桂久武墓所
桂久武墓所(鹿児島市南洲墓地)



第十九話「桂久武の弓矢」
 昭和21年6月に鹿児島市の第14代市長に就任し、その後三期にわたって市長を務められ、戦後の鹿児島の復興や鹿児島の市政に力を尽くされた故・勝目清さんは、鹿児島の郷土史家、そして西郷隆盛や西南戦争の研究家としても非常に著名な方でした。
 その勝目さんの遺稿集に『鹿児島つれづれ草』というものがあるのですが、この本の中に『戦争に使った最後の弓』という興味深いエッセイが書かれています。
 今回はその内容を少し紹介したいと思います。

 勝目さんは生前弓を習っておられたらしく、その弓の先生に吉田亮さんという方がおられたそうです。吉田さんは、西南戦争に薩軍の一員として従軍し、生き残られた方なのですが、勝目さんがこの吉田さんから直接聞いた話によると、「薩軍は西南戦争中に弓を使った」のだそうです。
 西南戦争と言うと、明治10(1877)年のことですから、弓矢などという原始的な武器は既に使用されていなかったように思えますが、薩軍が戦いに際して本当に弓矢を使用したのであれば、非常に興味深い話だと思います。
 勝目さんの弓の師匠であられた吉田さんは、藩政時代は薩摩藩の家老を務めた桂久武(かつらひさたけ)の部下として、西南戦争を戦いました。
 実はこの桂久武という人物もまた、弓の達人としても有名な人物だったのです。

 桂の実家は島津家の分家である日置島津家と呼ばれる家柄であり、その出身者には藩の要職を務めた者が多数出ています。
 例えば、桂の長兄にあたる島津下総(久徴)は、第29代藩主・島津忠義時代の主席家老であり、兄の田尻務(たじりつとむ)もまた、後年は久光の側役を務めるなど薩摩藩の要職に就いています。
 また、桂の次兄である赤山靱負(あかやまゆきえ)は、薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」に連座し、藩から切腹を命じられていますが、赤山は切腹の際に着用していた狩衣を西郷隆盛に授けるように遺言し、西郷はその赤山の血染めの狩衣を終夜泣きながら抱いて寝、赤山の志を継ぐことを決意したという逸話は非常に有名なものです。
 この赤山と西郷に交流の機会があったのは、西郷家が赤山家の生活の諸雑用等を行なう用達(ようたし。御用人のこと)を務めており、両家が非常に縁深い家柄であったためです。
 このような関係から、西郷は赤山の弟である桂とも親しく交わるようになり、両者の間柄は次第に深まり、まさに「刎頚の交わり」ともいうべき深い友情関係を結び、桂は西郷の無二の親友とも言える人物でした。西郷がこの桂に宛てた書簡の中には、自らの真の心情を吐露したものが多く見られ、また、西郷や大久保が中心となって起こした倒幕運動に関しても、桂は常に西郷らを庇護し、その後ろ盾としてバックアップし続けました。西郷や大久保が全藩一致での倒幕運動に邁進することが出来たのも、桂という存在があったお陰でもあったのです。

 明治10(1877)年1月30日、私学校生徒の陸軍火薬庫襲撃により始まった西南戦争において、桂は西郷の挙兵に最後まで反対の意見を持っていましたが、結局は自らも薩軍に参戦することを決めました。伝承によると、桂は西郷の出軍を見送りに行った際、西郷一人だけを見送るに忍びず、そのまま戦争に参加することになったと伝えられています。
 桂が自らの意にそぐわない参戦を決めたのは、ひとえに西郷との深い友情から出ているものに他なりません。それほど桂と西郷の友情は、非常に深く厚いものであったのです。

 西南戦争において、桂は薩軍の弾薬、食料、軍資金などを管理・運搬する大小荷駄隊の隊長を務め、後方支援の役目を任されることになりました。
 ある時、桂の部隊が北大隈の踊郷(現在の鹿児島県姶良郡牧園町)のある坂道の上に布陣した際、薩軍の陣があるのを知らずに、政府軍がその坂道を登ってきました。
 勝目さんのエッセイによると、その時、桂の隊にいた吉田さんは鉄砲を取り出し、政府軍目がけて撃とうとすると、隊長の桂がそれを制止し、


「ちょっと待て。おれが弓でやるから、やりそこなったら、鉄砲で打て」


 と命令したのだそうです。
 桂は下男に持たせてあった弓と矢を取り出し、坂の下の政府軍目がけて射込むと、それが見事に命中し、政府軍の兵が一人、坂下に転がり落ちました。
 勝目さんは、この桂久武が射た弓が「日本において、戦争に使った最後の弓であり、桂久武氏が、日本において、戦争に弓を使った最後の人ではないか」と書かれています。
 確かに、西南戦争は日本最後の内戦であり、その後も弓を使って戦争に出ることなどは無かったでしょうから、その可能性は否定出来ないものと思われます。
 この桂久武が使用した弓は、西南戦争中に桂自身が霧島神宮に奉納し、戦前は南洲神社の側にあった教育参考館に陳列されていたそうですが、太平洋戦争による鹿児島市の空襲によって、消失してしまったそうです。
 もし、勝目さんが書かれている通り、桂の弓が日本の戦争で使った最後の弓だったとすれば、ほんとうに貴重なものであり、それを焼失してしまったことは残念で仕方がありません。







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