(西南役紀行)
第1部「延岡の山野を往く」(宮崎県延岡市編)



(第2回「城下町『延岡』について」)
 延岡市内の中心を流れる五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた場所に、標高53mほどの城山と呼ばれる丘陵地があります。現在は「城山公園」として、延岡市民の憩いの場となり、桜の名所にもなっていますが、宮崎県東臼杵郡東郷町に生まれた歌人・若山牧水は、この城山のことを次のように歌っています。

「なつかしき 城山の鐘 鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに」

 牧水が「懐かしき」と歌ったこの城山という場所に、かっての延岡城が建てられていました。

 延岡城は元の名を県城(あがたじょう)と言い、慶長6(1601)年から三年間かけて、当時、延岡を治めていた高橋氏が築城したものです。
 慶長6年と言うと、天下分け目の戦いと言われた「関ヶ原の合戦」が行なわれた翌年にあたりますが、当時の延岡の領主であった高橋元種は、関ヶ原の合戦において、石田三成が率いる西軍側に加わっていました。
 関ヶ原の合戦当日、元種は関ヶ原にではなく、西軍の拠点となっていた大垣城に居ましが、関ヶ原で西軍が敗れたことを知ると、実兄であり日向高鍋の領主であった秋月種長と肥後人吉の領主・相良頼房と共に、徳川家康率いる東軍に寝返ることを決意します。
 元種ら三人は、同じく大垣城に籠城していた豊後安岐の熊谷直盛、豊後富来の垣見家純、美濃北方の木村勝正らを城内で巧みに暗殺し、逆に大垣城を攻め落としたのです。この功績により、関ヶ原の合戦後も、高橋家は延岡の領土を安堵されることになりました。

 本領を安堵された高橋元種は、従来居城にしていた南方の松尾城から県城(延岡城)に拠点を移すことにしました。
 『宮崎県史 通史編 近世上』によると、元々県城は、豊後の戦国大名であった大友宗麟によって攻め滅ぼされた土持氏が築城した城であり、高橋元種はそれを三年間かけて修築し、自らの居城と定めました。しかしながら、この高橋元種は、慶長19(1614)年、幕府により改易の処分を受けることになるのです。
 高橋氏の改易理由は、宮中で女官と密通するというスキャンダラスな事件を起こした公卿・猪熊教利を領内に匿ったことによるという説と、家中で人を斬る罪を犯した津和野藩主・坂崎成正の家来であった水間勘兵衛を匿ったことによる説と、二つの説が存在します。
 ただ、今となってはどちらの説も真偽の程は明らかではありませんが、どちらの説にせよ、延岡の高橋氏が罪人を匿ったことにより、幕府から改易処分を受けることになったことは間違いないと言えましょう。

 高橋氏の改易処分を受けて、次に延岡に移封されたのは有馬氏です。有馬氏は、島原日野江で四万石の所領を持っていましたが、場所柄、領内にはキリシタン教徒が非常に多く存在していました。当時、キリシタン禁令を布告していた幕府は、そのことを非常に危惧し、キリシタン大名であった有馬氏とキリシタン教徒を分離させるため、島原を幕府直轄領にして、有馬氏を延岡五万三千石に移封する命令を下したのです。
 延岡という町が城下町として本格的に整備されることになったのは、この有馬氏の治世においてです。
 有馬氏は高橋氏の後を受け継いで、城下町の整備に力を尽くし、五ヶ瀬川の対岸に元町(現在の祇園町付近)、紺屋町、博労町(ばくろうまち)の三つの町を整備し、本小路や桜小路などには武家屋敷を造って城下町を整備しました。また、県城の本丸を修理し、城郭の補修にも力を注ぐなど、延岡の城下町の整備に力を尽くしたのです。
 当時の延岡城下の規模ですが、有馬氏の治世よりも少し後の正徳3(1713)年に作成された『日向延岡御城并町在所々覚書』という史料によると、侍屋敷の数は329、城下町の民家数は464軒、人口は2824人であったということです。
 また、当時は県(あがた)と呼ばれていた城下町を「延岡(のべおか)」という名に改称したのも、この有馬氏の治世においてであったと言われています。
 『宮崎県史通史編 近世上』には、明暦2(1656)年6月に、当時の延岡城主であった有馬康純が、城下の今山八幡宮に寄進した時報鐘の銘文に「日州延岡城主」とあるのを根拠とする権藤正行氏の明暦2年説が紹介されていますが、ただ、その他にも延岡改称を貞享4(1687)年と元禄5(1692)年とする両説があり、県が延岡となった時期については、今でもはっきりとしていないのが現状です。

