(画像)桐野利秋誕生地
桐野利秋誕生地(鹿児島県鹿児島市)



第九話「桐野利秋とシルクハット」
 桐野利秋(前名を中村半次郎)と言えば、小説のタイトルにもなっている「人斬り半次郎」として、幕末では非常に有名な人物です。
 「人斬り」という異名からでも分かるように、どちらかと言うと、桐野には非常に荒々しい典型的な薩摩隼人としてのイメージが現代では強く付きまとっていますが、彼の真の人物像は、そのような荒々しい性格のものではありません。
 桐野利秋は、何よりも情義や礼儀というものを大切にする人物であったのです。
 今から紹介する一つのエピソードは、その桐野の真摯で、そして非常に礼儀というものを大切にした彼の性格の一面をよく表しているものではないかと思います。

 明治10(1877)年2月17日、鹿児島を出発した西郷隆盛以下の薩摩軍は、一路熊本城を目指して行軍を始めました。

 世に言う「西南の役」、いわゆる「西南戦争」の始まりです。

 桐野利秋は、この西南戦争で薩軍の四番大隊長を務め、実質的な司令官の役目を背負いました。
 しかしながら、桐野が指揮したこの戦いは、薩軍にとっては非常に悲劇的なものとなったのです。
 政府軍の圧倒的な兵力と優秀な武器の前に、当初は有利に戦局を進めていた薩軍も、次第に劣勢へと追い込まれていきました。熊本北方の要衝の地であった「田原坂(たばるざか)」での敗戦を機に、薩軍は転戦に次ぐ転戦を強いられ、最終的に現在の宮崎県の北方、東臼杵郡北川町大字長井という場所において、政府軍の厳重な包囲に合いました。
 明治10(1877)年8月17日、薩軍はこの危機を脱するため、九州でも指折りの峻険である「可愛岳(えのだけ)」をよじ登り、政府軍の厳重な包囲網を突破しようと試みたのです。
 しかし、この山越えには大変な困難が待ち受けていました。政府軍に気付かれないようにするため、一切音も出さぬよう静かに這うようにしながら、道なき道を行き、医薬品などの物資も欠乏し、途中で死者も出るなど、薩軍一行の山越えは筆舌に尽くしがたいほどの困難を極めました。
 しかしながら、桐野ら薩軍の将兵達は、「故郷・鹿児島の地に戻りたい……」という強い気持ちの元に、必死に歯を食いしばりながら、険しい山中を抜けて、一路鹿児島へと向かったのです。

 薩軍が険しい山野を越え、ようやく鹿児島の地に辿り着いたのは、9月1日のことでした。
 当時の薩軍は、二週間以上にもわたって山中をさ迷よったことから、着用していた衣服は無残なまでに破け、その原型は既になく、ボロボロに成り果てていました。そのため、鹿児島に突入した薩軍は、政府軍が破棄していった衣料品などの数多くの物資を手に入れ、それを兵士達に対し分配したのですが、桐野の場合、体躯長大、体つきが非常に大きかったため、なかなか自分の体に合う服が見つかりません。桐野が色々と物色してみると、その中に、ようやく彼の体に合う大きなサイズの洋服があったのです。
 また、その洋服には、一つの珍しい付属品がついていました。

 それは、大きなシルクハットだったのです。

 桐野がそのシルクハットを手に取り、頭に被ってみると、サイズもピッタリ合います。

「こいは、良か帽子じゃわ!」

 後世伝えられるところによると、桐野は常に身だしなみを気にする非常にオシャレな人物でした。桐野はそのシルクハットを余程気に入ったのでしょう。薩軍が作り上げた保塁や陣地を巡検する際、桐野は常にそのシルクハットを被って、兵士達を叱咤激励しました。その桐野の勇躍した姿は、非常に雄々しいものであったと伝えられています。

 ある日のこと、桐野は被っていたシルクハットのつば裏に、「渡辺千秋」という文字が書かれていることに気付きました。
 桐野は、その「渡辺千秋」という文字を見た瞬間から、

(渡辺千秋とは、どげな人物じゃろうか……)

 と、ずっと気になっていたのですが、ある日、三浦藤一郎という政府軍の捕虜が薩軍の陣地内に居ることを聞きつけて、その三浦に対し、次のように問いかけました。

「渡辺千秋どんとは、どげな人物でごわすか? おはん、知りもはんか?」

 すると三浦は答えました。

「渡辺さんとは、薩摩軍が鹿児島を去った後、政府から派遣されて、県の大書記官を務めているお方です」

 鹿児島県の大書記官と言うと、現在で言う鹿児島県知事である鹿児島県令に次いで非常に高い官職です。
 桐野は、その三浦の答えを聞くと、

「そうごわしたか……。こいは誠に失礼すまんことをしてしもた……」

 と呟くと、シルクハットを脱ぎ、急ぎ渡辺に対し一通の手紙をしたためました。


「貴殿が使い残された衣服その他、軍中上やむを得ない必要からではありますが、仮に借用してしまったのは、誠に申し訳ないことでございます。やむを得ない事情があった事をどうぞご了解頂きたい。私が生きるか死ぬか、それはもう決まっていることでありますので、ここに一書をしたためて、その理由を送るものでございます」


 桐野は渡辺千秋宛の手紙にそう書き記すと、捕虜になった三浦に対して、

「おはん、この洋服一式と共に、こん手紙を渡辺大書記官殿に渡してくいやい」

 と言い、手紙と共にシルクハットと衣服を渡して、捕虜の三浦を解放したのです。

 その後……、運命の9月24日、桐野利秋は鹿児島の城山において戦死しました。
 そして、三浦に授けられた手紙を受け取った渡辺千秋は、その書状を読み、桐野の礼儀を尽くした行状に深く感動し、その手紙を深く愛蔵していたと伝えられています。

 桐野利秋とシルクハット。

 この西南戦争中の一つのエピソードは、桐野の真実の姿を描き出しているものではないでしょうか。




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