薩摩藩の定宿・寺田屋跡(京都市伏見区)



第十三話「武士よりも武士らしく−森山新蔵と新五左衛門−」
 江戸時代には「士農工商」という身分制度が存在し、何事においても武士が優先される時代であった。
 しかし、時が幕末ともなると、その身分制度は次第に形骸化し、武士だけではなく、様々な階級出身の人物が活躍した。
 例えば、平成16年に放映された大河ドラマ『新選組!』の主役である近藤勇は、武州多摩郡の百姓出身の出身であるし、その他、庄屋、医者、商人など、様々な出自の人物が幕末に活躍している。
 薩摩藩士・森山新蔵とその子の新五左衛門の親子もまた、正式な藩士の身分ではありながらも、元々は武士の出ではなく、商人の出身であった。

 元々森山家は、漁業、商業、農業などを手広く営む富裕な商家であった。その森山家が武士として名を連ねるようになったのは、次のような事情からである。
 幕末期に入る少し前、薩摩藩は500万両という、現代のお金に換算すると1500億円以上もの多額な負債を背負う財政難に悩まされていた。そのため、薩摩藩では領内の商人から借り入れた借金を整理する一つの手段として、その債権の放棄を条件に、商人を武士に取り立てるという特別な処置を行なった。当時、森山家の当主であった新蔵は、藩に対し多額な貸し付けを行なっていたため、この特別処置により、50石取りの武士に取り立てられることになったのである。
 しかしながら、当時、身分制度の厳しかった薩摩藩内では、そんな新蔵のことを

「金の力で武士になった」
「商人出身の成り上がり者」


 といった風に、さげすんで見る者が少なくなかった。
 新蔵はそんな周囲からの冷たい蔑視を跳ね返すためにも、

「商人出の武士だからこそ、本当の武士よりも武士らしくあらねばならぬ」

 と考え、息子の新五左衛門には常にそう教え諭し、当時、西郷吉之助(後の隆盛)や大久保一蔵(後の利通)が中心となって結成していた政治活動組織「誠忠組」に父子共々加盟し、積極的に政治活動に身を投じたのである。

 文久2(1862)年3月16日、薩摩藩主の実父である島津久光は、幕府の政治改革を実現させるため、精兵800名を率いて、京へ向かって出発することになった。
 その際、新蔵はその商才を見込まれて、兵士用の食糧買い付けの役目を命ぜられ、久光の行列に先立って先発することになった。
 武士として、いよいよ大きな使命を得た新蔵は、意気揚揚と薩摩を出発し、下関で同志の西郷吉之助と合流すると、そのまま大坂へ入ったのだが、新蔵の子である新五左衛門はと言うと、残念ながら久光の行列の従者には選ばれなかった。
 しかし、新五左衛門は「父と共に一緒に働きたい」という強い志を持っていたためであろうか、急遽脱藩して、父の後を追って大坂に入った。
 現在では何も記録には残っていないが、大坂で父子の対面があったことは間違いないと思われる。遠路はるばる大坂までやって来た息子に対して、新蔵はその手を取って、再会を喜んだことであろう。

 しかしながら、そんな二人の再会の喜びは、長くは続かなかった……。
 新蔵は、大坂において西郷と共に浪人や志士達を煽動したとのあらぬ疑いをかけられて罪を被り、船で薩摩に強制送還されることになったのである。
 新蔵と新五左衛門にとっては、これから父子で協力し、身命を賭けて立ち働こうとしていた矢先の不幸な出来事であった。
 このようにして、ただ一人だけ残される事になった新五左衛門は、久光の上京を機に倒幕のための挙兵を計画していた誠忠組の同志・有馬新七と共に行動することになったのだが、文久2(1862)年4月23日の夜、大きな悲劇が彼を襲った。
 有馬が中心となって「倒幕の挙兵」という、非常に過激な行動を起こそうとしていることを知った久光は、藩内から剣術に長けた藩士を選び、有馬達を説得するように指示し、


「もし彼らが藩命を聞かない場合は、臨機の処置をとれ」


 と厳命した。
 臨機の処置とは、即ち「上意討ち」にしても構わないという意味である。
 こうして久光に派遣された総勢九名の鎮撫士は、4月23日の夜、有馬達が集結していた京都伏見の船宿「寺田屋」に入ると、首領の有馬に面会を求め、過激な行動を慎むように説得したのだが、有馬がそれを拒否したため、鎮撫士の面々は久光の上意討ちの命令を実行に移した。

 これが世に言う、薩摩藩内部の同士討ち事件「寺田屋事件」である。

 鎮撫士九名とその場に居た有馬ら四名の薩摩藩士は、激しい口論の末、斬り合いに及んだ。その時偶然にも、新五左衛門は乱闘が行なわれていた寺田屋の一階にいた。
 彼は刀を二階の部屋に置いたまま一階の厠の中に入っていたのだが、座敷において乱闘が始まるや否や、唯一帯びていた短刀を引き抜いて、躊躇なくその斬り合いの中に飛び込んでいった。
 新五左衛門は、刀が無いからと言ってその場から逃げ去ることは、最も武士らしくない卑怯な振る舞いであると瞬時に判断したのである。日頃から「商人上がり」とさげすまれ、白眼視されていた父や自分にとっては、ここはいかに無謀なことであっても、一人の武士として、斬り合いの中に飛び込んで行かなければならなかったのである。

 しかしながら、久光から送り込まれた九名の鎮撫士達は、何れも名うての剣術使いであったため、新五左衛門が短刀だけで抵抗出来るはずも無く、彼は満身に刀傷を受け、気を失って土間に倒れこんだ。
 この薩摩藩士同士が相討つ事になった「寺田屋事件」は、負傷者七名、死者七名が出る非常に凄惨な事件となった。
 新五左衛門はと言うと、重傷を負いながらも命に別状はなかったが、残酷にも藩は彼に対して切腹を命じた。短刀であるとは言え、刀を抜いて斬り合いに参加したことが、久光の命令に抵抗したと取られたためであった。
 事件の翌日、新五左衛門は、父が送還された薩摩の方向を向いて深く頭を下げ、全身に傷を負って衰弱した身でありながらも、武士らしく潔く切腹して果てた。
 享年20歳の若さであった。その新五左衛門の立派な態度に、薩摩藩邸内の人々は皆感動したと伝えられている。

 息子の新五左衛門の切腹の知らせを父・新蔵は薩摩で聞いた。大坂から薩摩半島の南端にある山川港に送還された新蔵は、一切上陸を許されず、船中で藩の処分が下されるのを待っていたのである。
 寺田屋における新五左衛門の勇敢な斬り込みと、彼の立派な切腹の様子を、新蔵は肩を震わせながら聞いたことであろう。
 そして、「新五左衛門、よくやったぞ……」と涙を流しながら、息子のことを褒めたであろう。


「商人出の武士だからこそ、本当の武士よりも武士らしくあらねばならぬ」


 そう訓育して育てた我が息子が、誰よりも最も武士らしい働きをして死んだのだから。
 そしてその後、新蔵は息子の後を追うようにして、その船中で切腹して果てた。切腹の場には、遺書は無く、一首の辞世の句だけが残されていた。


「長らへて 何にかはせん 深草の 露と消えにし 人を思ふに」


 愛する息子を亡くした父親の悲しい気持ちが、痛いほど伝わってくる辞世である。



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