薩摩の両雄「西郷と大久保」

西郷隆盛肖像画 vs 大久保利通肖像画
西郷隆盛肖像(キヨソネ画) 大久保利通肖像(キヨソネ画)
鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵


二人の行動パターンの相違

【序章 西郷と大久保の誕生地について】
 幕末期の薩摩藩を代表する人物である西郷と大久保。
二人は同じ町内に生まれ育ち、深い友情で結ばれ、お互いを助け合い、明治維新を成し遂げたと言われていますが、実は生まれた場所も、育った環境も大きく異なっています。
まず、西郷は鹿児島城下の下加治屋町(したかじやまち)の生まれですが、大久保は甲突川を挟んだ対岸の高麗町(これまち)の出身です。
 ところが、現在の鹿児島市加治屋町には、鹿児島市の観光施設「維新ふるさと館」に隣接する場所に「大久保利通君誕生之地」という大きな石碑が建てられています。
 これには次のような理由があります。

 西郷と大久保がこの世を去って約十年経った明治二十年代の初め、二人の功績を顕彰するため、その誕生地に石碑を建立する計画が持ち上がりました。
西郷・大久保ともに下加治屋町で生まれ育ったと考えられていたことから、石碑の建立場所は下加治屋町に決まりましたが、誕生地を示す石碑が完成した段階において、大久保の生まれた場所は下加治屋町ではなく、甲突川を挟んだ対岸の高麗町であるということが分かったのです。大久保は高麗町で生まれ、後に西郷の住む下加治屋町に移住していたのです。
ただ、既に下加治屋町の大久保の住居跡に用地も用意されていたことから、「大久保利通君誕生之地」と刻まれた石碑は、そのまま使用されることになりました。
ただ、その代わりに、誕生地碑とは別に作成した二人の業績等を記した顕彰碑には、「生まれた場所」ではなく「住んでいた場所」と刻む工夫を凝らしたのです。
 以上のような理由から、現在発行されている鹿児島市の観光案内地図には、下加治屋町の石碑がある場所を「大久保利通誕生地」とは記さずに、「大久保利通生い立ちの地」という標記としています。
 ちなみに、実際の大久保の誕生地である高麗町には、後年「大久保利通誕生之地」と刻んだ小さな石碑が建てられました。
 話は余談から入りましたが、このように別々の場所で生まれ育った西郷と大久保は、いつ頃から親交を深めたのでしょうか?
 その具体的な時期は、はっきりとは分かりませんが、二人を結びつけたのは、薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動(おゆらそうどう)」であると言えましょう。


お由羅屋敷跡(鹿児島市)
【お由羅騒動と西郷と大久保】
 「お由羅騒動」とは、島津家二十七代当主で薩摩藩第十代藩主の島津斉興(しまづなりおき)の世継ぎ争いが生んだお家騒動です。
 斉興には斉彬(なりあきら)という、正室の子で、幕閣や諸大名の間でも英明と名高い聡明な世子が居ましたが、斉興は斉彬に自らの跡目を継がせることを渋りました。
(付記:その理由等については、薩摩的幕末雑話:第三話「父と子−島津斉興と斉彬−」または第二十二話「島津斉興の密書−斉興と斉彬と久光の関係−」を併せてご覧下さい)
 斉彬は藩財政を大きく傾けた斉興の祖父、第八代藩主・重豪(しげひで)と趣味・趣向が似ており、外国の文物に興味を持ち、蘭学者たちと交流を持つなど、斉興から見れば金のかかる派手な活動をする人物であったからです。
そのため、斉興は自分の跡を斉彬が嗣げば、折角立て直した藩財政が、また重豪の時のように悪化するのではないかと危惧したのです。
 このような理由から、斉興は次第に愛妾・由羅(ゆら)の方の子供である庶子の久光(ひさみつ)に愛着を持つようになり、藩主の座を譲りたいとまで考えるようになっていました。
そのことに憤りを感じていた集団が藩内にいました。高崎五郎右衛門と近藤隆左衛門を中心とした斉彬を思慕する一派です。高崎ら親斉彬派は、由羅の方が斉彬やその子女を呪詛するために兵道家を雇っているとの噂に過敏に反応し、由羅の方や彼女の取り巻きの反斉彬派の重臣たちを暗殺することを計画し、斉彬の藩主擁立を謀ったのです。
しかし、このような反体制の動きを察知した斉興は激怒し、高崎と近藤の二人に切腹を命じ、その他計画に関係した藩士たちに対し、切腹や遠島、謹慎といった重い処罰を下しました。お由羅騒動が別名「高崎崩れ」や「近藤崩れ」と呼ばれる所以は、こういったことからです。

