島津久光の居宅があった鶴丸城二の丸跡
現鹿児島県立図書館(鹿児島県鹿児島市)



第四話「島津久光の誤算」
 明治4(1871)年7月14日、「廃藩置県」という一大改革が断行されたその日の夜、鹿児島では島津久光の命令でたくさんの花火が打ち上げられました。
 ただ、このたくさんの花火は廃藩置県を祝うためのものではありませんでした。久光が廃藩置県の鬱憤を晴らすべく、打ち上げさせたものであったのです。
 当時、久光の側に仕えていた旧薩摩藩士の市来四郎は、廃藩置県の知らせを聞いた久光の気持ちを後年次のように書き残しています。


「久光公は当務の急務を知らるるも、事皆西郷・大久保一輩の専断に出て、予議せる処なきを以て、往年以来の積憤重なりて、不満に堪へられず、発令の報鹿児島に達せし夜陰は、公子侍臣に命じ、邸中に花火を揚げしめ、憤気を漏されたり」
(鹿児島県史料「忠義公史料七巻」所収『市来四郎自叙伝十』より)

(現代語訳by tsubu)
「久光公は、廃藩置県が当時の急務だということは分かっておられたが、今回の突然の廃藩命令については、全て西郷と大久保の独断から行われたものであって、自分はまったく相談にあずかっていなかった。そのため、久光公は昔から積もりに重なった憤りで不満に堪えられなくなり、廃藩置県の発令の知らせが鹿児島に届いた夜、自らの子供や家臣に命じて、邸中に花火を打ち上げさせて、不満や憤りを露にされたのである」



 久光にとっては、突然の廃藩の命令はまったく寝耳に水のことであり、最も恐れていた事態でした。保守的な考え方を持つ久光にとっては、藩を潰そうなどという料簡などさらさらなかったからです。

 例えば、こんな話が伝承として残っています。
 明治3(1870)年12月18日、当時鹿児島に居た久光と西郷を中央政界に呼び戻すべく、勅使として岩倉具視、その随行者として大久保利通の一行が鹿児島を訪れました。当時の政府には多くの課題・難題が山積し、岩倉や大久保は久光や西郷の力を必要としていたため、はるばる二人を呼びに鹿児島にやって来たのです。当然のことながら、この段階の明治政府の懸案として、「廃藩置県」という一大改革も含まれていたことは言うまでもありません。
 この勅使の鹿児島入りの結果、久光は病気であったため上京することが出来なかったのですが、久光は代わりに西郷を政府へ派遣することを決めました。
 西郷と大久保が鹿児島を旅立つ前日、久光は二人に対して、

「わしは廃藩ということには不同意じゃ。そのところをよく含んで、これから相勤めるように……」

 という風に語ったことが伝承として伝わっています。
 この伝承については、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏も、『殿様の限界』という作品の中で書かれています。
 西郷と大久保が共に鹿児島を出発したのは、明治4(1871)年1月3日のことです。
 この前日の1月2日の大久保の日記を見ると、久光への暇乞いのため、大久保が久光の元を訪問したことが書かれていますが、その文面には次のような一節があります。


「従二位公へ拝謁御暇乞且見込種々言上いたし候」
(日本史籍協会編『大久保利通日記二』より)



 簡単に現代語訳に直すと、

「従二位公(久光)へ拝謁し、暇乞いをし、かつ今後の見込みについて色々と言上しました」

 ということになります。
 この日記の記述で非常に大事な部分は、「見込種々言上いたし候」と大久保が書いているところです。つまり、この「見込種々」の部分については、「今後の政府の方針について、久光に色々と話をした」という風に解釈するべきではないでしょうか。
 この大久保の日記の文面から推察すると、当然、話は当時の急務と言われていた廃藩置県のことにまで及び、久光が廃藩のことについて、「それを実施することのないように……」と二人に念を押したという先程の伝承と符合することになります。
 また、こう考えなければ、後に廃藩が実施された時の久光の怒りが理解出来なくなってしまいますので、やはり先程紹介した伝承は事実であったと私は考えています。

