(西南役紀行)
第1部「延岡の山野を往く」(宮崎県延岡市編)


(画像)山内善吉邸跡
西郷隆盛が滞在した山内善吉邸跡(宮崎県延岡市)




(第3回「西郷隆盛宿陣跡(大貫町・山内善吉邸)」−西郷隆盛、延岡最初の宿陣地−)
 西郷隆盛が最初に延岡の町に入ったのは、明治10(1877)年8月2日のことです。
 鹿児島で挙兵した西郷率いる薩軍は、軍を北上させて熊本城を包囲しますが、結局、熊本城を攻め落とすことが出来ず、以後、博多から南下してきた新政府軍の増援部隊と激しい戦いを繰り広げることになります。
 武器・弾薬などの物資が不足しながらも、当初は互角以上の戦いを行なっていた薩軍でしたが、物資・兵員共に充分な補給を受けられる新政府軍は、次第に薩軍を圧倒し始めます。薩軍は新政府軍の猛反撃にあい、熊本の要所であった田原坂、吉次峠での戦いに敗れると、熊本城の包囲を解いて、現在の熊本県上益城郡矢部町に退くことになり、ここで態勢の立て直しを計りました。
 薩軍は矢部において、従来の部隊を、奇兵、正義、雷撃、破竹、振武、行進、干城、常山、鵬翼といった九つの大隊に編成し直し、今後の戦略を再検討しました。
 これが世に言う「矢部会議」というものなのですが、薩軍は肥後人吉方面に向かうことが決定し、野村忍介が率いることになった「奇兵隊」は、さらに豊後方面へと進出することになり、明治10(1877)年5月11日、野村は延岡に入りました。
 野村が豊後攻略そしてその後の中央進出のために、延岡という場所を重要視していたことは序文でも書いたとおりです。
 しかし、薩軍本隊が新たに本営とした人吉も、新政府軍の攻撃を防ぐことが出来ず、西郷は人吉から宮崎方面へと敗走することになるのです。

 西南戦争中、西郷は作戦会議に出席しても、ほとんど意見を言わないばかりか、戦場には全く顔を見せず、常に前線とは離れた場所に居たため、宮崎地方では次のような俗謡が歌われたと伝えられています。

「薩摩西郷は仏か神か 姿見せずに戦さする」

 この歌に象徴されるように、西南戦争中、西郷の言動や行動が全くと言って良いほど見えなかったことから、

「西南戦争は西郷の戦争ではなく、腹心の桐野(利秋)の戦争であった」

 と言われることが多いのですが、私はそうは考えていません。
 確かに、戦術面においては、西郷は戦闘の指揮を桐野や村田など薩軍幹部に完全に委任し、西郷自らは和田越の決戦に至るまで、直接兵の指揮をとることはありませんでした。
 この点だけで言うならば、西南戦争は西郷の指揮した戦争ではなかったかもしれません。
 しかしながら、戦争自体の本質を考えてみると、薩軍に身を投じた人々、これは鹿児島の人々だけではなく、熊本、宮崎、大分など、九州各地から集まったたくさんの人々は、その持っている志や目的はそれぞれ違うとは言え、西郷隆盛という人物の行動に賭けて、彼の率いる薩軍に身を投じたのです。
 西郷の挙兵により、九州各地で結成された党薩隊の人数は、一万人を超えると言われています。そんな彼らの中には、西郷の持つ声望や実行力、そして魅力に惹かれて、薩軍に身を投じた者も少なくはなかったと言えるでしょう。
 もし仮に、西郷抜きで西南戦争が勃発していたとするならば、九州各地の有志達が、ここまでこぞって薩軍に従軍し、九州の広範囲を戦場にするような大規模な戦争に発展することになったでしょうか?
 私はそうは思いません。

