島津久光銅像(鹿児島県鹿児島市)



第十七話「参預会議崩壊 −島津久光の絶望−」
 島津家第29代当主で薩摩藩主の島津忠義の実父にして、幕末にも大きな影響力をもった島津久光は、根っからの公武合体論者であったことはよく知られていることです。
 そんな公武合体論者であった久光が、最終的に幕府を倒すこと、つまり「倒幕」に踏み切ったのは、薩摩藩史上でも長年の疑問とされてきました。当時の久光の心境を全て言葉で言い表すのは不可能だと思いますが、先に私自身の考えを書くと、久光が倒幕に踏み切ったのは、彼自身が幕府そのものに大きな失望と絶望感を持ったことが大きな原因であると考えています。

 明治に入って後、島津久光は西郷や大久保を中心とした明治政府と対立関係になったことから、後世の評価において頑迷な保守派のイメージが色濃く残っています。
 確かに、彼が保守的な考えを持っていた人物であることに異論を挟む余地はありませんが、ただ、久光という人物は、当時の大名としては非常に聡明で賢くもあり、幕末の政治史に大きな影響力を与え、多大な功績を持っている人物であるとも言えると思います。
 文久2(1862)年から久光が行なった「公武合体運動」、つまり朝廷と幕府を融和させ、日本の国内政治を運営していこうとする運動は、当時の日本の政治形態を決めるための非常に重要なポイントとなり、また幕府の命運を左右する大事なものだったのですが、幕府自体がその久光の行なった公武間の斡旋運動を頼りにしませんでした。
 つまり、幕府は久光の運動をまったく信頼していなかったのです。

 幕府が久光に良い感情を抱かず、信頼しなかったのは、久光が文久2(1862)年6月に兵を率いて江戸に入り、幕府に対して幕政改革を要求したことに始まります。
 この時、幕府は一外様大名である薩摩藩の、しかも藩主ではなく、また当時官位も持っていなかった久光から、幕府の政治体制に口を挟まれたことへの恨みが、その後年ずっと影響を与えていたと思われます。
 久光が真に日本のため、ひいては幕府のためを思い、必死に朝廷と幕府の間を周旋したにもかかわらず、その運動をまったく信頼せず、幕府自体が久光と敵対するような動きを取ったことが、久光をして幕府に大きな失望と絶望感を抱かせた大きな原因であると思います。
 その久光が幕府に絶望した大きなきっかけ、そして薩摩藩が大きく反幕態勢へと方向転換をする最後の大きな契機となったのが、「参預会議の崩壊」であったと私は考えています。

 「参預会議(制度)」とは、文久3(1863)年12月末に出来上がったもので、諸大名が朝議や幕議に参加するために新たに設立された政治制度です。
 この制度は、島津久光が提案し、公家の近衛家や中川宮(朝彦親王)を通じて朝廷に運動し成立させたものでした。参預という、現代の言葉で言うならば評議員を当時の有力諸大名の中から選出して朝廷がそれを任命し、その参預メンバーで構成された参預会議の運営の元に、日本の政策の協議を諮ろうと考えた政治制度が、「参預制度」と呼ばれるものです。
 久光は、朝廷、幕府、そして諸大名、この三つの勢力間の意志の疎通をはかるために、参預制度というものを考え出し、公武合体政策の柱となる中心の政治制度にしようと考えていました。
 当初その参預に任命されたメンバーは、当時将軍後見職であった一橋慶喜(後の徳川慶喜)を筆頭に、会津藩主・松平容保、前越前福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、前土佐藩主・山内容堂の五人でした。彼らの顔ぶれを見ると分かりますが、慶喜、容保といった幕府側の中心人物に加え、当時賢侯として注目されていた諸大名から三名の人物が参預に任命されています。当然このメンバー構成は、参預制度の生みの親とも言える久光自身が考え出したものです。
 しかしながら、その久光自身が当初の参預メンバーに入っていなかったのは、彼が当時無位無官であったためです。
 久光は薩摩藩主・島津忠義の実父であることから、薩摩藩内では大きな権力を持っていた人物でしたが、一旦その領内から出ると、言葉は悪いですが「ただの人」でした。徳川将軍から見れば、各藩の大名は陪臣にあたるわけですが、久光の身分は正式には薩摩藩の家臣にあたるため、つまり将軍家からはそのまた下の陪々臣という身分に過ぎなかったのです。
 このことについて、久光自身は生涯大きなコンプレックスを持っていたと思われるのですが、参預制度発足当時に彼が参預メンバーに選ばれなかったのは(いや、わざと久光自身が入らなかったと言えますが)、こういった理由からです。
 しかし、参預制度の生みの親である久光がメンバーに入らなくては、現実的に会議の運営に支障をきたすため、参預制度発足からやや遅れて、翌年の元治元(1864)年1月13日、久光はようやく参預に就任することになりました。この日、久光は参預就任と同時に、初めての官位である「従四位下左近衛権少将」に任命されたからです。
 生まれて初めて官位という名誉を得た久光が、その自身の喜びを歌った歌が『島津久光公実紀』の中に出てきます。それは次のような和歌です。


