかに贅沢で、そして幸せなことであるのかを私は宮崎で過ごした日々の生活の中で強く感じさせられたような気がします。

 宮崎という土地は、昔は陸の孤島などと陰口を叩かれ、交通面や情報通信面において後進県、いや不毛の地とまで揶揄されていました。確かに、東京や大阪などの大都会に比べると、交通網や情報網もまだまだ整備されてはいませんし、お店の数も少なく、そこで得られる物資の種類は豊富とは言えないかもしれません。
 しかし、宮崎という土地は、他県のどこにも引けをとらないほど、精神的に豊かに過ごせる土地であると思います。気候は温暖、冬はコートなしでも過ごせるほど、一年中やわらかく降り注ぐ太陽とそして澄み切った青い空の下で暮らすことが出来るのです。

 
澄み切った空の青さ
 目にも優しい山の緑
 眩いほどに光り輝く太陽


 そんな心にも体にも優しい環境の下で暮らすことが出来る。これほど贅沢な生活が出来る土地は、他には無いのではないでしょうか。
 また、そんな素晴らしい環境に加えて、宮崎に住む人々の心優しさや人の良さは格別なものがあります。これはおそらく九州でも屈指と言えるのではないでしょうか。宮崎県内のどこに居ても、九州の他県とは違った人の優しさを感じさせてくれます。

 
人の視線の優しさ

 人から注がれる視線に、何気ない優しさや親しみを感じることが出来るのは、宮崎特有のものだと感じてなりません。
 私は宮崎が大好きです。





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