尚古集成館(鹿児島県鹿児島市)



第六話「薩摩切子(さつまきりこ)−幕末薩摩の夢の結晶−」
 かつて、日本ではガラスのことを「びいどろ」や「ぎやまん」という風に呼んでいました。
 「びいどろ」とは、ポルトガル語でガラスを意味する「vidro(ヴィドロ)」がなまった言葉で、「ぎやまん」とは、オランダ語でダイヤモンドを意味する「diamant(ディアマント)」がなまって出来た言葉です。
 「びいどろ」や「ぎやまん」と呼ばれ、珍重されたガラス工芸品は、中世のヨーロッパを中心に隆盛を極め、江戸時代に入ってからは、長崎の出島を通じて日本にも数多く輸入されていました。
 イタリアのムラーノ島で生産されたヴェネツィア・ガラスや、現チェコ共和国のボヘミア・ガラスなどは、ガラス工芸品としては大変有名なものです。

 日本へ伝わったガラス製品のほとんどは、イギリスやボヘミアといったヨーロッパを根源としているものが多いのですが、幕末期、日本にもガラス製造の本場であったヨーロッパ諸国に勝るとも劣らない、誇れるガラス工芸品が存在していました。

 それが「薩摩切子(さつまきりこ)」です。

 「切子」とは、ガラスを削って文様を浮かび上がらせたカット・ガラスのことを言います。
 カット・ガラスとは、一般に吹きガラスと呼ばれる、溶けたガラスをパイプに巻きつけ、息を吹き込んで形を形成するガラス製法とは違い、ガラスが冷めてから模様を削り、磨いて形を作り出すガラス製法のことを言います。
 薩摩切子は、透明なクリスタルガラスの上に、色ガラスを厚く被(かぶ)せて、その色ガラスの部分にカットを施し、美しい文様を浮かばせた幻想的なガラス工芸品で、当時は「薩摩びいどろ」や「薩摩玻璃(さつまはり)」とも呼ばれ、将軍家や諸大名への贈答用としても大変珍重されました。
(付記:「玻璃」とは、仏教で言う水晶のことで、当時はガラスを指す言葉としても使われていました)
 しかし、その薩摩切子を完成させるまでに至った道のりは、決して容易なものではありませんでした。試行錯誤と紆余曲折の長い年月を経て、薩摩藩はようやく薩摩切子の完成に漕ぎつけたのです。
 そして、その世界に誇れるガラス工芸品「薩摩切子」を世に送り出した人物が、薩摩藩第28代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)です。

 薩摩藩のガラス製造は、弘化3(1846)年に、城下に製薬館と硝子製造所を創建したことに始まります。
 薩摩藩がガラス製造を目指した理由の一つは、製薬館で作られた医薬品を保管するためのガラスの薬瓶の製作を、藩独自で自主的に行おうとしたことにありました。
 その当時、斉彬はまだ世子の身分でしたが、ガラス製造に関しては一方ならぬ情熱を持っており、江戸日本橋の商人で、当時日本でのガラス製造の第一人者であった加賀屋久兵衛の弟子・亀次郎を薩摩に招聘し、本格的に薩摩でガラス製造を手掛けさせました。
 嘉永4(1851)年2月、斉彬はようやく藩主の座に就任すると、以前よりも増して、ガラス製造に力を注ぎ込みました。斉彬は藩内の蘭学者達に対し、紅色や藍色といった様々な色ガラス、耐酸性のある硬質ガラス等の研究を行うよう指示しました。

 斉彬には一つの大きな夢がありました。

「ヨーロッパ諸国にも決して引けを取らない、輸出向けのガラス工芸品を、日本で、いやこの薩摩藩で製作したい……」

 帝国主義政策真っ只中の欧米列強諸国に対抗するためには、殖産興業こそ日本の進むべき道であると考えていた斉彬にとって、日本独自で輸出向けのガラス工芸品を製作することは、かねてからの大きな夢であったのです。
 しかしながら、薩摩藩のガラスの製造は困難を極めました。
 ただでさえ情報が少ないこの時代に、見よう見真似でガラスを製造することには限界があったのです。斉彬は、様々な洋書を積極的に収集し、ガラス製造に関する知識や情報を仕入れることに力を注ぎました。
 その当時、全国の有名な蘭学者や化学者達の中には、斉彬の庇護を受けている者が数多く存在しています。
 斉彬は蘭学者達に対し、蘭書や洋書の翻訳を依頼し、その報酬を彼らに還元することで、蘭学者達が生計を立てていけるよう配慮すると共に、また、斉彬は自らその翻訳書を読むことで西洋の最新の知識を吸収していました。蘭学者達に翻訳を依頼することは、彼らの庇護にも繋がるばかりか、自らの知識の増加にも繋がり、非常に有益なことであるという考えをもって、斉彬は積極的に蘭学者達との交流を深めていったのです。

 そして、この斉彬のガラスにかける情熱が、ようやく花開くときがやってきました。
 薩摩藩は、何年もの基礎研究の後、数ヶ月数百回の実験等を繰り返し、ようやく紅色ガラスの製造に成功したのです。
 また、薩摩藩では、この紅色の他にも、藍色、青色、紫色、緑色の発色にも成功し、様々な色ガラスを製造することに成功しました。
 斉彬の抱いた大きな夢は、ようやく実現に向けてその第一歩を踏み出したのです。
 斉彬は、城下郊外の磯浜(いそのはま)を中心とした海岸線に、「集成館」という近代工場群を作り上げ、その中にガラス製作工場を創設し、成功した色ガラスを使って、いよいよカット・ガラスの製作を始めました。
 これが「薩摩切子」の誕生の瞬間でした。

 安政5(1858)年3月。
 長崎海軍伝習所訓練生と共に、日本丸(後の咸臨丸)に搭乗して、薩摩藩を訪れたオランダ軍医師のポンペ・ファン・メールデルフォールトは、斉彬が苦心の末に作り上げたガラス工場を見学し、後年、次のような感想を書き残しています。


「百人以上の職工が働いているガラス製造所がありました。この工場には、溶解所、ガラス吹き場、研磨室などがあり、そこでは贅沢品のようなものから、使用によく耐える日用品にいたるまで、無色や色の付いたガラス器が製作されていました。それらはいずれも非常に良品で、薩摩藩公は、最新の発明を採り入れてガラスを着色させており、藩公はその美しいガラス器を出島に持ちかえるように、我らに与えてくれました」


 ポンペ一行に自慢の薩摩切子をお土産に持たせた斉彬の得意満面な笑みが、私には目に浮かぶような気がします。
 島津斉彬が全ての情熱を注ぎ込んで作り上げた薩摩切子。
 その完成から140年以上経った今日でも、ガラスから発せられるその美しい輝きは、少しも色あせることなく、輝き続けています。


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