「老いの波 たちそふ身にも 春の日の 漏れぬ光りに 逢ふぞうれしき」


 わざわざ意訳するまでもありませんが、「春の日の漏れぬ光」とは「朝廷の威光」のことを指しており、

「あまねく照らされる朝廷のご威光が、こんな老いた自分にも射してきたことが嬉しい」

 と、久光は自らの官位授与の嬉しさをこの和歌の中で歌っているのです。晴れて朝廷から官位を授かった久光の喜びが溢れ出してくるような和歌だと思います。

 このようにして、結局六名となった参預メンバーと、それに幕府の老中達を加えて参預制度はスタートしました。
 しかしながら、これがこの年の3月には、早くも瓦解してしまうのです……。つまり、参預会議は約三ヵ月間で終焉を迎えることになってしまったのです。
 その参預会議崩壊の大きな原因となったのが「横浜鎖港問題」です。
 参預メンバーの間で「開鎖問題(つまり日本を開国するか、そのまま鎖国するか)」について意見が対立し、「横浜港を開港するか、鎖港するか」という、いわゆる「横浜鎖港問題」に発展し、それを巡って慶喜・容保の二人と春嶽・宗城・容堂・久光ら四人の意見が対立しました。
 当時、久光ら四人の参預の主張は、「諸外国に宣言し、条約を結んでいる以上、横浜港は開港するべきである」という開国論でしたが、その久光らの横浜開港論に対し、慶喜と容保そして幕府の老中連中が強行に反対し、参預会議は当初から議論紛糾しました。

 江戸幕府最後の将軍となったことで有名な一橋慶喜は、元々は根っからの開国論者であったため、久光や春嶽も当初はそんな慶喜に対し、頑固なまでの攘夷論を主張する朝廷の意見や幕府の政策を変化させるための手助けになってくれるものと、大きな期待を寄せていました。
 しかしながら、参預制度がスタートし、実際フタを開けてみると、慶喜はまったく逆の鎖港論を展開し、久光らと意見が対立することとなったのです。
 では、なぜ開国論を持論としていた慶喜が、参預会議では久光らの開国論に反対したのでしょうか。
 この理由は『徳川慶喜公伝』や『昔夢会筆記』といった慶喜自身の伝記や回顧録の中に見つけることが出来ます。少し簡単にまとめて書きますが、当時の慶喜の本心は依然として開国論であったのですが、老中の水野忠精、酒井忠績といった幕閣連中が、


「開国論はともかく、薩摩藩主導の開国論には、幕府として断じて従うことが出来ない。これは江戸での御前会議で決定している。前年は長州藩の強硬な攘夷策に振りまわされ、今回は薩摩藩の開国策に従うということになれば、幕府には一定の見識がないものと思われ、幕府の威信にかかわることになる。攘夷が不可能であり、開国しか途がないことは分かっているが、薩摩藩の開国論には断じて従えない。もし、薩摩藩の開国論が朝議で採用されるのであれば、我等老中は共に辞職します」


