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大久保利通誕生地(鹿児島県鹿児島市) |
第十二話「大久保利通と囲碁」
現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館において、『重要文化財 大久保利通関係資料』という企画展が開催されている。
平成16年3月19日、文化審議会からの答申により、薩摩藩出身で明治維新に活躍した大久保利通についての関係資料が、国の重要文化財に指定されることになった。現在、鹿児島の黎明館で開催されている企画展は、それを記念してのものである。
今回、国の重要文化財に指定された大久保利通関係資料は約4600点。その内、約100点もの貴重な資料がこの企画展において展示されているのだが、その展示品の中に「大久保利通愛用の碁盤と碁石」というものがある。
もちろん、この碁盤と碁石も重要文化財の一つである。
大久保利通と言えば、唯一の趣味が囲碁であったと言われるほど、碁を打つことを好んだ人物であった。
大久保の次男であり、後に政治家として活躍した牧野伸顕は、その父の思い出話として、
「娯楽は碁で、退屈したり、頭を使い過ぎたりした時は、碁を囲んで慰めていたようである」
と後年語り遺している。
普通であれば、頭を使い過ぎた時には、何も考えずに休みたいと思うのが一般人の考えであろうが、さらに囲碁という頭を使うことでリラックスしていたというのは、いかにも頭脳明晰であった大久保らしいエピソードである。
それでは、大久保はいつ頃から囲碁を嗜んでいたのだろうか?
企画展『重要文化財 大久保利通関係資料』には、嘉永元(1848)年正月4日に書かれた大久保の日記が展示されているが、そこには次のようなことが書かれている。
「八ツ前牧野氏被訪碁打相企三番打、拙者勝負マケいたし候」
この日記の記述によると、午後二時前に牧野(喜平次)という人物が大久保宅を訪れ、三回勝負の囲碁を打ったが、大久保が勝負に負けてしまったということである。
当時の大久保は、まだ若干17歳の若者である。この日記の記述からも、彼が若い頃から囲碁を好み、そして趣味にしていたことは明らかであろう。
そして、大久保はこの唯一の趣味である囲碁を通じて、後に薩摩藩の政治への中枢へと近づくことを考えるのである。
島津家第29代の薩摩藩主・島津忠義の実父である島津久光が、囲碁が唯一の趣味であるということを知った大久保は、久光の囲碁相手であった鹿児島城下吉祥院の住職を務めていた乗願に近づき、彼を通して久光に自分や同志達の名を売ろうと考えた。大久保は乗願と碁を打つ際に、それとなく自分の志や同志達の考え・動向などを話し、それを自然と久光の耳に入るように画策したのである。
その甲斐あって、大久保は身分の低い下級藩士であったにもかかわらず、久光に目をかけられて取り上げられることになり、彼は一躍薩摩藩重役の座にまで上りつめることになるのである。
大久保は唯一の趣味である囲碁を使って、出世の道をつかんだと言えよう。
大久保の死後から91年も経った昭和43年、日本の囲碁団体である日本棋院は、大久保に対して、「名誉七段」の免状を与えることを決定した。これまで書いてきたように、大久保利通と囲碁は、数々のエピソードで彩られていることから、それを顕彰しようとする動きが出たためである。
ただ、大久保自身が本当に七段までの腕前を持っていたのだろうか?
それを詮索することは下世話な話かもしれないが、意外と大久保の囲碁の腕は、下手の横好き程度だったのかもしれない。
しかしながら、大久保にとっての囲碁は、唯一の大事な趣味であり、例え名誉の七段であったとしても、天上の大久保はその受賞を喜んでいるような気がする。
(本文は、平成16年6月8日(火)〜8月31日(火)まで鹿児島県歴史資料センター黎明館において開催された企画展『重要文化財 大久保利通関係資料』を見学した後に執筆したものです)