西郷隆盛銅像(鹿児島県鹿児島市) 大久保利通銅像(鹿児島県鹿児島市)



第十八話「史料から見た若き日の西郷と大久保」
 「西郷と大久保」と言えば、明治維新の立役者であり、幕末・維新の英雄として現代にもその名が語り継がれています。
 ただ、この二人の活躍は倒幕を中心とした時期について語られることが多く、二人が若い頃、つまり十代、二十代といった青年期の頃については、どちらかと言うと余り語られることがありません。
 青年期の二人のことについては、現代に遺されている史料が非常に少ないことから、伝承を基にして語らざるを得ないため、このような傾向になっていると思うのですが、今回の「薩摩的幕末雑話」では、現代に伝わっている数少ない史料を出来るだけ基にして、二人の若き日の生活や行動などを簡単に紹介したいと思っています。
 また、西郷の若い頃については、日記などの史料が非常に少ないため、本稿では大久保の史料を中心にして構成していくことにします。

 まず、西郷と大久保を史料面から知る上で重要な手がかりとなるのは、『西郷隆盛全集』(大和書房)と『大久保利通文書』(日本史籍協会編)の二つであると言えるでしょう。
 『西郷隆盛全集』は全六巻、『大久保利通文書』は全十巻の大作で、これらの史料集には二人の書簡や建白書などの文書類、また日記や漢詩、和歌といった二人の書き残したものなど、数多くの一次史料が収載されています。
 今回はこの二つの史料集を基にして、西郷と大久保を語ってみたいと考えていますが、これら二つの史料集を調べてみると、現代に伝わっている二人が出した書簡(手紙)の中で最も古い物には、ある一つの共通点があります。
 その共通点とは何だと思われますか?
 実は二人が出した最も古い書簡は、ともに借金関係のものなのです。大久保の書簡は借金の証文(借用書)であり、西郷は借金をしたことに対する礼状です。

 西郷と大久保ということなので西郷隆盛の方から先に書くべきなのかもしれませんが、ここでは敢えて大久保利通から先に書いてみたいと思います。
 何事においても、大久保は西郷の後で語られることが多いばかりか、西郷を中心にした物語の脇役として語られることもあるため、今回はそんな大久保に敬意を表して、大久保を中心にして語っていきたいと思います。
 前述しましたが、現代に伝わっている大久保が出した書簡の中で最も古いものは借金関係のもので、嘉永4(1851)年6月28日付けで書かれた森山與兵衛に宛てた借金の証文です。この証文によると、この時大久保は森山から14両1分というお金を借り入れています。

 少し本題からそれてしまいますが、この時大久保が借金した金額を把握するために、この当時の1両とは現代のお金に換算するといくらくらいになるのかを考えてみたいと思います。
 ご興味のある方もおられると思いますので、少し面白い計算方法で計算してみることにしてみましょう。今回は大久保が生まれた天保期に作られた小判の中の金の含有量を基にして、現在の貨幣価値に換算してみたいと思います。
 天保小判には、金分が約6.36g含有されていました。そこで現在の金相場を調べると、金1gあたり約2,000円前後の値がついていますので、ここでは一応金1gあたり2000円と仮定して計算すると、当時の1両は12,720円となります。
(付記:金相場は平成17年12月現在。ここ最近金相場は非常に高騰しています)
 しかし、当時の貨幣価値は現代のお金に換算すると5〜10倍以上と思われますので、ここでは便宜上最低倍率の5倍をかけることにすると、1両は約63,600円となります。
(付記:時代が幕末に近づくにつれ、貨幣価値は急激に下落しています。慶応年間では、おそらく約3倍程度をかけるのが妥当ではないかと思います)
 このようにこの計算方式で当時の1両を換算すると、大久保が借りた14両1部というお金は、現代の906,300円となります。(1分は1両の4分の1の額です)
 つまり、大久保は嘉永4(1851)年に100万に近いお金を森山から借りたということになるでしょう。

 大久保がこの嘉永4(1851)年という時期に、100万近い大金を借りたのには一つの理由があります。
 大久保の父は次右衛門利世、母はフクと言い、大久保は一男四女の二番目の長男として天保元(1830)年8月10日に誕生しました。
 父の利世は「琉球館」付けの役人であったことから、その生活は比較的裕福なものであったのですが、その利世が薩摩藩のお家騒動である「お由羅騒動」に連座して罪を被り、嘉永3(1850)年4月に喜界島に遠島されることになると、生活状況が一変し、大久保家の財政状況は逼迫しました。
 また、残された唯一の男手であった大久保自身も、当時就いていた記録所書役助(きろくじょかきやくたすけ。記録所の事務員)という職を父の遠島の影響で免職になり、大久保家の収入はゼロに近いものとなったのです。
(付記:琉球館とは、琉球(現在の沖縄県)を通じて運ばれてくる貢物など、進物の受け取りを検査する役所。現在の鹿児島市立長田中学校の敷地内にあり、校庭隅にその記念碑が建てられています)