 と自分に対して大きな圧力をかけたので、開国論を主張出来なかったと、慶喜自身が後年語り残しています。
 このことだけを考えても、当時の幕府の体制がいかに腐り切っていたのかがよく分かります。当時の幕府は、「開国・鎖国」という問題以前に、幕府の名誉や威信ばかりを気にして、一国の政策を決定しようとしていたのです。
 つまり、日本の将来には「開国しか途はない」と分かっていながらも、それが薩摩藩主導、つまり久光の提案と主導であることが気に入らないという理由で、その開国策に反対しようとしていたのです。体面ばかりを重んじて、真の正しい政策を取ろうとしなかった当時の幕府は、根っこから腐りきっていたと言えましょう。
 また、幕府が久光らの開国策に反対姿勢を取ったのには、別の大きな思惑もありました。

 当時の朝廷は、孝明天皇が骨髄からの攘夷主義者であったため、「攘夷・鎖国」を強く主張していました。そのため、当時の久光や春嶽といった参預は、このような孝明天皇を始めとする朝廷の強硬な攘夷政策を変化させようと苦労していたのです。
 しかしながら、幕府としては、朝廷の支持や好意、信頼を獲得するためには、朝廷の方針通りに「鎖国」を主張する方が、政策上非常に都合が良かったと言えましょう。
 つまり、幕府としては、この「開鎖問題」を利用して、薩摩藩等の諸大名勢力を朝廷から締め出し、幕府が朝廷を取り込む、即ち幕府主導による公武合体政策を実現させようと考えていたと思われます。
 また、当時の日本の状況は、全国的に「攘夷熱」というものが依然醒めやらぬ状態でしたから、幕府はその状況も考慮に入れて、反発が多く起こるであろう「開国策」をわざと唱えずに、敢えて「鎖国策」を主張したとも言えるでしょう。つまり、民情を考慮して、これ以上幕府が反感を買わないようにと考えたのです。
 当時、開国策を主張していた薩摩藩に対して、世間の評判が非常に悪かったことをうかがわせる内容が『鹿児島県史第三巻』の中に出ています。抜粋すると次のような記述です。


「当時民間の攘夷論なお強盛で、薩藩を開港説として論難し、或いは市中に貼り紙して慶永・久光等を非難攻撃する等のことがあった」
(『鹿児島県史第三巻』より抜粋)



 この記述を読むとよく分かりますが、当時攘夷策を主張していた朝廷の方策を変えようと努力していた薩摩藩の久光や越前藩の松平春嶽が、京都市中の民衆に非常に評判が悪かったことがうかがえます。
 こういった民情も考慮して、幕府は敢えて開国策を主張せずに鎖国論を展開したとも言えましょう。

 結局、幕府の鎖国策の主張によって、久光が期待した参預会議というものは、公武合体政策実現のための制度ではなく、政治権力の闘争の場と化しました。つまり、政策論争は棚に上げられ、幕府か諸藩、どちらが政権を握るかという権力争いの場と化してしまったのです。
 当時の島津久光は、幕府を軽んじたり、敵視したりするどころか、真に日本のために、そして幕府のために、幕府と朝廷を融和させて、そして両者を中心とした公武合体政策実現のために、懸命に朝廷と幕府の間を斡旋しようと色々と手を尽くしています。
 しかしながら、冒頭に述べたように、幕府はその久光の動きを信用・信頼せず、常に猜疑心を持って久光の行動を見ていたため、結局幕府は薩摩藩の開国論に反対することになったのです。
 また、慶喜という人物は、前述のとおり本心は開国論でありながらも、結局は幕閣の圧力に押し切られて、自らが考えもしていない鎖国論を主張し、最終的に参預会議を瓦解させたのですから、その罪は非常に大きいと断ぜざるを得ません。それほど久光が考案した「参預会議」というものは、幕府にとって、非常に重要なターニングポイントだったのです。
 なぜならば、この参預会議の破綻により、諸藩の幕府離れは一層加速され、「反幕・倒幕思想」というものが大きく浮かび上がってくる転機ともなったからです。

