薩摩藩留学生が旅立った羽島浦(鹿児島県串木野市)



第二話「旅立ちの歌−留学生たちの和歌から−」
 現在の鹿児島県串木野市に「羽島(はしま)」という小さな港町があります。
 遠く東シナ海を望む羽島浦は、古くは薩摩藩の密貿易の地として栄えましたが、現在ではその面影はなく、非常に静かな一漁村となっています。
 慶応元(1865)年3月22日、この羽島の港から19名の薩摩藩士が遠く異国の地・イギリスへ向けて出発しました。彼らが薩摩藩が初めて海外に派遣した留学生の一行です。
 当時、江戸幕府により日本人の海外渡航は禁止、つまり国禁とされていたので、彼らの旅はいわゆる密航であり、国禁を破る罪を犯した彼らの行為は、死を決した船出でもありました。彼らはイギリスに向けて出航する直前、自らが抱いた思いや決意を数首の和歌に託して、遠く異国の地へと旅立ったのです。

 イギリスに向けて派遣された留学生の中に、畠山丈之助(はたけやまたけのすけ)という人物がいます。畠山は当時23歳。彼は薩摩藩でも「一所持格(いっしょもちかく)」と呼ばれる家格の高い門閥の地位の家に生まれ、言わば将来を約束されていた若者でした。
 その畠山が、突然、藩庁からイギリス派遣留学生の一員として選抜されたのです。
 門閥家に生まれ、性格的にも保守的な考えを持っていた畠山にとって、藩からのイギリスへの留学命令は、まさに青天の霹靂(へきれき)であったと言えるでしょう。
 この突然の藩命に対し、畠山は洋行するということを一種の恥辱とまで考え込みました。そのため畠山は、「かかる時節に海外に洋行するのは納得がいかない」と藩に対して洋行命令を拒絶する姿勢を示したのですが、藩主・島津忠義の実父であった久光に直接説得され、ようやくイギリスへの洋行を決意しました。
 畠山は、イギリスへ向けて出発する当日、羽島で次のような和歌を書き残しています。

「かかる世に かかる旅路の幾度か あらんも国の為とこそ知れ」

 この和歌を見ると、畠山は国のため、主君のため、そして藩のためにイギリスに向かうということを懸命に自分に言い聞かせ、旅立ったことがよく分かります。和歌の中には、畠山の苦悩とそして悲壮な決意が込められていると思います。
 また、畠山は次のような和歌も詠んでいます。

「君か為 忍ふ船路としりながら けふのわかれをいかて忍ひん」

 この和歌歌からは先程の和歌と同様に、主君のためとは言え、人目を忍んで異国に旅立つことの辛さや悲しさが、非常によくあらわれているのではないでしょうか。異国の地へとひそかに旅立つ船出は、彼にとってまさに死を決した旅路であったのです。

 イギリスに派遣された留学生の中には、畠山のような門閥の家に生まれた人物だけではなく、身分の低い者も含まれていました。
 薩摩藩イギリス派遣留学生・市来勘十郎(いちきかんじゅうろう)は、扶持米わずか五石程度を給せられる下級武士でした。市来は、薩摩藩が設立した開成所(かいせいしょ)という教育機関に所属し、勉学に励んでいた藩士でした。開成所とは、元治元(1864)年6月に、薩摩藩内の洋学教育を目指して設立された機関のことです。
 市来は第一等書生として開成所で英学を専修し、非常に優秀な成績を修め、藩庁から派遣留学生の一員として選抜されたのです。門閥の家に生まれた畠山の場合とは違い、市来にとって、このイギリスへの留学命令は、まさに大きなチャンスであったと言えるでしょう。
 市来はイギリスへ向けて出発する当日、羽島で次のような和歌を書き残しています。

「花ならぬ 影も匂ひて羽島浦 更にゆかしき今日にもあるかな」

 薩摩藩の派遣留学生一行は、羽島浦で約二ヶ月の船待ちを強いられました。
 彼らの旅は、あくまでも人目を忍ぶ密航でした。そのため、羽島に到着後、すぐに出発しては怪しまれる恐れがあったため、出発の日は非常に慎重にならざるを得なかったのです。
 二ヶ月もの長き間、羽島で過ごした市来には、この小さな港町に何とも言えない愛着が沸いていたのでしょう。市来の和歌には、イギリスに旅立つにあたっての感情と羽島に感じた愛着とが入り混じって、非常に深い感慨を我々に感じさせてくれます。
 また、市来はもう一つの和歌を書き残しています。

「ますら雄の たけき心を振りおこし 出行すかた雄々しかりけり」

 先程の和歌では、市来は羽島とそしてイギリスに旅立つにあたっての感情を歌いましたが、この和歌からは、先程とは打って変わり、感傷的になった自分を打ち消し、渡航に向けて自らを奮い立たせようとする、洋行への大きな決意が込められています。

「いざ行かん、異国の地へ」

 市来は自分自身の中に宿っていた覇気を再び奮い起こし、和歌にその決意を込めてイギリスへと旅立ったのです。

 薩摩藩のイギリス派遣留学生達が詠んだ和歌を見ていると、イギリスへ旅立つにあたって抱いた彼らの感情や決意のほどが痛いほど分かるような気がします。
 彼らにとって、イギリスへの旅立ちは、異国の地にかける期待感、それに反して抱いた恐怖感や不安感、戸惑い、そしてこの旅立ちに死をかける悲壮感など、様々な感情が入り混じっての出発だったと言えるでしょう。
 慣れ親しんだ故郷を捨て、愛する家族と別れ、そして死を決した薩摩藩イギリス派遣留学生一行は、長い長い旅路へと出発することになるのです。



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