(西南役紀行)
第1部「延岡の山野を往く」(宮崎県延岡市編)



(第1回「序文 −西南戦争と延岡について−」)
 「西南の役」、一般に言う「西南戦争」の舞台と言えば、有名な「田原坂(たばるざか)」や「城山(しろやま)」といった、熊本県や鹿児島県をイメージされる方が多いかもしれませんが、戦場となったのは、何も熊本や鹿児島だけではありません。西南戦争は、九州の広範囲が戦場と化し、その各地において激しい戦闘が繰り広げられました。
 このように西南戦争関連の史跡は九州各地に点在しているのですが、その中でも、現在の宮崎県延岡市周辺は、西南戦争を語る上において、非常に重要な場所であり、数多くの関連史跡が存在しています。
 西南戦争中、西郷隆盛が唯一陣頭で指揮をとった「和田越の古戦場」や、西郷が軍の解散命令を出した北川村の「西郷隆盛宿陣跡」など、宮崎県延岡市周辺には、数多くの西南戦争関連の史跡が存在しています。

 藩政時代、延岡は譜代大名であった内藤家が治める七万石の城下町でしたが、西南戦争においては、薩軍内でも一、二を争うほどの軍略家であった野村忍介(のむらおしすけ)率いる奇兵隊が、新政府軍に先駆けて、いち早く占領した町です。
 野村が延岡を占領したのは、

「延岡を拠点にして、豊後(大分)方面に出、一気に中央へと進出する」

 という、野村自身が常に抱いていた起死回生の作戦を実行するためにも、軍略上、延岡は非常に重要な場所だと考えていたからです。
 西南戦争研究の基礎史料である『西南記伝』(黒龍会編)には、

「野村は、延岡を以て、豊後方面進撃の根拠地と為し、牙営を置き、弾薬製造所を設け、大に鉛、銅、鉄を購究し、兵器弾薬の製造に着手したり」

 と書かれており、野村がいかに延岡という場所を重要視していたのかがよく分かります。
 しかしながら、そんな野村の考えた中央進出に向けての大いなる軍略は、結局叶うことはありませんでした。

 明治10(1877)年8月15日、西郷隆盛率いる薩軍は、延岡北方にある「和田越(わだごえ)」において、新政府軍と決戦に及びました。この「和田越の戦い」では、初めて西郷自身が戦場の前線に立ち、兵を指揮したのですが、結果、圧倒的な兵力を誇る新政府軍に対抗することが出来ず、大きな敗北を喫することになります。
 和田越の決戦で敗れた薩軍は、正式に軍を解散することを決定し、新政府軍の包囲網をくぐり抜けるため、可愛岳(えのだけ)の峻険な山道を突破して、最後の地・鹿児島を目指すこととなるのです。
 以上のように、西南戦争を語る上において、宮崎県延岡市とその周辺は、大きなターニングポイントともなった非常に重要な場所であるのですが、西南戦争と言えば、田原坂や吉次峠の戦いなど、どうしても熊本方面での戦いがクローズアップされがちなため、延岡周辺の西南戦争に関する史跡や、その背景となる歴史については、残念ながら余り一般には知られていません。
 2004年のゴールデンウィーク、私は延岡市を訪ね、市内やその周辺にある史跡を巡る機会を得たのですが、延岡という町の素晴らしさに、私自身、非常に感動しました。

青々と色濃く鮮やかな光を発する新緑深い山々。
豊富な水量を誇り、清流と呼ぶに相応しい光り輝く川。
透き通るように美しく光る綺麗な海。

 「山」、「川」、「海」、この三つの要素が三位一体となって織り成している延岡の風景は、ほんとうに素晴らしいの一言でした。
 西郷ら薩軍の一行が、この素晴らしい延岡の景色の中で、新政府軍の包囲に陥り、「何を思い、何を考えていたのか?」と考えると、私自身、非常に感慨深いものが胸に込み上げて来たのを今でも覚えています。
 現在、延岡市には「延岡西南役会」という、素晴らしい活動をされている郷土史研究会が存在し、地元延岡の西南戦争関連の史跡の整備などに熱心に活動されておられます。石碑に関する案内板を新しく設置したり、史跡周辺の清掃活動を行ったりと、郷土の歴史を愛し、そして史跡を大事にしていこうとする方々の熱心なボランティア活動には、ほんとうに頭が下がる思いで一杯です。

 歴史というものは、誰かが書き遺すか、または語り遺すなどしなければ、次第に風化し、自然と人々の頭の中から忘れ去られ、そして最後には消えていってしまうものです。
 これは史跡についても同じです。何十年、何百年と受け継がれ、現代に遺されてきた史跡というものは、今を生きる世代の人間が、それを管理し、そして整備・保護して、次の世代に受け継いでいかなければ、後世には完全に失われてしまうものなのです。

「歴史を受け継いで、次の世代に引き継ぐ」

 このことは、今を生きる我々誰もに課せられた一つの使命なのだと、私には感じられてなりません。
 特に、伝承や口伝の類は、今を生きる世代の人間が、後世に語り継いでいかなければ、完全に死滅してしまうものなのです。伝承・口伝など、目に見えない、形のない歴史は、一度失ってしまうと、二度とその姿を復活させることは出来ないのです。
 延岡において、延岡西南役会の方々がなされている活動は、今を生きる我々誰もに課せられた使命そのものを実際に実行に移されているものだと、私は強く印象付けられました。
 そして、その活動を実際に見た私は、心から大きな感銘を受けたのです。

 「西南の役紀行」の第1部「延岡の山野を往く(宮崎県延岡市編)」は、延岡西南役会の方々の活動によって整備されている、延岡周辺の西南戦争関連の史跡を紹介し、そしてその背景にある歴史を分かりやすく書くことで、私自身、その活動の一助になればという願いを込めて執筆することにしました。
 西郷を始め、桐野や村田や野村が、そして彼らに付き従って戦って来た九州各地の有志達が、自らの生死や志をかけて熱く戦った延岡という場所の雰囲気を、写真や文章などで、皆様に少しでも味わって頂ければ幸いです。
 そしてまた、私の文章を読んで、西南戦争について少しでも興味を持たれたならば、一度延岡の西南戦争ゆかりの地を旅してみませんか?
 実際に現地を訪れ、そしてその場所に立ってみれば、きっと胸に熱く響く感動を得られるのではないかと思います。
 また、自らの感じたその気持ちを大事にして、もっともっと歴史を学び、それを後世の人々に伝えて遺していく。これこそが、今を生きる我々全ての者に課せられた使命なのだと、私は強くそう感じています。
 最後になりましたが、この文章を執筆するにあたって、延岡周辺の西南戦争関連史跡を案内して下さった「延岡西南役会」の会長様とN様、ほんとうにありがとうございました。
 その感謝の意を込めまして、拙文ながらこの文章を捧げさせて頂きます。




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