 このお由羅騒動が、西郷と大久保の二人に与えた影響は、非常に大きかったと言えます。
 まず、西郷のケースですが、西郷の父・吉兵衛は、お由羅騒動に連座し、切腹して果てた赤山靱負(あかやまゆきえ)の実家である日置島津家の用頼(御用人)を務めていました。
 そのため、青年時代の西郷は赤山とも面識があり、西郷にとって赤山は、憧れの存在でもありました。そのため、西郷は父から赤山が切腹の際に着用していた血染めの肌着を形見として受け取ると、その夜はそれを抱いて泣き通し、非業の内に死んだ赤山の志を継ぐことを決意したと伝えられています。
 一方、大久保ですが、父の次右衛門(利世)は、お由羅騒動に連座して、喜界島への遠島処分を受けています。次右衛門は、琉球の物産等を扱う琉球館の附役を務めていたことから、当時の世界情勢にも明るく、城下でもひとかどの人物として知られる存在でした。
 次右衛門の職掌柄、大久保家は下級藩士でありながらも比較的裕福な家庭であったと伝えられていますが、次右衛門が遠島処分を受けたことにより、大久保の人生は百八十度様変わりしました。父の罪の影響を受け、大久保は当時勤務していた記録所書役助を免職され、謹慎処分を命じられたからです。
 また、家計を支えなければならない男手二人が遠島及び免職されたことにより、大久保家の経済状況は急激に逼迫しました。
 このように、お由羅騒動が西郷と大久保の二人に与えた影響というものは、それぞれ非常に大きなものであったと言えますが、この騒動の後、西郷と大久保は互いに合い知る仲となり、親交を深めるきっかけとなったと伝えられています。


【お由羅騒動が二人に与えた影響】
 お由羅騒動という、藩を揺るがす大事件は、二人に大きな影響を与えたと考えられますが、二人がこの騒動によりそれぞれ感じ取ったもの、感じ得たものは、少し趣が違うものだったと言えそうです。
 西郷の生涯を俯瞰して見ると、西郷は「反権力」という強い精神が宿っていた人物であったことが分かります。それは一種潔癖と思えるほど強いもので、西郷は自分に正義がある、つまり自分が正しいと思った時は、相手がどんな高貴な人物であったとしても、自らの考えを決して曲げることはありませんでした。このような態度は、相手からすれば非常に不遜で、反抗的なものとして映り、そのことにより、しばしば西郷に厄難を降りかけることになりましたが、これは西郷の行動パターンの一つであると言っても過言ではありません。
 例えば、そのような西郷の大胆不敵な言動は、西郷の終生の恩師であり、主君でもあった斉彬に対しても見られるほどです。
斉彬は、自身の子供たちがいずれも夭折し、なかなか跡継ぎが育たなかったことから、異母弟である久光の嫡子・忠義に藩主を継がせる意向を持っていましたが、そのことを知った西郷は斉彬に対し、批判の意を唱えたと伝えられています。この世継ぎ問題については、西郷は一歩も意見を引かず、しばらくの間、君臣不仲であった時期があったとも伝えられているくらいです。
また、斉彬がお由羅騒動に連座した者たちの信賞必罰を行わなかったことに関しても、西郷は斉彬に反対意見を述べたと伝えられているほか、斉彬に西洋趣向があったことに対して、面と向かって「蘭癖」との批判も行っています。
 西郷にとって、斉彬は神にも近い存在です。そんな斉彬に対してですら、西郷は自分が正しいと思った時はこのような大胆な言動をとっているのですから、これは西郷の性格であり、行動パターンの一つであったと言えるでしょう。後に生じることになる久光との深い確執も、このような西郷の性格と行動パターンに起因していると言えます。
 西郷自身がこのような言動を取るにいたったのは、生まれついて持ち合わせていた正義感もさることながら、お由羅騒動で受けた影響が大きかったものと私は考えています。