「西郷さんなら何とかしてくれる」

 九州各地から馳せ参じ、薩軍に身を投じた人々の多くは、そう考えて西郷の動向に賭けていたと言っても過言ではないでしょう。
 ただ、鹿児島で挙兵した西郷自身は「戦争になることを望んでいなかった」、いやもっと踏み込んで言うならば、「戦争になるとは思っていなかった」と私は考えていますが、結果的には西南戦争というものが大規模な戦争に発展したのは、西郷という人物に対する絶大な人気とその輿望に大きな一つの要因があったものと私は考えています。

 西南戦争を調べていると、いつも一つの大きな点に気付きます。それは、薩軍内部だけではなく、敵方であった政府軍内部にも、西郷という人物を尊敬し、そして敬い称える気持ちが強くあったということです。
 例えば、明治中期頃に流行った「抜刀隊」という歌の中にも、

「敵の大将たる者は 古今無双の英雄で」

 というフレーズで西郷のことが出てきます。
 抜刀隊とは、西南戦争において、薩軍が白兵戦に無類の強さを発揮したため、警視庁が士族出身の巡査を特別に選抜し、急遽編成して九州に送り込んだ政府軍の斬り込み部隊のことです。
 西南戦争で活躍した抜刀隊のことを歌う歌詞の中に、敵将である西郷のことを「古今無双の英雄」として誉め称えるフレーズが出てくること自体、考えてみれば非常に特異なことだと思います。また、この「抜刀隊」の歌だけでなく、西南戦争を調べていると、こういった敵将の西郷をまるで慕うような感情が、政府軍兵士の間にあったことをうかがい知ることが出来ます。
 攻撃している相手の敵将を敬い、そしてその人物が古今無双の英雄だと認め、一種慕う気持ちまでもが新政府軍内にあったこと自体、当時の西郷に対する人気の高さと、この西南戦争の特異性を顕著にあわらしているのではないでしょうか。

 西南戦争が勃発した責任は、西郷一人だけにあるのではなく、少なからず他の薩軍幹部、そして政府の官僚達にもそれぞれ責任があるとは思いますが、今まで書いてきたように、西南戦争の本質というものを考えるならば、西南戦争はれっきとした「西郷の戦争」であったと私は思います。
 もし、そうでなかったとしたならば、九州各地で結成された諸隊がこぞって薩軍に身を投じ、そして最後の最後まで、薩軍を裏切らずに付き従っていったことへの解釈が容易にはつかなくなるからです。
 確かに、九州各地で挙兵した有志達の西南戦争にかける目的や志は、それぞれ違っていたことでしょう。しかしながら、彼らは西郷隆盛という人物が率いる薩軍であったからこそ、西南戦争が「西郷の戦争」であったればこそ、自らの運命を託し、志願して薩軍に身を投じたのではないでしょうか。
 西郷自身が政府改革のために立ち上がったからこそ、西南戦争は大きな戦争へと発展したのだと私は思います。
 この意味から考えると、西南戦争というものは、紛れも無く「西郷の戦争」であったとしか私には感じられてなりませんし、西郷の輿望と声望、そして魅力、人気というものは、後世の我々が考えている以上に、はるかに巨大なものであったと言えるのかもしれません。

 話が大きくそれてしまいましたが、人吉から宮崎に入った西郷は、ここで5月31日から7月29日までの約二ヶ月間滞在していますが、7月24日、宮崎西方の防衛線であった都城が新政府軍の攻撃によって陥落すると、西郷は宮崎を出発して一路北上し、8月2日、延岡に入りました。
 西郷が最初に延岡の町に入り、宿陣としたのは、延岡の城下町の南西の外れにある大貫村西園の豪農・山内善吉の屋敷です。
 延岡出身で数多くの西南戦争関係史を著した香春建一氏の『西郷臨末記』には、8月2日、西郷が山内邸に入った日の様子を次のように書かれています。