 ここで少しだけ余談を挟みますが、大久保の父である利世の遠島先は、従来喜界島説が有力であったのですが、『大久保利通文書』の中の『大久保利通年譜』には、利世の遠島先が沖永良部島と書かれていることから、両説についてはっきりとした確証がありませんでした。
 しかしながら、薩摩藩近代史研究の大家であられる芳即正氏が、平成17年4月に出された著作『芋侍奔る』(高城書房)の中で、若き日の西郷や大久保が師事した有馬一郎の日記である『有馬一郎日記』の記述を引用して、利世の遠島先の喜界島説の裏付けを取っておられます。ご興味のあられる方は是非お読みになって下さい。

 閑話休題。
 本題に戻って、大久保が森山與兵衛に借金を行なった嘉永4(1851)年6月という時期は、前述したとおり、父の利世が喜界島に遠島中であり、大久保自身も免職中であったため、まさに大久保家の財政は火の車でした。このような理由から、大久保は森山から大金を借金せざるを得なくなったのです。
 また、現代に伝わる伝承によると、この当時の大久保は西郷の家に頻繁に出入りし、食事を共にしたり、西郷から家計の援助を受けたりと、二人の関係は密接なものであったと伝えられていますが、本稿は「史料から見た若き日の西郷と大久保」というものですから、それら伝承の紹介は本題からそれるため、ここでは触れないでおきたいと思います。

 ここで話はずっと先に飛んでしまいますが、安政6(1859)年1月、西郷が「安政の大獄」の影響で奄美大島に身を隠さざるを得なくなった後、誠忠組(西郷や大久保ら若き藩士達が結成していた政治グループ)の首領、つまりリーダーは大久保へと引き継がれることになりました。
 当時の誠忠組の中には有村俊斎(後の海江田信義)や大山正円(後の大山綱良)など、江戸や京都に出て見聞を広めていた者が多数いたにもかかわらず、そんな彼らではなく、薩摩藩領からほぼ出たことのない、つまり世の中のことを知らないはずの大久保が誠忠組のリーダーとして頭角を現したのは、特筆すべきことであると思います。
(付記:安政4(1857)年11月、大久保は一度だけ西郷に連れられて熊本の長岡監物の元を訪ねています)
 これは大久保自身にリーダーとしての風格や資質があったこともさることながら、大久保の青年期の経験、つまり父が琉球館詰めの役人であり、大久保自身も琉球館の役宅に居住し、琉球を通じて入ってくる情報や珍しい産物に触れる機会が多かったため、外に出て見聞を広めた者にひけを取らないほど、国内や世界情勢に詳しかったのです。この青年期の経験が大久保自身の人間形成にどれだけ役に立ち、影響を与えたかは計り知れず、また、藩外を知らない大久保が、同世代の若者の間でも一目置かれる存在となった理由であったと思われます。

 さて、ここからは西郷の方に話を移しますが、西郷が出した書簡の中で最も古いものは、大久保の書簡から遡ること三年前、嘉永元(1848)年2月17日付けで板垣与右衛門・同休右衛門に宛てて書かれた借金に対する礼状です。この時、西郷は板垣家から何と100両もの大金を借り入れています。
 前述した計算方法で現代の金額に換算すると、100両は6,360,000円という大金になります。また、西郷家はその以前にも同じく100両というお金を板垣家から借り入れており、都合200両、つまり西郷家は現代のお金に換算すると1200万円ほどの借金をしているのです。
 この時、西郷家が大久保家の13倍以上の莫大な借金をした理由は、禄高の買い入れのためでした。この西郷家の禄高購入の件については、芳即正氏がその著書『天を敬い人を愛す−西郷南洲・人と友−』(高城書房)の中で、「西郷家貧乏物語」として詳しく書いておられますので、ご興味のあられる方は是非ご覧になってみて下さい。
 ただ、ここでは西郷家の禄高購入の件を詳しく書くのは本題からそれますので、その概略のみを簡単に書いてみることにします。

