薩摩藩留学生が旅立った羽島浦(鹿児島県串木野市)



第十話「新生 −薩摩藩英国留学生・高見弥市の生涯−」
 慶応元(1865)年3月22日、薩摩藩から選抜された15名の留学生を乗せた一隻の船が、遥か遠く離れた異国の地・イギリスへ向けて出航しようとしていた。
 この15名の留学生の中に、一人だけ薩摩ではなく、土佐出身の異色の人物がいた。

 その人物の名は、高見弥市といった。

 元々高見は土佐国香美郡野市村で生まれた郷士であった。
 高見は若くして武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟していたが、ある理由から、文久2(1862)年4月、同志二人と共に土佐藩を脱藩して、当時京都に居た長州藩の久坂玄瑞の元を頼った。
 久坂は脱藩した高見ら三人を手厚く庇護したが、後に土佐藩の捕吏が彼らを探索していることを知り、安全を期すべく、その身柄を薩摩藩士の海江田武次の元に預けた。その後一年以上もの間、高見は今度は薩摩藩に匿われる身となり、京都の薩摩藩邸内で過ごしたのだが、その間に親しくなった薩摩藩士・奈良原喜八郎の斡旋により、文久3(1863)年12月、何と薩摩藩士に取り立てられることになったのである。
 土佐藩士から薩摩藩士へ。
 亡命を決意したこの時、高見は自らの故郷である土佐を完全に捨て去る覚悟をつけていたのだろう。

 薩摩藩に亡命した高見は、元治元(1864)年6月に薩摩藩が設立した洋学教育学校「開成所」の第二等諸生に選抜され、そこで蘭学を中心に、陸海軍砲術、天文地理学、物理学、測量術、数学等々、多岐にわたる西洋学を学ぶことになった。この開成所諸生に選ばれた者は、薩摩藩の藩校「造士館」などから選び抜かれた俊才ばかりであり、高見が元土佐人でありながらも、その諸生に選ばれたのは異例のことであったと言えるであろう。
 開成所が開校して間もない頃、薩摩藩内では志の高い優秀な藩士を選抜し、留学生としてイギリスに派遣する計画が持ち上がり、慶応元(1865)年1月18日、藩庁は藩内から16名の藩士を選抜し、イギリスへの留学を命じた。
 その選ばれた16名の留学生の中に「高見弥市」の名があったのである。
 留学生派遣計画が生じた当時、開成所の教授を務めていた蘭学者の石河確太郎は、その計画に関しての上申書を大久保一蔵(利通)宛に提出しているが、その中で留学生として派遣するに相応しい人物として、一番最初に高見弥市の名を挙げている。
 元土佐人でありながらも開成所諸生に選ばれ、また、石河が高見を留学生に強く推薦した事実を考えあわせると、高見は藩からの期待を背負い、また開成所では非常に優秀な成績を残していたことが窺い知れる。

 そして迎えた慶応元(1865)年3月22日。
 藩から選抜された高見ら15名の留学生一行は、一隻の蒸気船に乗り込み、鹿児島の西方、串木野郷にある小さな港町・羽島浦から一路イギリスに向けて出航した。
(付記:当初イギリス派遣留学生として選抜された藩士は16名であったが、1名羽島で謎の変死を遂げたため(自殺だと考えられる)、実際にイギリスに向けて出発したのは15名となった)
 薩摩藩英国留学生を乗せた船が出航してから三日経った3月25日。
 高見と一緒に留学した薩摩藩士・松村淳蔵の日記によると、この日、船上で留学生達が髷(まげ)を切り、断髪したことが記されている。留学生達は髷を切ることによって、イギリス留学にかける強い決意を示したのである。
 留学生が揃って断髪したこの日、昨日からの雨が降り続いていた。この雨を見て、髷を切った高見は、あの日のことを思い出していたのではないだろうか。
 忘れられないあの雨の日のことを……。

 文久2(1862)年4月8日、夜の出来事であった。
 激しい雨が降りしきる中、高見は刀を手に持ち、高知城下帯屋町のとある屋敷の物陰に身を潜め、ある人物が通りかかるのを待っていた。
 そこへ提灯持ちを先頭にして、夜陰の雨の中を傘をさした一人の男が歩いてきた。
 その瞬間、高見の側にいた土佐藩士の那須信吾と安岡嘉助が通りに躍り出た。

「元吉どの、お国のために参る!」

 那須はそう叫ぶと、傘をさした男に斬りかかった。
 高見弥市、いやその時、大石団蔵という名であった彼は、同じく通りに飛び出し、提灯持ちと従者を追っ払った後、傘をさしたその男の背後から斬りつけた。
 激闘の末、傘をさしたその男は、その場にドッと倒れこんだ。
 斃れたその男の名は、当時土佐藩の参政を務めていた吉田東洋であった。
 土佐藩の藩論を巡って、吉田東洋と意見が対立していた土佐勤王党の武市半平太は、最終的な手段として、大石・那須・安岡の三人を刺客に選び、彼を暗殺したのである。
 当時、大石団蔵と名乗っていた高見が土佐藩を脱藩せざるを得なくなったある理由とは、吉田東洋を暗殺したことだったのである。

 吉田東洋暗殺から三年後、脱藩当時は暗殺者のレッテルを貼られていた高見であったが、今や彼は薩摩藩から選抜された立派な留学生として、イギリスに向かう船上にいた。
 吉田東洋を暗殺したあの日と同じく、雨がそぼ降る中、髷を切り落とした時の高見の心中に去来したものとは、一体どんな思いであったのだろうか……。
 それを確かめる史料は何も残されていないが、その時、彼が真の意味で暗殺者から留学生へと新しい人物に生まれ変わり、新たな人生の第一歩を踏み出したことだけは確かなことである。


参考:鹿児島史学第29号所載「薩藩海外留学生高見弥市について」(山田尚二)



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