薩摩藩の軍港・久見崎港跡(鹿児島県薩摩川内市)



第十一話「春日丸物語」
 戊辰戦争のクライマックスとなった箱館の五稜郭を巡る攻防戦、「箱館戦争」については数多くの逸話が残されている。
 その中でも、旧幕府艦隊が計画した軍艦奪取作戦、いわゆる「アボルダージュ作戦」が行なわれた「宮古湾海戦」は、その華々しさの反面、多くの死者を出す悲劇性を伴ったがゆえに、現在でも長く語り継がれているエピソードの一つである。

 明治2(1869)年3月25日、箱館五稜郭を本拠にし、新政府軍との徹底抗戦を決め込んだ旧幕府軍は、新政府軍の最新鋭軍艦「甲鉄」の奪取作戦を企て、旧幕府艦隊所属の「回天」、「蟠龍」、「高雄」の三隻を箱館から出撃させた。
 しかしながら、その三隻が新政府軍艦隊が集結していた宮古湾に到るまでの間に、悪天候や機関故障などが理由で、「蟠龍」と「高雄」の二隻が脱落したため、残った「回天」一隻のみが無謀にも軍艦奪取作戦を決行せざるを得なくなった。
 回天が試みた接舷攻撃による軍艦奪取戦術は、フランス語で「アボルダージュ」と呼ばれたことから、この破天荒な軍艦奪取作戦は、別名「アボルダージュ作戦」とも呼ばれたのである。

 旧幕府軍所有の軍艦「回天」が新政府軍の軍艦「甲鉄」にアボルダージュを決行した際、同じく宮古湾内に一隻の軍艦が碇泊していた。

 薩摩藩の軍艦「春日丸」である。

 春日丸は、元の名を「キャンスー号」と言い、元イギリス船籍の軍艦であった。
 幕府との対立姿勢が次第に強まり、軍艦購入の必要に迫られていた薩摩藩は、長崎のグラバー商会の仲介で、慶応3(1867)年11月3日、16万両もの大金を投じてキャンスー号を購入し、その軍艦を「春日丸」と命名した。
 春日丸という名は、その昔、豊臣秀吉から朝鮮出兵を命じられた島津家が建造した軍船の名前であり、朝鮮の役において活躍し、名艦として薩摩にその名を残していた。


「見えた見えたよ松原越しに あれが薩摩の春日丸」


 これは鹿児島県出水地方に伝わる俗謡の一節であり、それほど春日丸の名は領内に知れ渡っている存在であった。
 イギリスから購入した軍艦に、往年の名艦としてその名を残していた「春日丸」という名前を付けたことからも、薩摩藩にとって春日丸という名は、非常に大切に語り継いできたものであったと言えよう。

 春日丸は、300馬力を誇る1015tの大型艦で、長さ74m、幅9m、大砲6門を搭載し、箱館戦争においては、甲鉄に次ぐ新政府軍の主力軍艦であった。
 また、春日丸は最大で16ノット(約30キロ)の速力を出すことが出来、この点では旧幕府軍の最新鋭の軍艦であった「開陽丸」の12ノットを大きく上回っていた。
 薩摩藩関係の記録には、

「唯其速力の迅速なるには一驚を喫せさる者なかりしと云う」

 と書き記されている。
 このことからも、春日丸の速さは、当時日本に存在した軍艦の中でも指折りのものであったことがうかがわれる。

 明治2(1869)年3月8日、二代目「春日丸」は、江戸品川沖を抜錨し、一路北を目指すことになった。向かうは、榎本武揚を中心にした旧幕府軍の本拠地、蝦夷箱館の五稜郭である。
 甲鉄を筆頭にした新政府艦隊は、3月21日までに南部領宮古湾鍬ヶ崎に集結を終え、箱館に向けて出撃態勢を整えていたのだが、天候不順のため出航を見合わせていた。
 一方五稜郭の旧幕府軍本営では、甲鉄を拿捕するアボルダージュ作戦が計画されており、回天以下の旧幕府艦隊が宮古湾に向けて出撃していたのである。
 回天が宮古湾に近づいている最中の3月24日の夜、新政府軍陣営にある事件が起こった。
 陸軍参謀の薩摩藩士・黒田了介(後の清隆)が、海軍参謀試捕の佐賀藩士・石井富之助の元にやって来て、


「今受け取った情報によると、南部領のある港に敵艦が現れたとのことである。海軍は斥候を出した方が良いのではないか?」


 と提案したが、石井は、


「この地は元来敵地に等しく、色々な虚説・虚報が多い。その類に過ぎないだろう」


 と黒田の提案をまともに受け入れず、相手にしなかった。
 そのため、黒田と石井が数十分間に渡って激論となり、最終的には黒田は、


「海軍とはそんなものか!」


 と捨て台詞を吐いて、部屋から怒って出ていってしまったと伝えられている。
 翌日、この黒田の心配が的中し、回天によるアボルダージュ作戦が実施されたことを考えると、黒田が手に入れていた情報は、非常に正確なものであったと言えよう。
 黒田と石井の激しいやり取りがあった夜、甲鉄を始めとする新政府艦隊の乗組員らは、船から降りて鍬ヶ崎に上陸し、宿泊して長旅の疲れを癒していたのであるが、唯一春日丸の乗組員だけは、入浴以外の上陸を一切許されず、終日厳戒態勢をしいていた。
 旧幕府軍のアボルダージュ作戦前夜、新政府艦隊の中で全乗組員が艦内に揃っていた軍艦は、薩摩藩の春日丸一隻だけであったと伝えられている。

 そして、迎えた翌日の3月25日。
 旧幕府軍のアボルダージュ作戦は実施され、回天は甲鉄を奇襲した。
 春日丸は甲鉄のすぐ北方に碇泊し、回天からも一番近い距離に居たことと、前夜から警戒態勢を整えていたため、どの艦よりも早く、回天に対して艦砲射撃を行ない、急襲された甲鉄を援護した。
 その結果、旧幕府軍の計画したアボルダージュ作戦は失敗に終わった……。
 また、その後の春日丸はと言うと、箱館戦争において活躍し、初代の春日丸と同様に、名艦として、歴史に名を刻むことになったのである。

 時は流れて、宮古湾海戦から36年経った明治38(1905)年5月27日、日露戦争における「日本海海戦」において、「春日」という名を持った軍艦が再び登場する。
 三代目の春日艦である。
 しかしながら、この三代目の春日艦は、昭和20(1945)年7月18日、神奈川県横須賀において爆撃に遭い、海底の奥深くに沈むこととなる。
 初代の春日丸が建造された文録元(1592)年から、三代目の春日艦が横須賀の海底に沈むまでに353年という長い月日が経過していた。
 この長い年月からも察せられるように、春日丸という名は、今でも日本の海軍の歴史を語る上で欠かせないものとなっている。



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