(画像)今和泉島津家墓地
篤姫の先祖が眠る今和泉島津家墓地(鹿児島県指宿市)



第八話「天璋院篤姫の婚礼 −薩摩藩からの珍しい献上品−」
 今年話題になったフジテレビ系列の番組でドラマ『大奥』というものが放映されましたが、このドラマの主人公となった女性が、薩摩藩島津家から第13代将軍・徳川家定の元に嫁いだ「天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)」です。

 篤姫と家定の婚礼は、安政3(1856)年12月18日に行なわれたのですが、この挙式に先立ち、薩摩藩からは数多くの献上品が将軍家に対して贈られました。
 その品々の中に、一際目立つ、そして世にも珍しい大きな献上品がありました。

 それは、大きな「硯(すずり)」です。

 『鹿児島県史料 斉彬公史料 第三巻』には、「篤姫君将軍家結婚ノ際国産ノ大硯献呈ノ事実」という記録文書が収められていますが、それによると、その大硯は大きなものと小さなものの二対となっていたそうです。
 大きな硯は「長五尺余、幅三尺余、厚九寸余、目方百八十余斤」とありますから、今の単位に換算すると「長さ1.5m、幅90cm、厚さ27cm、重さ108kg」もある巨大なもので、54リットルもの水が入る容量があり、大人四人がかりでなければ運ぶことが出来なかったと言いますから、ほんとうに驚きの大きなサイズです。
 また、小さな硯の方も「長さ72cm、幅45cm、厚さ19cm、重さ42kg」もあったので、二つの硯とも並の大きさではなかったと言えましょう。

 この二つの大硯は、現在の鹿児島県薩摩半島の西側・東シナ海に浮かぶ上甑島(かみこしきじま)の瀬上という場所で切り出された天然の硯石を元に作られました。
 この天然の硯石は、「冷泉石」と呼ばれる非常に貴重な石で、記録には、

「石質無比、紋理白斑種ありて、世に賞せらるるは僉人知るが如し」
(石質は類稀なるもので、白い斑紋が所々にあり、この石が賞せられることを知らない人は、世の中には居ないほどである)


 と書かれているほど、非常に名高い石であったのです。
 甑島で切り出された冷泉石は、薩摩藩主・島津斉彬が創設した大砲製造工場において、わざわざ江戸から招聘された彫刻士らの手によって、硯の形に彫刻されました。大砲を鋳造するための工場で、硯を製造したというのは、とても興味深い話です。
 このようにして完成された大硯は、自然に出来た白い斑紋が、竜や蛇の鱗のような文様を浮かばせており、「美麗で人々の目を驚かせるもの」であったと、記録には書き残されています。
 その後、この二対の大硯は、江戸において蓋と台を製造し、白木の箱に入れて、山豚毛の唐筆四本と大唐墨二個を添えて、篤姫の婚礼のための祝いの品として、島津家から将軍家に対して献上されました。
 このような大きな硯は、天下の将軍家の収蔵品の中にも無く、幕府の役人もその運搬には、非常に気を使ったと伝えられています。

 篤姫の婚礼のための祝いの品として、薩摩藩がこのような大きな硯を将軍家に献上しようとしたことについて、島津斉彬は次のように語ったと記録に残されています。


「婚礼の祝いの品に関しては、全国の数多くの大名が、他の大名には負けないように、金銀珠玉を散りばめ、善美を尽くした物を贈ろうと争っているが、どの品もそれほど大したものではない。今回、そのような絢爛豪華な品ではないが、雅の心だけは非常に深く込められている、このような大硯を献上することは、後世まで一つの語り草になるのではないかと思う。また、文具の一つでもあるので、粗末に棄て置かれることも無いだろうし、その上、硯を贈ることで、将軍家に対し、学問を奨励する意味も込められている」


 斉彬がこの大硯にいかに自信を持っていたのかが分かるのではないでしょうか。
 天璋院篤姫と将軍家定との婚礼の祝いの品として島津家から献上された大硯。
 今でも徳川家にこの大硯が残っているとするならば、是非一度はお目にかかりたい逸品です。




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