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四方学舎跡(鹿児島県鹿児島市) |
第二十三話「黒田清隆のこと」
黒田清隆と言えば、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文の跡を受け継ぎ、第二代内閣総理大臣に就任したことから、歴史上では非常に著名な人物です。
日本史の教科書などには、明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法発布時の総理大臣として記載されていますので、明治時代の政治家の中では名の知れた人物として世間一般に認知されているのではないでしょうか。
ところが不思議なことに、黒田の故郷である薩摩、つまり現在の鹿児島県には、彼を顕彰するような石碑や銅像が一つもありません。総理大臣を一度でも務めたことのある人物であれば、厳めしいくらいの大きな顕彰碑や銅像の一つくらいは、故郷の地に建っていそうなものですが、鹿児島には黒田の銅像はおろか、その誕生地にも石碑や看板の一本すらも建っていないのです。一般的に考えて、このような状況は少し異様な気がしますが、その謎を解くカギは、黒田の生涯の中に隠されていそうです。
江戸幕府が倒れる前のいわゆる幕末期。黒田は清隆という名ではなく、了介と名乗っていました。
当時、郷土の先輩であり、黒田が尊敬してやまなかった西郷吉之助(後の隆盛)は、黒田のことを非常に可愛がり、長州藩への連絡などの役目を負わせて重宝していますが、黒田もまた西郷に目をかけられていることを誉に思い、自ら西郷の跡を継ぐべく自任しているようなところのある人物でもありました。
黒田のことについては、西郷が明治5(1872)年1月12日付けで、西郷の親友である桂久武に対して宛てた手紙の中で次のように書いています。
これは西郷が、「五稜郭の戦い」で敗れた榎本武揚の助命嘆願に奔走していた頃の黒田のことを書いた部分です。
「是迄立て直し候儀は、黒田の誠心より此に至り申し候。実に頼母敷(たのもしき)人物に御座候」
(『西郷隆盛全集』より抜粋)
(現代語訳by tsubu)
「榎本を極刑にしようとする論をここまで寛大な処置論に変えさせたのは、黒田の誠心がさせたものだと思っています。誠に頼もしい人物です」
戊辰戦争最後の戦いとなった「五稜郭の戦い」において、黒田は新政府軍の陸軍参謀を務め、榎本武揚率いる旧幕府軍が立て篭もる箱館の五稜郭を攻撃する責任者の一人でした。
しかしながら、黒田は戦後一貫して敵将であった榎本の助命嘆願運動を行ない、そのために頭を丸めた黒田の姿を写した写真が残っていることは非常に有名な話です。
黒田は各方面に根気よく榎本の助命運動を続け、最終的に榎本の助命は成し遂げられました。西郷はその時の黒田の熱心な親身溢れる行動を賞賛したのです。
西郷の黒田評はまさに大絶賛です。西郷は黒田の人物を大いに買い、そして彼こそ次の世代を担い、そして引っ張っていく人物だと感じていたと思われます。
しかしながら、西郷が西南戦争で自刃し果て、そして大久保が暗殺という凶刃に斃れて以後の黒田という人物は、まったく精彩が無いと言うか、人が変わってしまったように凡人へと変貌してしまいました。
元々黒田という人物は、軍事方面の才能が豊富であった人物だと私は考えています。
しかし、西南戦争が勃発して西郷が亡くなり、その翌年に大久保が暗殺者の凶刃に斃れた二人の死後は、薩摩藩出身者にも人材が乏しくなり、黒田は薩摩藩閥を代表する人物として、政治の表舞台に立たざるを得なくなりました。言わば、政界というものは、黒田の才能とは全く正反対の縁の無い場所であったと思われたにもかかわらず、西郷と大久保の死後は、目立った薩摩藩出身者が居なかったため、黒田は政治の場に引きずり出されたような感があります。
こういった類のことは、土佐藩出身の板垣退助にも言えることです。
幕末期の土佐藩は、土佐勤王党の獄に代表される藩内の党争や池田屋事件などの様々な出来事により、武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎と言った、土佐藩の主だった者が相次いで維新前に亡くなったため、明治維新以後は土佐藩を代表する人物として、政界に身を立てざるを得なくなりました。
板垣が戊辰戦争において非常に優秀な軍事司令官であったことは、よく世間に知られていることですが、維新後に人材が乏しかった土佐藩閥としては、板垣が政治の表舞台に立たざるを得なくなってしまったと言えるでしょう。
(附記・もちろん板垣が軍事方面に役職に任官されなかったのは、軍事権を土佐藩閥に握られたくない、という薩長閥の思惑も大きく関連しています)
少し話がそれましたが、板垣の場合と同じく、黒田もまた、自らの意志というよりも、時代の流れが大きく左右して、政治の表舞台に立たざるを得なくなったと言えるのではないでしょうか。
また、もっと正確に言うならば、黒田は政治家としてやっていく自信があったのかもしれませんが、実際彼は薩摩藩閥を背負って立つような芸当が出来る人物としては、不向きな性格だったのかもしれません。
そんな黒田とは非常に対照的な人物が同じ薩摩藩出身者にいます。それは大山巌という人物です。
西郷の従兄弟であり、後年は陸軍元帥の地位にまで登りつめた大山は、自分の能力についてわきまえていたと言いますか、よく理解していた人物で、生涯軍事方面の官職にしか就きたがらず、誰に何と言われようが、そして請われようが、政界の表舞台に出ることは一切ありませんでした。
大山は軍人である自分が政治に口を挟むことを良しとしなかったこともありますが、自分自身が政治の世界には向かないことを重々承知していたように思われます。
しかし、大山とは対照的に黒田はそれが出来なかったのか、しなかったのかは今では分かりませんが、結局は政界の表舞台に出ることになってしまいました。
幕末の頃、西郷に「末が頼もしい人物」と評され、誠心誠意溢れ、勇気ある人物として期待されていた黒田は、その後はまるで人が変わってしまったかのように、酒に溺れ、乱行を繰り返すような、いわゆる酒乱になり果てました。真偽は定かではありませんが、黒田は酒に酔い、自らの妻を日本刀で斬り殺したという話も残っているほどです。
おそらくこういった黒田の変貌ぶりは、薩摩藩閥を背負わされているという、ある種の大きなプレッシャーが一つの原因となっているかもしれません。無論、これは私の推測にしか過ぎませんが……。
現在の鹿児島県に、黒田清隆を顕彰するような石碑が一つも建てられず、銅像などを建立しようとするような目立った動きがない現状は、彼の後年の評判の悪さに起因しているのがその理由の一つであるような気がします。
「晩節を汚す」という言葉がありますが、西郷が大いに期待を寄せた黒田清隆という人物が、まさしく晩節を汚すことになってしまったのは、誠に残念としか言いようがありません。