「正しいものが処罰され、悪がはびこる」

 西郷にとっては、斉彬の擁立を謀った高崎らは正義の士でした。若き日の西郷が影響を受けた日置島津家出身の赤山靱負が、高崎の一派に属していたことも、西郷がそう考える大きな要因の一つとなっていましたが、そんな正義の人々が藩から切腹などの重い処罰を受けたことは、西郷にとって大きな衝撃であったに違いありません。
お由羅騒動において見事に切腹して果てた赤山の様子を父から聞き、形見として血染めの肌着を授けられた西郷は、その時、藩の理不尽な対応に疑問を持ち、公に対する憤りを強く感じ、権力に対する反抗精神が自然と植え付けられたと私は解釈しています。
 つまり、西郷はお由羅騒動により「反権力」という強い意識を植え付けられということです。

 一方、大久保のケースですが、大久保がお由羅騒動で感じ得たこととは、西郷とは大きく異なっていたと私は感じています。
 大久保はこの騒動において、父が遠島処分を受け、その生活は貧苦のどん底に突き落とされました。
 大久保はこのような苦渋の経験から、「権力というものが、いかに強大で、かつ恐ろしいものであるか」という、権力の中に潜む底知れぬ恐怖を権力の本質だと悟り、感じたのではないでしょうか。
 そしてまた、これはあくまでも私の推測に過ぎませんが、大久保はそんな権力の恐怖を感じると同時に、その権力を手にしたいという、一種の憧れのようなものを同時に感じ得たように思えるのです。

「例え、正義がこちらの側にあったとしても、少数の徒党を組むだけでは強大な権力に太刀打ちできない。事を成し遂げるには、逆に権力の側に立ち、権力を手にする必要がある」

 父の遠島や自身の免職・謹慎処分で塗炭の苦しみを味わった大久保は、権力がもろ刃の剣であると感じ、権力を手にしたい、手にするべきだとの欲望を同時に抱いたように私は感じるのです。
 これらの大久保の感じ方は、西郷とは真逆(正反対)だったと言えます。
 お由羅騒動により、西郷は「権力に対する反抗精神」を感じ、それを強く植え付けられ、自身の中で養成するにいたりましたが、大久保は権力の恐怖を感じたことによって、それを逆手にとり、「権力に近づこうとする権力欲」を感じたように思います。
 この二人の権力に対する感じ方・捉え方の違いは、その後の二人の生き方を理解する上で、とても重要なポイントになってくるものと思います。



南泉院跡(現・照国神社)(鹿児島市)
【大久保の権力志向】
 西郷が斉彬によって登用され、華やかな政治の表舞台で活躍していた頃、大久保は一人、薩摩の片田舎でくすぶった状況に置かれていました。
 しかし、斉彬が急逝したことにより、事態は大きく変化します。
 斉彬の死によって藩政府の方針は保守的に変わったことにより、西郷と月照が「安政の大獄」のあおりを受け、共に心中することになったことは非常に有名な話ですが、結局、月照は絶命し、西郷は奇跡的に蘇生しました。
 藩政府は西郷を保護するため、彼を奄美大島に送り、身を隠させる処置を取りましたが、西郷が鹿児島本土に不在の間、「誠忠組」(西郷と大久保らが結成していた若手の政治活動集団)は、自然と慧眼のある大久保が事実上の首領的な地位に就くことになりました。
 そして、ここから頭角を現した大久保の権力を掴もうとする動きが始まるのです。

 大久保はお由羅騒動の経験から、「事を成し遂げるためには権力側に立つ必要がある」との教訓を得たのではないかと推測しましたが、大きな志を成し遂げるには、権力側に居ることの重要性が分かった大久保は、その権力に近づくための計画を立てました。
大久保という人物は、鋼鉄の意志を持った人物です。一度決心したら迷わず、そして挫けずにその目標に突き進む不動の志を有していた人です。ここからの大久保の行動は、まさに大久保の大久保たる所以を示すものだと言えます。
斉彬の死後、藩主の座に就いたのは、斉彬の異母弟である久光の嫡男・忠義でした。
 久光は藩主の実父ではありましたが、忠義が新藩主に就任したとは言え、当時は鹿児島城下の北方、重富の一領主に過ぎず、いわゆる臣籍(家臣の位)に下っている状態でした。いかに前藩主の弟であったとしても、当時の大名の次男・三男というものは、このように冷遇されていたものだったのです。
 そして、大久保はその久光に目をつけました。

「忠義公が藩主となったからには、必ずその実父であられる久光公が実権者になるに違いなか。今、忠義公に近づくよりも、久光公に近づく方がはるかにやりやすい。ここは、久光公に何とかして取り入る必要がある」