 西郷家、いやこれは大久保家にも通じることですが、両家ともその家格は士分(武士)の中では下から二番目の「御小姓与(おこしょうぐみ)」と呼ばれるものでした。よく御小姓与を士分では最下級の身分であったと書かれているものも見受けられますが、それはその下の「与力」を士分として扱っていないためだと思われます。
 しかしながら、厳密に言えば与力も家格は士分の扱いですから、ここでは下から二番目と位置付けたいと思います。
 前述したとおり、大久保の父の利世は琉球館付けの役人であったことから、大久保家は御小姓与の中でも、その生活は比較的に裕福な部類であったと思われますが、西郷家の場合は、父の吉兵衛が勘定方小頭の役職に就いていたとは言え、西郷を始めとする四男三女、それに吉兵衛夫妻にその父母を加えた合計十一人という大所帯であったため、財政的には余裕はなく、その家計は非常に貧しいものでした。
 芳氏が「西郷家貧乏物語」の中で詳しく述べられていますが、当時の薩摩藩の武士達の中には実質無高の者が非常に多かったらしく、西郷家は元々四十七石の禄高を有する武士であったのですが、西郷が青年の頃には有名無実のものになっており、実質は無高であったようです。
 薩摩藩では武士の禄高の売買が許可されていましたので、西郷家の禄高は借金の抵当や生活費の工面のために既に売り払われていたのでしょう。このような家計の極度の貧窮状態を脱するために、西郷家では禄高の値の相場が下がった時に、板垣家から100両という大金を借金し、生活費の足しにするために禄高の購入を行なったのです。
 しかしながら、西郷家のその後の生活は決して楽にはなりませんでした。
 嘉永5(1852)年、これは大久保が借金をした翌年ですが、西郷の父の吉兵衛、母のマサ、そして祖父の龍右衛門、この三人が相次いで他界し、西郷家の財政は一層窮迫しました。そのため、三年後の安政2(1855)12月には、西郷は下加治屋町の屋敷を売り払い、上之園の借家に移り住んでいます。
 このように、西郷と大久保の最も古い書簡からは、若い頃の二人の生活は決して楽なものではなかったということがうかがえます。そして、このような貧困生活を耐え忍んだ苦労は、後に彼らが政治の場において活躍する一つの「こやし」になったことでしょう。大久保の諦めを知らない強靭な精神力、ことに挑んでは一歩も引かず動じない西郷の豪胆さ、これらの素地は彼らの青年期の経験の上に形成され、培われたと言えるのではないでしょうか。

 それでは、最後にもう一つ、若き日の西郷や大久保を知る上で重要な史料を紹介して、二人が若い時分どのような交流を持っていたのかを探ってみることにしましょう。
 その手がかりとなる史料とは、大久保が書き記した日記です。
 大久保の日記は、日本史籍協会が『大久保利通日記』(全二巻)を刊行しており、現代に生きる我々にも大久保が書き記した日記の記述を読むことが出来るのですが、『鹿児島県史料 大久保利通史料一』(鹿児島県歴史資料センター黎明館発行)の中に記載されている芳即正氏執筆の「解題」によると、大久保の日記は安政6(1859)年から明治10(1877)年までの原本が完全な形で大久保家に保管されていたそうですが、明治22(1889)年に起こった大久保家の火災により、その半ばが焼失してしまったようです。
 話は少し関連すると思うので書きますが、平成16年6月8日(火)から8月31日(火)にかけて、鹿児島県歴史資料センター黎明館において、企画展『重要文化財 大久保利通関係資料』が開催されたのですが、そこに大久保の日記の一部分が展示されていました。
 また、その展示会には、明治22年の大久保家の火災で焼け残った日記の断片も展示されていたのですが、焼失を免れたものでも、火災の影響からか紙が茶色に焼けて変色しており、当時の大久保家の火災のすさまじさをまざまざと感じさせるものでした。
 このような火災という予期せぬアクシデントが原因で、日本史籍協会の『大久保利通日記』(全二巻)は、残念ながら大久保の完全な形の日記とは言えないのです。
 また、焼け残った日記の始まりである安政6(1859)年と言うと、大久保は当時29歳ですから、青年と言うよりも、成熟した壮年へと移行する端境期です。そのため、この日記からは、青年・大久保や青年・西郷の姿を読み取ることが出来ないのですが、実は大久保の日記にはもっと以前の日記が一つだけ残されているのです。