「明治十年の挽夏八月二日の夕暮れに近い頃、三四人の薩兵が突如山内善吉方に来て、都合でお前たちは衣食日用の品を持って、当分何処かへ出て行くこと≫を命ずると、やがてまもなく二挺の山輿が、門から入って来て内庭を廻って、そのまま縁の上に据えられると、輿の中から畳の上に西郷が這い出たのであった」
(香春寿一著『西郷臨末記』より抜粋)



 香春氏は、丹念に郷土・延岡の歴史を調べ上げ、古老の話を聞き集めるなどして、延岡と西郷のことについて、たくさんの文章を執筆された人物ですので、おそらく山内邸に入った時の西郷の様子は、このような感じであったろうと思われます。
 また、山内邸には二挺の輿が到着したと書かれていますが、一つは西郷、もう一つは別府晋介の乗った輿です。
 別府は桐野利秋の従弟にあたり、後に鹿児島の城山で西郷を介錯した人物としても有名ですが、別府は西郷の護衛隊の隊長として、この日西郷と共に延岡に入りました。
 当時、西郷の周辺には、狙撃隊と呼ばれる護衛兵が常に警護にあたっており、別府は4月6日、八代の戦いで左足に重傷を負って歩行困難となっていたため、前線に出ることが出来なくなり、この頃は西郷の護衛を務めるべく行動を共にしていたのです。
 別府の怪我については、『西南記伝』に次のような話が載っています。
 別府が八代において重傷を負った時、西郷は慰問の使者を派遣して、次のような言葉を別府に伝えました。

「最近、兵力が乏しくなりつつあることを憂いておりもすが、おはんはそげなことは気にする必要はありもはん。今はゆっくり療養して回復を待ちやんせ」

 別府は西郷の言葉を使者から伝え聞くと、

「先生の一言は良医に勝る。思わず苦痛を忘れもした」

 と喜び、感涙にむせんだということです。
 西郷と別府の間に結ばれていた深い絆が分かるような逸話です。

 話を戻すと、西郷はこの山内邸で8月10日までの約一週間を過ごすことになりますが、この間、薩軍の戦況は日増しに著しく悪化していきました。
 西郷が延岡に入った8月2日には、薩軍が要所として防衛していた延岡南方の高鍋が陥落し、政府軍は一気に北上して薩軍を追撃する形を取ったため、薩軍は美々津(みみつ)と山陰(やまげ)の間に防衛線を張り、耳川を挟んで政府軍と対峙しました。
 耳川と言えば、古来、薩摩の島津軍と豊後の大友軍が争った「耳川の合戦」が行なわれた場所としても有名ですが、この時の薩軍は「耳川の合戦」とは逆の立場で、南から北上する政府軍を北側から防衛する側に立っていました。
 「因果応報」という言葉で片付けることは出来ないでしょうが、戦国と明治では薩軍の立場が逆転したことに、何か因縁めいたものを感じてしまいます。
 ちなみに、薩軍が防衛線を張った山陰(現在の宮崎県東臼杵郡東郷町山陰)という場所が、「@城下町「延岡」について」で書いた、有馬氏が幕府から転封を命ぜられるきっかけとなった「山陰組一揆」が起こった場所です。
 このように、薩軍は延岡を防衛するため、美々津を拠点にして防衛線を張ったのですが、この美々津が破れると、西郷が居る延岡までは、距離にして30kmもありません。そのため、薩軍は美々津を死守する態勢を取りました。

 明治10(1877)年8月6日、耳川を挟んで政府軍と対峙していた薩軍の諸隊長達に対し、西郷は次のような文面の通達文書を書き送りました。



各隊尽力の故を以て既に半年の戦争に及び候。勝算目前に相見得候折柄、遂に兵気相衰え、終に窮迫余地なきに至り候儀は遺憾の至りに候。兵の多寡強弱においては差違これなく、一歩たりとも進んで弊れ尽し、後世に醜辱を残さざる様御示教給うべく候也。