 このように城下町の整備に力を尽くし、延岡の基礎作りと発展に力を注いだ有馬氏でしたが、慢性的な財政難が藩を襲い、それにより百姓に対しての課税が厳しいものとなったことから、山陰(やまげ)・高千穂郷などで百姓の逃散が相次ぎ、それがさらに百姓一揆(一般に「山陰組一揆」と呼ばれる)へと発展したことから、幕府はその事件を重く見て、元禄4(1691)年10月23日、有馬氏に転封を命じました。
 有馬氏が延岡を去った後は、譜代大名の三浦氏が二万三千石で、その後、牧野氏が八万石で延岡に入ることになりますが、第9代将軍・徳川家重の時代、延享4(1747)年3月18日、譜代大名の内藤氏が、陸奥磐城から延岡七万石への移封を命ぜられました。その時から明治時代の廃藩置県に至る120年以上にも渡って、内藤氏の治世で延岡は治められることになるのです。

 延岡最後の大名となった内藤氏は、三河以来徳川家に仕える譜代大名であったため、幕末においても、幕府の命令を従順に守る形を突き通しました。
 例えば、延岡藩第7代藩主・内藤政義は、井伊直弼の異母弟にあたり、井伊家を出て内藤家を継いでいたため、幕府寄りの政策を取っています。また、その養子となった最後の藩主となる内藤政挙(ないとうまさたか)は、幕府からイギリスの仮公使館となっていた東禅寺の警備や神奈川警備を命ぜられ、蛤御門の変、第一次・二次長州征伐の際も、延岡藩は幕府軍の一員として出陣しているのです。
 このようなことから、慶応4(1868)年1月3日、京において勃発した「鳥羽・伏見の戦い」においても、延岡内藤家は幕府軍の一員として参戦しました。
 しかしながら、結果、鳥羽・伏見の戦いは、薩摩藩と長州藩の連合軍の大勝利となったため、延岡藩は朝敵の汚名を受けて、延岡藩士の入京は禁じられることになり、藩主・政挙もまた、京で謹慎を命じられ、慶応4(1868)年5月10日になって、ようやくその謹慎を許されることになったのです。

 このような歴史的推移を辿った延岡が、明治10(1877)年になると、西南戦争の戦場と化すのですが、延岡においても、薩軍に参加するための党薩隊が結成されています。
 西南戦争が勃発すると、延岡では宮崎支庁詰で延岡の名士であった藁谷英孝(わらがいひでたか)を首領とし、大島景保を小隊長として「延岡隊」が結成され、大島は約170人の隊士を引き連れて、明治10(1877)年2月23日に延岡を出発し、2月27日に熊本に到着すると薩軍に参陣を申し出ています。そしてこの時から、延岡隊は薩軍と共に九州各地を転戦することになるのです。

 以上、非常に簡単ですが、延岡藩の歴史的な推移を書いてみました。
 歴史というものは、どの時代を通じても、全て繋がりを持っています。
 例えば、幕末の歴史、西南戦争の歴史を調べていても、江戸時代初期の歴史の影響がひょんなところで出てきたり、江戸中期に起こった事件が原因となり、幕末に影響を与えていたりなど、こういったことが歴史上にはよくあります。
 歴史とは、よどみなく、そして絶え間なく流れ続ける大河のようなものです。時代という河を綿々と流れてきた歴史的事項が重なり合い、後世に一つの現象を生み出し、影響を与えていくものなのです。
 こういったところが、歴史の一つの面白さでもあるのではないでしょうか。
 延岡の西南戦争の史跡や歴史を紹介する前に、簡単な延岡の歴史を書いたのもそのためです。
 長々と書いてしまいましたが、いよいよ次回からが本編の始まりです。
 心ゆくまで延岡の西南戦争の話をお楽しみ下さい。




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