 久光の意向が廃藩反対であるにもかかわらず、西郷・大久保ら政府の首脳は、久光の意向を完全に無視し、上京後に廃藩置県を断行しました。久光が「事皆、西郷・大久保一輩の専断に出て」と不満を漏らし、花火まで打ち上げさせて鬱憤を払ったのは、自分の意向を無視した西郷と大久保に対しての当て付けと憤懣が一気に爆発したためであったのです。
 久光と西郷の関係は、文久2(1862)年の率兵上京計画での衝突以来、非常に根深いものでしたが、大久保に限って言えば、彼は明治に入るまで久光の意向を忠実に守る側近中の側近でした。にもかかわらず、その大久保までもが廃藩を推進したことで、久光の憎悪の対象は大久保へも向けられ、久光は大久保に対し「裏切られた」という気持ちが強かったかもしれません。恐らく、「自分がここまで目をかけてやったのに、恩を仇で返しおって……」くらいの気持ちになったのではないでしょうか。
 久光がこのように西郷と大久保への憎悪を増長させている時、大久保は外遊へと出発したため、久光の怒りは、西郷ただ一人へと向けられることになります。
 明治5(1872)年6月、明治天皇が鹿児島を巡幸した際、西郷が久光の元に一言の挨拶にも来なかったという理由から、久光は太政大臣の三条実美宛に、西郷を非難する文章を送りつけました。それに驚いた西郷は、急遽鹿児島に戻ったのですが、鹿児島で待っていた久光は、西郷に対して、十四カ条からなる罪状を突き付け、その日から西郷を鹿児島から一歩も出さないように事実上軟禁状態におきました。
 このことから察しても、久光の西郷に対する怒りが非常によく理解出来るのではないかと思います。

 明治6(1873)年、西郷がいわゆる「明治六年の政変」に敗れ、鹿児島に帰郷した後、久光は新たな動きを始めます。
 久光は、明治7(1874)年に左大臣に任命され、上京して政府改革の建白運動を度々起こしましたが、ことごとく大久保を中心とした政府に却下され、それに不満を持った久光は、結局左大臣を辞職しました。
 そしてその後、久光が取った策とは、大久保と対立して鹿児島に帰郷していた西郷に接近することでした。
 東京に居た久光は、自分の家令である内田政風という人物に、自らの内意として書状を持たせて鹿児島に派遣し、「東京に戻り、政府改革に力を注ぐように」と西郷に対して指示を下します。久光にとっては、大久保と同様に西郷も最も憎むべき敵であったことに違いはありませんが、その当時は政府への不満、特にその中心に座る大久保への不満の方が勝っていたと思われます。
 そのため、同じく大久保と対立した西郷に接近したというわけですが、もう一つ、久光の気持ちとしては、自分を裏切った西郷と大久保の二人を対決させることにより、最終的に両成敗するつもりでいたのかもしれません。つまり、憎き二人を相討ちにさせるということです。
 久光にとっては、西郷に接近し、西郷をして大久保を糾弾させることは、「毒をもって毒を制する」という感じであったかもしれません。
 しかしながら、西郷もその久光の意図を微妙に察知し、久光から出た命令を丁重に断り、その理由を書面にして久光に提出しました。西郷としても、久光の意向で大久保と共に共倒れするつもりはさらさらなかったのです。

 しかし、明治10(1877)年1月30日、私学校生徒が政府の火薬庫を襲撃したことにより西南戦争が勃発し、奇しくもここで久光が目論んだ西郷と大久保の対決が実現します。
 西南戦争に関しては、久光は挙兵した西郷とは一切無関係を決め込み、また、大久保を中心とした政府に対しても、一線の距離を置きました。
 久光の内心としては、不忠・不義の家臣として恨みを抱いていた西郷と大久保の二人が対決することは、積年の恨みを晴らすような感じであったかもしれません。また、推測ですが、この戦争で二人とも共倒れになることを望んでいたやもしれません。
 結果、西南戦争では西郷が死亡し、そしてその翌年、その西郷の後を追うかのように、大久保が東京の紀尾井坂で暗殺されたことにより、久光の積もりに積もった鬱憤は晴らされた感がありました。
 しかしながら……、久光の誤算はここにありました……。
 西郷と大久保という薩摩藩出身の二大柱が相次いで亡くなったことにより、旧薩摩藩自体の力も急速に減退し、そして何よりも久光自身の権力や影響力までもが衰退する結果となってしまったのです……。
 つまり、久光がこれほど政府に気を使われる権力者であり得たのは、政府内に西郷や大久保という大きな存在があればこそであって、彼ら二人が居なくなった後となってしまっては、政府に対する久光の影響力自体も、大きく衰退せざるを得なくなったというわけです。

 こうして、西郷と大久保の死後、久光の力は急速に衰えていくことになりました……。二人の死後、久光はどのような気持ちで過ごしていたのでしょうか……。
 廃藩置県により頂点に達した久光の西郷と大久保に対する恨みは、二人の死によって果たされることになりましたが、西郷・大久保の二人の死は、久光の最大の誤算でもあったのです。



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