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島津斉興が造営した別邸・玉里邸(鹿児島県鹿児島市) |
第三話「父と子−島津斉興と斉彬−」
島津斉彬が島津家28代の薩摩藩主に就任したのは、嘉永4(1851)年2月2日、彼が43歳の時のことです。
40歳という壮年期を過ぎるまで、斉彬が藩主になれず、世子のままでいたのは、非常に異例の事であったと言えましょう。ましてや、斉彬は幕閣や諸大名の間でも非常に評判の良い人物であったにもかかわらずです。
斉彬がなかなか藩主に就任することが出来なかったのは、ひとえに実父である前27代藩主の島津斉興(しまづなりおき)が、隠居をひたすら拒み、斉彬に藩主の地位を譲りたがらなかったことが原因です。
それでは、なぜ斉興は斉彬に家督を譲りたがらなかったのでしょうか?
その最大の理由は、斉興が斉彬に藩政を任せることに、大きな不安を感じていたからと言えましょう。
斉興は、息子の斉彬に対して、藩財政を逼迫させた祖父の25代藩主の島津重豪(しまづしげひで)の幻影を重ね合わせて見ていました。
斉興の祖父、つまり斉彬の曽祖父にあたる重豪は、中国や西洋の文物を非常に好み、薩摩藩内に数々の開化政策を施した人物です。
また、重豪は自らの道楽については、お金を惜しむことがなく、オランダや中国などから新しい物や珍しい物をどんどん買い入れるような生活を続けました。江戸幕府に在位した将軍の中で、最も贅沢三昧の驕奢な生活をしたと言われる第11代将軍の徳川家斉でさえも、重豪のそんな生活を羨ましがり、「わしも舅殿のような生活を送りたいものだ」と語ったと伝えられています。(家斉の夫人の広大院は斉興の娘にあたります)
しかしながら、そんな重豪の驕奢な生活が長く続くはずもありません。
重豪の浪費が原因で、薩摩藩内の財政は急速に逼迫し、最終的に薩摩藩は「借金500万両」という、途方も無い金額の負債を負うことになります。
そのため、重豪の跡を継いだ子の26代藩主の島津斉宣(しまづなりのぶ)は、秩父太郎(ちちぶたろう)という人物を登用して、藩内に緊縮政策を施し、大きな財政改革に着手しました。
しかしながら、その急激な改革の方法は、隠居の重豪の怒りを買い、斉宣は37歳の若さで強制的に隠居させられたのです。
これが、「近思録崩れ(きんしろくくずれ)」とか「秩父崩れ(ちちぶくずれ)」と言われる薩摩藩のお家騒動事件です。
そしてその後、隠居した斉宣の跡を継いだのが、当時、弱冠18歳の若者であった重豪の孫の斉興でした。
斉興は父・斉宣の失脚を目の当たりにしたため、祖父の重豪に一切逆らうことなく、指示通りに藩政を動かし、調所笑左衛門(ずしょしょうざえもん)を抜擢し、財政改革に着手します。
結局この調所の働きにより、薩摩藩は財政の立て直しに成功しました。また、斉興には斉彬という聡明な子供も生まれ、薩摩藩の運命は順風満帆に進むかと見えたのですが……、斉興が自分の跡継ぎとして期待していた斉彬は、何よりも中国や西洋の文物を好み、蘭学者や洋学者達と盛んに交流を持つなど、まるで重豪を生き写したような性格を持つ若者に育っていたのです。
斉興は、その斉彬の存在に大きな危惧を感じました。
「斉彬に藩主を継がせると、また、あの祖父の時代のような借金地獄の生活に逆戻りするのではないか……」
重豪時代の苦しい財政生活を嫌というほど味わってきた斉興は、斉彬の性格に今は亡き祖父の重豪の幻影を重ね合わせて見たのです。
そのため、斉興は斉彬のことを疎ましいまで思うようになり、自らの家督を継がせることを躊躇し始めました。斉彬に任せては、今までの財政改革の苦労が水の泡になってしまう、と斉興は危惧したからです。斉興自らの苦い経験から、そう考えるのも無理はなかったと言えるでしょう。
また、斉興が隠居をしぶった原因には、もう一つの理由があげられると思います。
前述のとおり、斉興は文化6(1809)年に18歳の若さで藩主に就任しましたが、隠居であった祖父の重豪が「藩政後見」という役目に付き、当時の藩政の実権を握っていたのです。
重豪が藩政後見を辞めたのは、その11年後の文政3(1820)年のことですが、結局それは名目だけのことで、依然として重豪は大きな力を持ち続け、藩政の実権を握っていました。その重豪の後見政治は、重豪が89歳で亡くなる天保4(1833)年まで続くのです。つまり、斉興は藩主に就任してから24年もの長き間、藩主とは名ばかりで、その実権は重豪にずっと握られていたのです。
嘉永4(1851)年2月2日、斉興は最終的に幕府からの圧力に屈し、隠居することになりました。
結局、重豪が亡くなった天保4(1833)年からこの日まで、斉興が単独で実権を握っていた実質的な治世は、18年に過ぎなかったことになります。つまり、斉興は18歳で藩主に就任してから42年間の内の半分以上の期間は、重豪の顔色を見ながら藩政を行なわなければならなかったのです。
斉彬が40歳を過ぎたにもかかわらず家督を譲られなかったことの異常さは、斉興自身が「重豪親政」という24年にも渡る長い異常な藩主生活を経験したことにもその要因があると思います。
「こんなに苦労してまで手に入れた藩主の座を、そうやすやすとは譲れんぞ……」
という気持ちが、斉興自身の心の中に強く刻み込まれていたような気がします。
最終的に、斉興は子の斉彬が工作した隠居計画に追い込まれ、藩主の座を去らなければならなくなるのですが、その無念の思いは生涯消えることなく、この父子の確執は、斉彬の死まで長く続いていくことになるのです。
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