      八月六日                 西郷吉之助
各隊長宛
(『西郷隆盛全集第三巻』より抜粋)




 西郷はどのような気持ちで、この通達文書を書いたのでしょうか。
 西南戦争中、西郷は戦死者の氏名を全て帳面に書き記し、持ち歩いていたと伝えられています。西郷は戊辰戦争の際も、戦死した者の氏名を几帳面に帳面に書き写し、それを遺髪と共に国許に送り、遺族に届けるように取り計らっていることが、当時の西郷の書簡の記述の中に数多く出てきますので、おそらく西南戦争においても、西郷は同じことをしていたのではないでしょうか。
 西郷という人物は、その大きな容貌とは裏腹に、非常に几帳面で、かつ繊細な心を持つ感受性豊かな人物でした。そんな西郷が相次ぐ敗戦の報を耳にし、日に日に戦死者の名前が増えていく毎日に、何も感じなかったはずはありません。
 西郷自身、鹿児島で挙兵し、そして熊本城で頑強な抵抗にあった時から、既に死を覚悟していたであろうことは想像に難くありません。熊本城で抵抗にあったということは、無事に東京まで辿りつけない可能性が高くなったことを意味していることは、当然、西郷なら分かっていたはずだからです。

 しかし、彼はその後も戦いを止めようとはしませんでした。
 これより後のことになりますが、薩軍は8月15日の「和田越の戦い」に敗れ、延岡北方の長井村俵野に追い詰められた時でも、非常に険しい山々をかいくぐる様にして、政府軍の包囲網を脱出し、最後の最後まで戦い抜き、故郷鹿児島の城山において、ようやくその最期の時を迎えることになります。
 後世の史家達が西郷を批判する理由の一つとして、「西郷は無謀な西南戦争を早期に終結させず、多くの若くて有望な人材を死なせてしまった」をあげることが多いですが、西郷とて数多くの若者が死んでいくことに対し、何も感じなかったわけでは決してありません。多くの死に胸を痛めながらも、それでも最後まで戦いを止めなかったのは、西郷には西郷なりの別の考えがあったからでしょう。

 西郷という人は、どんな苦境に陥ろうとも、どんな状況に身を置かれようとも、常に希望を捨てず、そして諦めない人でした。
 確かに、結果論から考えると、西南戦争というものは無謀な戦争であったのかもしれません。しかし、西郷という人物は、例え勝利する可能性がほんの一握りしかなかったとしても、常に希望を捨てず、そして最後まで諦めない精神の人だったのです。
 また、西郷にとっては、自分の考えていた時期とは違った、やむを得ず立ち上がらざるを得なかった挙兵であったとは言え、一旦政府改革のために立ち上がったのであれば、その目的を果たすまでは、最後の最後まで諦めず、戦い続けるつもりであったと私は思います。自分を慕い、そして世を憂いて立ち上がった人々を前にして、熊本城で頑強な抵抗にあったことを理由にして、勝算が無いからと言って、西郷は自らの命を惜しむかのように、戦争を止めようと考える人ではなかったのです。
 西郷自身、鹿児島で挙兵せざるを得なくなったこと、そして熊本で頑強な抵抗にあい、戦争に発展せざるを得なくなったこと、そして転戦に次ぐ転戦を強いられることになったこと、これら全てのことは、自らに課せられた一つの天命であると西郷は考えていたのではないでしょうか。
 そして、西郷はその自らに課せられた運命に従うかのように、最後の最後まで希望を捨てず、戦い続けることを決意していたのではないかと私は思います。

 しかし、ただ一点だけ、西南戦争中の西郷は、不断の努力を怠り、最終的には運を天に任せてしまったような気がしています。

「人事を尽くして、天命を待つ」

 という故事が示しているように、人はあらん限りの努力をし尽くした後に、運命や天命というものが開け、そしてある定運(さだめ)へと導いていかれるものです。そのため、不断の努力を怠れば、どんな運命も切り開かれませんし、どんな天命も与えられませんし、良い結果をつかむことなどは到底出来るものではありません。人として出来うる限りの努力をし、そしてその結果は天の意志に任せて従う。このことが、西郷が常に標榜して止まなかった「敬天愛人」の哲学の一つであるのです。