 大正10(1921)年、大久保利通の三男である利武が、大久保家祖先の墓参りのため、現在の鹿児島県いちき串木野市川上を訪れた際、同地の大久保家の分家で嘉永元(1848)年の大久保利通の日記を発見しました。
(付記:平成17年10月11日、いちき串木野市の誕生に伴い住所変更。以前は日置郡市来町川上)
 嘉永元(1848)年と言えば、大久保が18歳の時の日記です。
 この新たに発見された日記は、嘉永元(1848)年1月1日から2月11日まで、6月1日から同月晦日まで、10月1日から同月晦日まで、11月10日から同月晦日までの、およそ100日間にわたるものでした。
 嘉永元(1848)年と言えば、大久保の父である利世は喜界島には遠島になっておらず、琉球館付けの役人であったため、大久保家の家計はゆとりのある時代でした。そのためか、この当時の大久保の日記には、平穏な日々の記述が書き連ねられています。
 また、この18歳当時の大久保の日記を読んでいると、一つ不思議なことに気付きます。この日記には大久保が親しく交わっていた友人の名や訪問者の名がたくさん記されているのですが、その中に西郷の名がほとんど出てきません。およそ100日間にわたる大久保の日記の中で西郷が出てくるのは、1月15日、6月8日、6月16日、10月14日のわずか四日間のみなのです。
 では、それら四日間の西郷と大久保の行動を具体的に書くことによって、当時の二人の交流を探ってみることにします。当時の大久保は18歳、西郷は2歳上の20歳です。

 まず、最初の記述に出てくる1月15日ですが、この日の大久保は友人四人と共に相撲見物に出かけ、その会場に西郷も友人三人と共に相撲を見に来ていました。大久保はその時の様子を

「加治ヤ町方黒木氏、亀山氏、西郷氏杯参被居」

 と日記に書き記しています。

 次に6月8日ですが、この日の大久保は午後四時頃に加治屋町に住む長沼嘉兵衛の元を訪ねているのですが、そこに偶然西郷達(人数不明)が居合わせていました。大久保はその時の様子を

「七ツ時より加治ヤ町嘉兵衛江差越候処、西郷杯被来居相咄」

 と日記に書き記しています。

 そして6月16日ですが、この日大久保は訪ねてきた石塚勇右衛門と共に加治屋町へ行き、加治屋町に住む西郷ら三人の所に出かけて行ったと書かれています。大久保はその時の様子を

「加治ヤ町へも差越、黒木氏、里村氏、西郷氏立越候而三所ニ差越候」

 と日記に書き記しています。

 最後の10月14日ですが、大久保はこの日鹿児島の恒例行事である「妙円寺参り」に参加しているのですが、その途中で西郷を含めた加治屋町の若者達六人と出会い、同道して伊集院町の妙円寺(現在の徳重神社)に参り、そして帰宅しています。大久保はその時の様子を

「加治ヤ町衆は平田氏、西郷氏、亀山氏、東郷氏、福島氏、上田氏同道、西田町橋ニ而相別れ候」

 と日記に書き記しています。
(付記:「妙円寺参り」とは、関ヶ原の合戦に出陣した島津義弘の遺徳を慕って、鎧や兜に身をかためた城下の侍達が、義弘の菩提寺である妙円寺(現在の徳重神社)までの往復40キロ余りの道のりを、夜を徹して歩き、当時の苦難を思い起こして士気を高めようとした行事で、現在も鹿児島で行なわれています)

 嘉永元(1848)年に西郷と大久保が接触した四日間の記述で分かりますが、どの日についても西郷が大久保を訪問したり、大久保が西郷を訪れたりしたというわけではなく、偶然に西郷と出くわしたり、たまたま大久保が出かけて行ったところに西郷が居たりと、二人が積極的に交流していた形跡がまったくありません。つまり、この当時の西郷と大久保は、お互い顔見知り程度の仲で、親しい友人関係ではなかったと言えるでしょう。
 西郷と大久保が親しく交わるようになり、そして伝承に伝えられるように、共に行き来して近思録の勉強会を開いたり、誓光寺の無参和尚の元に参禅しに行くようになったのは、おそらく大久保の父の利世が遠島されて後、嘉永3(1850)年4月以降のことであったと思われます。
 西郷も大久保もどちらかと言うと寡黙な人物ですから、顔見知り程度の時期には深く話すことも無かったのでしょうが、大久保が父の遠島によって琉球館の役宅を引き払わざるを得なくなり、加治屋町の邸宅に引っ越し、お互いが近所同士の付き合いを行なうようになってから、二人は互いに行き来して、親しく交流するようになったのではないかと思います。
 大久保の父の遠島が二人を結びつけるきっかけとなり、そしてその時から二人の交流は深まり、その後薩摩藩のために二人は力を合わして邁進するようになるのです。
 まさにこれが薩摩藩にとっての運命の出会いとなり、そして日本にとっても歴史的な出会いとなったと言えるのではないでしょうか。







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