大久保利通関係資料チラシ
大久保利通関係資料展チラシ



第二十話『重要文化財 大久保利通関係資料』展を見学して
 現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館において開催されている企画展『重要文化財 大久保利通関係資料』を先日見学する機会に恵まれた。
 展示会場には所狭しとばかりに貴重な展示品が並べられ、それだけでもこの企画展の素晴らしさを十分に示すものであると感じたが、それら数多くの展示品の中で一際私の目を引いたのは、現在は国立歴史民俗博物館の収蔵品であり、その昔は大久保家が所蔵していた『近思録』(きんしろく)という冊子である。

 『近思録』は、中国の南宋の哲学者であった朱熹(朱子)と呂祖謙が共同で編纂し、1176年に刊行したもので、いわゆる朱子学の入門書であり、バイブル的な書でもあった。若き日の大久保利通は、同じ町内に住む西郷隆盛らと共に、この『近思録』を研究する勉強会を定期的に開いていたことはよく知られている。
 大久保や西郷が好んで『近思録』を研究していたのには一つの理由がある。
 彼らの先輩に秩父太郎という一人の薩摩藩士がいた。秩父は城下に聞こえた気骨ある人物で、薩摩藩が慢性的な財政難に陥っていた際、第26代藩主・島津斉宣に登用され、その重臣として財政改革を断行した人物であった。
 しかしながら、秩父が採った緊縮財政政策は、前藩主の島津重豪の怒りに触れ、藩主の斉宣は隠居、秩父ら財政改革推進派は切腹を命じられるという事件が起こった。
 これが薩摩藩のお家騒動の一つと言われる「文化朋党事件」である。
 また、秩父は常日頃から『近思録』を愛読し、秩父らのグループは「近思録派」と呼ばれていたことから、この事件は「近思録崩れ」とも呼ばれている。
 若き日の大久保や西郷が『近思録』を研究する勉強会を自主的に開こうと考えたのは、彼らが藩政改革に執念を燃やしながらも非業の死を遂げた秩父太郎を尊敬し、彼の持っていた高い志に少しでも近づきたいという願望があったからである。
 そして、この『近思録』の勉強会を通じて、大久保や西郷らは城下に住む志の高い若手藩士らとの交流を持つ機会を得ることになり、この「近思録研究会」は、やがて「誠忠組」と呼ばれる薩摩藩の若手藩士の政治活動集団へと変化し、幕末における薩摩藩の中心人物を数多く輩出することになるのである。

 現在、『重要文化財 大久保利通関係資料』に展示されている『近思録』は全部で四冊あり、それらは実際に大久保家が所蔵していたものである。
 その裏表紙には、

「弘化元年申春正月求之 全部拾四冊 大久保氏」

 と書かれており、弘化元年、つまり1844年、大久保が14歳の正月に買い求めたものであり、おそらく西郷達と机を付き合せて『近思録』を研究していた際に使用されたものであると思われる。
 裏表紙にも書かれてあるが、全部で十四冊あった『近思録』であったが、その内の十冊は、明治22(1889)年の大久保家の火災により、残念ながら焼失してしまった。
 また、焼け残った四冊もまた、激しい火災の様子を想像出来るような黒く焼き焦げた部分が多数見られる。
 このように大部分が焼け焦げていたとしても、大久保家がこの『近思録』を現代にいたるまで大事に保管していたのは、この書が大久保利通という人物の原点の一つを示すものであると考えたからではないだろうか。
 大久保利通が自らの志を高める際に用いた『近思録』の冊子。
 そこからは、若き日の大久保の熱い青雲の志が醸し出されているような気が私にはしたのである。


(本文は、平成16年6月8日(火)〜8月31日(火)まで鹿児島県歴史資料センター黎明館において開催された企画展『重要文化財 大久保利通関係資料』を見学した後に執筆したものです)







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