 しかしながら、西南戦争中の西郷は、「人事を尽くして、天命を待つ」ではなく、最終的に「運を天に任せる」道を選んでしまったような気がしています。この二つの言葉は似ているようですが、中身はまったく異質のものです。不断の努力を伴わず、結果だけを天運に任せようとする後者の言葉は、西郷らしからぬものであったと言えましょう。
 それでは、なぜ西郷は運を天に任せてしまったのか?
 この答えについては、恥ずかしながら、まだ私の中に確たるものはありません。
 「敬天愛人」という哲学に対する西郷の悟りの深さが、最後の最後になって、自らの選ぶ道を誤ったものであるという漠然とした答えは私の頭の中にありますが、それがほんとうに当時の西郷の心境や考えと一致していたのかどうかと考えると、恥ずかしながら、まだ自信を持つことが出来ません。
 西郷は、常に希望を捨てず、そして諦めない人であったのですが、西南戦争中は一種の運命論に流されてしまい、勝つための不断の努力を怠ってしまったと私は考えています。そしてそのことが、私には残念で仕方がないのです。
 西郷がなぜそのような心境に陥ってしまったのかについては、今後も長い年月をかけて、私自身、深く考察していきたいと思っています。


*****

 2004年4月30日(金)。
 私は、西郷が最初に延岡の町に入り、自らの宿陣とした山内善吉の邸宅跡を訪れました。
 「延岡西南役会」の会長様とN様の案内で、ようやく念願叶って、この場所を訪れることが出来たのです。

 山内善吉の邸宅跡は、現在その建物は何も残っておらず、わずかに残る石垣だけが当時の様子を留めており、西郷隆盛の宿陣跡を示す木製の標柱と案内板だけが残っている状況でしたが、往時を偲ぶのに十分な雰囲気を持ち合わせている場所でした。
 前述のとおり、明治10(1877)年8月6日、山内邸に居た西郷は、耳川を挟んで政府軍と対峙していた薩軍の諸隊長達に対して、次のような一通の文書を書き送りました。
 もう一度再掲します。


各隊尽力の故を以て既に半年の戦争に及び候。勝算目前に相見得候折柄、遂に兵気相衰え、終に窮迫余地なきに至り候儀は遺憾の至りに候。兵の多寡強弱においては差違これなく、一歩たりとも進んで弊れ尽し、後世に醜辱を残さざる様御示教給うべく候也。

      八月六日                 西郷吉之助
各隊長宛
(『西郷隆盛全集第三巻』より抜粋)



「西郷はどのような心境で、この文書を書いたのだろうか……」

 私は当時の西郷の心境を理解するヒントをつかむためにも、以前からこの山内邸跡を訪れてみたかったのです。
 伝記や本、史料などをいくら読んだとしても、現地に行かなければ分からない、そして感じられないものは、ほんとうにたくさんあります。歴史を学ぶ上で、フィールドワークが大切なのはそういった点にあるわけなのですが、この時一緒に同行して下さった「延岡西南役会」のN様は、史跡に行く場合、「五感で当時を感じる」ということを普段からおっしゃられています。N様がおっしゃられていることは、まさに私も共感する感覚で、本や史料をいくら読み漁っていたとしても、見えない、分からない、感じられない事実というものが必ず現地には存在するのです。
 そのため、ゆかりの史跡を巡り、史料では知り得なかった事実や感覚を現地につかみにいく……。これが歴史を学ぶ上での史跡巡りの大切さであり、そしてまた醍醐味であり、面白さの一つであると私は思っています。