 前述した慶喜の後年の回顧談、つまり「自分は開国論であったが、幕閣の意志が鎖国論であったので、それに従わざるを得なかった」ということは、果たして全ての真相を言い表わしていると言えるでしょうか?
 いや、私はそうではないと考えています。
 確かに、幕府の最高責任者として参預会議に出席していた慶喜にとって、老中ら幕閣の意志を尊重する立場にいた苦労も理解は出来ますが、慶喜自身もまた、薩摩藩主導の開国論に対して、やはり大きな抵抗感を感じていたのではないかと思うのです。
 また、慶喜と久光は性格的にも正反対で、この後「犬猿の仲」ともなりますから、この辺りからも慶喜が開国論を捨て、参預会議の瓦解に力を入れた原因の一つともなっているかもしれません。
 結局は慶喜という人物もまた、幕府という組織の中の人間の一人として、つまり日本の将来よりも幕府の利害を考えて行動してしまったのだと思わざるを得ません。

 この参預会議の瓦解によって、公武合体政策というものは完全に破綻を迎えることになります。
 幕府が鎖国策を主張した理由には、これまで挙げた様々な要因があるわけですが、国の行く末を決める政策について、薩摩藩主導が嫌だからというような体面的な理由で鎖国論を主張し、久光が朝廷や幕府のために良かれと思って考え出した「参預会議」を瓦解させたのですから、幕府は自分で自分の首を絞めてしまったと言わざるを得ません。
 島津久光は自らが考案した参預会議の崩壊によって、幕府に対して大きな失望と絶望感を感じ、そして幕府ありきの政治体制では、もはや日本は成り立っていかないということに気づき始めます。
 そして、薩摩藩の政治方策は久光が主張していた「公武合体」から「反幕」へとその後徐々に切り替えられることになり、それが大きなうねりとなって「倒幕」へと変化し、そしてその後、幕府は衰亡の一路を辿ることになるのです。




(あとがき「続・参預会議崩壊 −薩摩藩の反幕と新旧交代−」)
 島津久光という人物は、根っからの公武合体論者であったということは本文中にも書いたとおりですが、では参預会議が崩壊後、彼がすぐに倒幕論者に転じたというわけではありません。本文中の最後に「反幕」という言葉を使いましたが、参預会議崩壊後の久光には、まだ「倒幕」などという大それた考え方は生じておらず、幕府に対する大きな失望と絶望、そして反感を持ったというのが、当時の彼の心情を適切に表現しているのではないかと思われます。その意味において、参預会議後の薩摩藩は「反幕」に転じたと言えると思います。

 よく誤解される場合が多いのですが、薩摩藩は慶応年間(1865年以後)に入って後は、倒幕を大きな政治目標として突き進んでいたと言われますが、それは大きな間違いです。薩摩藩が倒幕へと踏み切ったのは、つまり倒幕を決断したのは、ほんとうに最後の最後、慶応年間の最終段階の決断であって、それまでは倒幕という行動を取ることに関しては、藩内でも大きな異論や反論が起こっています。
 西郷や大久保といった、いわゆる藩内でも革新派や倒幕派と呼ばれた人物は、既に幕府が「無用の長物」になっていることを早くから認識していたので、何とかして薩摩藩自体を倒幕の方向に導こうと懸命な努力をしていますが、そんな彼らの動きは、実は藩内でも一部の小勢力であったとも言えると思います。

 久光が最終的に倒幕を決意した理由は、本文中にも書いた幕府への絶望感がその元となっていることは間違いありませんが、それ以外にもいくつかの理由が挙げられると思います。
 そのことについては、いずれ詳しく検証したいと思っていますので、是非今後の「テーマ随筆」並びに「薩摩的幕末雑話」をご期待下さい。皆さんが納得出来るような「なぜ久光が倒幕を決意したのか?」について、当時の久光の心理状態の深層に迫ってみたいと考えています。

 最後になりましたが、久光が参預を辞職した日は、元治元(1864)年3月14日のことです。実はこの日は、西郷吉之助(隆盛)が遠島の罪を許されて、沖永良部島から薩摩に帰還し、そして京都に到着した日でもありました。
 つまり、参預制度の崩壊によって、公武合体を捨てざるを得なくなった久光に代わり、今度は倒幕を心中で期している西郷が薩摩藩の政局の表舞台に登場してくることになるのです。
 いわゆる「薩摩藩の新旧交代」とでも申しましょうか。この辺りの歴史の偶然、いやこれは限りなく必然に近いものなのかもしれませんが、本当に面白いものと感じずにはいられません。




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