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西郷隆盛誕生地(鹿児島県鹿児島市) |
第五話「西郷隆盛の本質」
私は、西郷隆盛の本質は、政治家と言うよりも、思想家に近いものであると思っています。
思想家という表現よりも、ある種哲人と評した方が西郷に合っているのかもしれません。
しかしながら、これは西郷自身に政治を行う能力が無かったということを言っているのでは決してありません。西郷という人物に、政治家としての資質や素質が十分過ぎるほどあったことは、幕末における西郷の政治活動を見れば明らかだと思います。
ただ、西郷の心中にある国家の理想像は余りに高次元であったがゆえに、最終的に政治家としての道を歩むには、西郷は余りにも清廉過ぎる人物であったと言えると思います。
幕末期、西郷は間違い無く、一大政治家でした。この評価に疑いを挟む余地は無いと思います。
しかしながら、明治に入ってからの西郷の評価は、打って変わったように変化します。能力が無くなったとか、政治家としての行き詰まりを感じていたとか、人が変わったなどと書かれている伝記類が多く見受けられますが、私はそうは考えていません。
明治に入ってからの西郷は、その持っている精神をより高いステージに昇華させたことにより(一種の悟りの極地に入ったとでも言いましょうか)、西郷の内面に大きな変化をもたらしたことが、単純に一見すると、西郷が人が変わってしまったように見える原因であると私は考えています。
冷静に考えても、人間というものが一年や二年の間に一気に能力を失い、人が変わってしまうことなど、そうそうあることではありません。ましてや、歴史に名を残すほどの活躍をした人物なら尚更のことだと思います。
明治維新後、西郷は全ての官職を投げ捨てて、郷里・鹿児島での生活を始めました。
このことに関し、西郷が政治に行き詰まったためであるとか、政治家として自分は不向きだと悟ったためであるなどと言われがちですが、私はそうは思いません。
よく西郷自身に明治後の国家像が無かったと言われることもありますが、明治後すぐに将来の国家像や政治体制に関するプランを持ち合わせていた人物など皆無に等しかったと言えましょう。政治家として評価の高い大久保利通ですら、明確なビジョンを持ったのは自身の外遊後であったのです。
西郷が明治に入ってから政治の世界を離れ、郷里に身を隠したのは、長年政治という世界に身を投じ生きて抜いて来たことに対し、少し疲れを感じていたことが理由の一つであると思います。(ただ、西郷が新政府に出仕せず、鹿児島に引きこもった原因には、他にも重要な理由がいくつかあげられます)
西郷の生涯は非常に波乱万丈です。
月照との自殺未遂事件に始まり、後には藩主同様の身分であった島津久光と大きな確執まで生じ、西郷自身「不忠者」と呼ばれ、逆臣扱いを受けて遠島処分にされ、まるで死ねよと言わんばかりの過酷な待遇を受けた時期もありました。
西郷の書き残した書簡からは、一種の冤罪的なものであったとは言え、罪人として日々を過ごしたことを恥じる心境が綴られているものも多く見受けられます。これほどまでに過酷な試練を受けながらも、最後まで生き抜いた人物は、幕末史上西郷隆盛の他にはいないと言っても過言ではありません。
幕府がようやく倒れ、新しい政府が成立した時、西郷が政治の世界から一時身を引き、休養したいと思ったのも無理はないのではないでしょうか。
しかしながら、西郷の性格上、自分だけがそのまま安穏と郷里で生活を続け、国の政治がどうなっても良いなどと考えられる性格では決してありませんでした。明治4(1871)年1月、西郷が意を決して立ち上がり、政府改革のために鹿児島から上京するのを見ても、それは明らかであると思います。
西郷の遺徳を慕う旧庄内藩士達が編纂した『南洲翁遺訓』を熟読すると、西郷の目指す国家の理想像とは、「外には道義をもって立ち、内に道義が行われる」、つまり道義国家の建設にあったと考えられます。
しかしながら、実際に西郷が理想とする道義国家の建設が明治期に可能であったのか?
と考えると、今までの歴史や現代社会の実態などを鑑みても、非常に難しいものと言わざるを得ません。
西郷が生きた幕末・明治という時代は、帝国主義政策真っ只中の欧米列強諸国に対抗するために、明治国家は大久保利通を中心として、文明開化・富国強兵政策等、半ば強制的にともいえるほどの急進的な改革を施しました。その急進的な改革は、後に大きな歪みを生み出すことになるのですが、これを近代国家を標榜した当時の「現実」だと仮に考えたとしても、これは当然道義国家を理想とする西郷の許容出来るものでないことは言うまでもありません。
西郷という人物は、西洋諸国の文明の利器の優秀さをよく理解している人物でしたが、帝国主義政策を推し進める西洋諸国の政策に対しては、非常に懐疑的であり、そういう政策とは一線を画した国家を建設したいとの考えを持っていたと思われます。
また、明治に入って後、堕落する新政府の姿に失望した西郷は、現政府を改革し、より道義立つ国家に移行させたいと考えていたと思います。西洋諸国の良い点も悪い点も、全てひっくるめて模倣しようとする新政府の欧化政策に対して、西郷は大きな懸念を持っていたのです。
政治家としての資質や素質は十分にありながらも、西郷が最終的に政治家として道を歩むには、その心中が清廉過ぎたと冒頭述べたのは、この意味においてです。この意味から考えるならば、明治時代の「現実」に対し、西郷は自らの道徳観を兼ね備えた一種の「思想」をもって、その現実に対抗したという表現が当てはまるかもしれません。
西郷という人物は、政治家としての資質や素質は十分にありながらも、余りにも高次元の理想や国家像を持つがゆえに、明治後、政治家としての道を歩むには、障害があり過ぎたと言えるかもしれません。
このことが単純に一見すると、西郷が政治家としての限界を感じていたかのように誤解を受ける大きな要因となっているのではないかと思います。
しかしながら、このことをもってして、一般に西郷を批判する学者や評論家達の言うように、西郷を時代錯誤的な人物として捉えることとは、大きく次元の違う問題であり、大きく論点がずれているように思います。
明治というあの激動の時代に、道義国家という非常に近代的な国家建設を理想とする西郷隆盛という人物があれだけの存在感を示したことに、私は非常に歴史的な意義があるのではないかと感じてなりません。