 さて、山内善吉邸があった大貫村西園(現在の延岡市大貫町)は、延岡城下の南西の外れにあったため、西郷が宿泊していた当時は、のどかな農村風景が広がっていたことでしょう。
 延岡という町の魅力の一つは、その山々の美しさにあると、私は現地を訪れてそう強く感じました。
 淡く薄い緑から、濃く深い緑まで、延岡の山々は季節によって様々な色に変化します。色とりどりの緑色が混ざり合い、山全体が独自の発色を行なっているのかと感じさせるほど、綺麗な緑色を延岡の山に見ることが出来ます。
 また、空の色や陽の光を浴びて光り輝く山の景色は素晴らしいの一言です。私は延岡を訪れて、この山の光り輝く景観に、心から感動しました。
 延岡という町は、新緑薫る、山々が光り輝く町なのです。

 延岡に滞在していた西郷は、山内邸の庭先から、私が見たような延岡の綺麗な山々を見ながら一週間の時を過ごしたことでしょう。また、西郷のことですから、愛犬の猟犬を引き連れて、実際に山の中に入っていったことがあったかもしれません。
 新緑薫る森や木々を見ていると、人間というものは、何かしら落ち着いた気分になれるものです。最近では「ヒィーリング(癒し)」という言葉が流行していますが、延岡の現地を実際に訪れてみて感じたことですが、当時の西郷もまた、新緑薫る光り輝く延岡の山野の景色を見て、最後の落ち着いた静かな時を過ごしていたのではないでしょうか。そして、西郷は山内邸において、鹿児島での挙兵から今日に至るまでのことを振り返っていたような気がします。
 西郷が8月6日に出した通達文書の中に、

「各隊尽力の故を以て既に半年の戦争に及び候」

 という回顧の言葉が文頭に来ているのは、西郷自身が延岡で過ごした一週間にわたる滞在の中で、自らの半生をもう一度見つめ直す機会を得たからだと、私は現地を訪れてみてそう強く感じました。
 その後、8月15日の「和田越の決戦」において、西郷は初めて戦場の前線に出て、陣頭指揮をとり、兵士達を叱咤激励しました。今まで前線に出たことのなかった西郷が、突然延岡の和田越において指揮を取ろうと考えたのは、山内邸で過ごした一週間の滞在が、西郷自身にとって、自らの半生を振り返る大きな契機となったからではないかと、私は現地を訪ねてみてそう強く感じたのです。
 西郷は諸隊長達に対し書き送った通達文書の中で、長い年月の間、自分に付き従ってくれた感謝と慰労の気持ちと共に、自らへの新たな決意の気持ちを込めたのだと私は思います。

「一歩たりとも進んで弊れ尽し、後世に醜辱を残さざる様」

 この部分は、薩軍の兵士達に一層の奮起を促すと共に、西郷が自分自身に向けた言葉であったのではないでしょうか。
 西郷は最後の決戦となった鹿児島の城山の地において、山を下りる途中で敵の銃弾が飛び交う中、周囲の者が自害を勧める中にあっても、「まだ、まだ」と言って、一歩でも前に進んでいこうとしました。
 この西郷の行動は、まさに「一歩たりとも進んで弊れ尽し」に当てはまるのではないでしょうか。
 西郷が将兵達に対し、「一歩たりとも進んで弊れ尽し、後世に醜辱を残さざる様」と書き送ったのは、「自分も必ず後で追いかけるから、皆も後世に恥じない最期を遂げろよ」という意味を込めて、将兵達を激励し、かつその言葉を自戒して、西郷自身が新たな決意を固めたという気がします。だからこそ、西郷は和田越において、初めて陣頭で指揮をとろうと思ったのではないでしょうか。

 西郷隆盛が延岡で最初の宿陣地とした山内善吉邸。

 ここは西郷の最後の安息地であり、そして自らを見つめ直し、新たな決意を固める場所でもあったと、現地を訪れた私には感じられてならなかったのです。




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