 このように考えた大久保は、久光の趣味が囲碁であることを調べ上げ、久光の碁の相手であった鹿児島城下にあった南泉院(現在の照国神社の位置にあった)の子院・吉祥院の住職であった乗願(じょうがん)に碁の弟子入りをしました。
 乗願は誠忠組の同志・税所喜三左衛門(後の篤)の実兄であったと伝えられています。大久保は税所に頼んで乗願への弟子入りを志願したのでしょう。
 余談ですが、平成2年に放映されたNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』では、乗願への弟子入りを希望した大久保が、妻から碁の手ほどきを受けるシーンがありましたが、大久保の日記を見ると、既に若い時分から碁を嗜んでいることが分かりますので、これはドラマの脚色です。
 こうして大久保は乗願の許に出入りするようになりましたが、その際に乗願に対し、自らの志や考え方や誠忠組の活動などについて、折に触れては話すようになりました。大久保はその話が乗願の口から久光に漏れることを暗に期待していたのです。
 つまり、大久保は自らの存在を売り込むために、碁をもって間接的に久光に近づこうとしたのです。
 また、大久保は他にも一計を講じました。
当時、江戸において、国学者・平田篤胤の『古史伝』全三十七巻の刊行が始まっていましたが、乗願の弟である税所喜三左衛門は、江戸勤番の頃に平田塾に入塾していた関係から、古史伝が刊行される度に薩摩に送ってもらう約束をしており、それが次々と薩摩に送られてきていました。誠忠組の同志らはそれらを回し読む形で回覧していたのですが、そのことが乗願を通じて久光の耳に入りました。大久保が久光の耳に入るように仕向けたのです。
 久光という人物は、好学家で読書家でもありました。また、久光は何よりも国学を好んでいましたので、平田篤胤の『古史伝』に興味を持っていることを大久保は知っていたのです。そして、大久保の策は的中しました。久光は誠忠組で回し読まれている『古史伝』を借りて読みたいと乗願に対して頼んだのです。
 大久保は乗願からその話を聞くと、久光に『古史伝』を貸すことにしましたが、その際に一つの細工を施しました。『古史伝』の中に、ペリー来航以来の国内情勢や誠忠組の考え方、同志たちの名簿、そして意見書等を書面に挟み込んで、乗願に手渡したのです。
 このような経緯から、久光は誠忠組の考え方を詳しく知るようになり、また、大久保の存在を知るにいたりました。そして、大久保が久光のブレーンとして登用される大きなきっかけともなったのです。
 以上のような逸話から、大久保の目的に向かって邁進する不断の努力と意志の強靭さを感じるとともに、大久保の権力志向の強さというものも同時に感じずにはいられません。
 そして、久光の側近として登用された大久保は、明治十一(一八七八)年五月、東京の紀尾井坂で暗殺されるその瞬間まで、それ以来権力の座から下りることは一度もなかったのです。


【結び 西郷と大久保】
 前述のとおり、西郷と大久保は、その性格、考え方、志向、行動パターンの全てが異なった人物であったと言えると思います。
 このような性格の全く異なる西郷と大久保の二人が、幕末の動乱期、互いに助け合い、そして力を合わしたということは奇跡に近いものだったように思えますが、おそらく二人は互いに自分に持ち合わせていない要素を認めあい、そして求めあったのでしょう。そのことが二人を近づけ、親交を深めさせたように思います。
ただ、そんな西郷と大久保を「竹馬の友では無かった」として、二人の友情を批判するケースが多々見受けられますが、現代における友情の概念をもってして、二人の関係性を推しはかって語るのは、余り意味があることとは言えません。
 世直し、つまり革命のことですが、革命には必ず表舞台と裏舞台に欠かせない人物が必要となってきます。
 西郷はその大きな徳望をもって表舞台で活躍し、大久保はその余りある才能をもって裏舞台で権謀術策を使い、西郷の活躍を陰で支えたと言えます。
 演劇においても、それぞれ違った役どころの登場人物が出てくるように、同じ個性や考え方の人間がたくさん集まったとしても、良い芝居を作ることは出来ません。異なる個性同士がぶつかり合い、新しいものが出来てこそ、初めて良い芝居が生まれてくるものです。西郷と大久保の二人の関係が、まさにそのことを表していると言えるのではないでしょうか。
 以上のようなことから考えると、明治六(一八七三)年十月、朝鮮への使節派遣を巡って、この両雄が激しくぶつかり合ったのも、当然の結果であったと言えるでしょう。