桐野利秋誕生地(鹿児島県鹿児島市)




(第1回「桐野利秋@ −その虚像と実像−」)
 桐野利秋(きりのとしあき)と言えば、前名を中村半次郎と言い、「人斬り半次郎」という異名を持つ人物として非常に有名です。
 桐野を主人公にした小説や講談では、彼は豪放磊落、典型的な薩摩隼人を象徴する人物として描かれ、桐野利秋と聞くと、「荒々しい武者」というイメージを想像される方が多いのではないでしょうか。
 しかしながら、小説などで描かれる桐野の姿やエピソードには、たくさんの虚説が入り交じっているため、彼の持つほんとうの実像とは大きくかけ離れた虚像が一人歩きし、彼の評価を歪めている現状になっていると私は感じています。

 西南戦争後、桐野は全ての戦争責任を負わされ、西南戦争を引き起こした張本人としての評価を受け、「無思慮な人物」、「無教養者」、「荒くれ者」などという悪名高いレッテルを貼り付けられました。
 俗に西南戦争のことを「桐野の戦争であった」と称されることがありますが、これは余りにも桐野にとって酷な話だと思います。西南戦争は、桐野一人が原因で起きた戦争でないことは歴史上の事実ですし、また、桐野一人が戦争を起こそうと考えたとしても、あれだけの大規模な戦争を起こせるはずもないのです。
 西南戦争が起きた原因は、西郷隆盛を始め、桐野利秋、篠原国幹、村田新八などの薩軍関係者、そして、大久保利通を中心とする政府関係者、いずれにも少なからず責任があると思います。
 歴史というものは、たった一人の人物が作り上げられるものではなく、また、たった一人の人物が変えられるものでもありません。色々な複合的な要素が組み合わさって、初めて一つの歴史が動き出すのです。西南戦争という一大戦争も、その例外ではないと言えるでしょう。西南戦争が「桐野の戦争」であったと言われるようになったのは、戦後、政府が行った徹底的な桐野叩きの影響が大きいと私は考えています。

 このように桐野利秋という人物には、たくさんの虚説がつきまとい、そして現代においては、その実像が見えにくくなっています。
 実際の桐野利秋という人物は、いかにも薩摩隼人らしい豪快な部分と、そして繊細で非常に思慮深い一面と、二つの要素を兼ね備えた人物であったと私は考えています。
 その桐野の真の実像に近づくために、少しづつ彼に被せられた虚説のベールをこれから剥いでいきたいと思います。


(「人斬り半次郎」について)
 最初に書きましたが、現代において、桐野利秋には「人斬り半次郎」という異名が付いています。作家・池波正太郎氏が書かれた同名の小説で、桐野利秋のことを知ったという方もたくさんおられるのではないでしょうか。
 この「人斬り」という言葉が、桐野の印象を悪くし、ややもすれば「無思慮な人物」、「猪武者」といったイメージを抱かせる原因の一つともなっていると思います。
 しかしながら、この「人斬り」の異名は、後世の人間の創作ではないかと私は考えています。

 幕末には「人斬り」と呼ばれた剣客が何人かいますが、桐野自身について言えば、彼が暗殺者として京や大坂を暗躍したという裏付けや証拠はありません。彼がその生涯の内で唯一人を暗殺したことが分かっているのは、兵学者の赤松小三郎(あかまつこさぶろう)という人物、ただ一人だけです。
 赤松は信州上田藩の出身で、佐久間象山に蘭学を学び、勝海舟の門人でもあった人物で、一時期は薩摩藩お抱えの軍学者になっていました。赤松は『英国歩兵練法』という訳述書を出したことで有名になり、この頃は薩摩藩に招聘されて、薩摩藩士を相手に軍学を教える立場にいたのです。
 それでは、なぜその赤松を桐野が斬ることになったのでしょうか?
 この原因を突き止める史料として、桐野自身が書いた日記が存在しています。

 桐野は、慶応3(1867)年9月1日から同年12月10日までの間、一日も欠かさず日記をつけています。この日記は通称『京在日記』と呼ばれているものですが、この中に桐野が唯一犯した赤松小三郎暗殺の真相が事細かに記述されています。
 その桐野の日記の文面を紐解くことによって、これから桐野の暗殺事件の真相に迫ってみたいと思います。
 桐野が赤松を暗殺した当日の日記には次のように書かれています。


同月三日 晴
一、小野清右エ門・田代五郎左エ門・中島建彦・片岡矢之助、僕より同行、東山辺散歩、夫より四条ヲ烏丸通迄帰り掛候処、幕逆賊信州上田藩赤松小三郎、此者洋学ヲ得候者ニて、去春より御屋敷へ御頼に相成り、今出川、烏丸通西へ入町へ旅宿致し、諸生も肥後・大垣・会津・壬生浪士・内より壱人居弟子、其外ニも諸藩より入込も多し、然処、此度帰国之暇申出候ニ付、段々探索方ニ及候処、弥幕奸之由分明にて、尤当春も新将軍へ拝謁等も致し、此此も同断之由、慥ニ相分、
(『京在日記 桐野利秋』(田島秀隆編)より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
九月三日 晴れ
一、小野清右衛門、田代五郎左衛門、中島健彦、片岡矢之助と一緒に東山辺りを散歩して、四条烏丸通りまで帰ってきたところ、幕府の逆賊である信州上田藩・赤松小三郎と出会った。この者は洋学を学んだ者で、去年の春より我が薩摩藩屋敷に招聘され、今出川烏丸通りを西に入った所に旅宿していたが、その書生には、肥後藩や大垣藩、会津藩、新撰組などから一人ずつ弟子が居り、その他にも諸藩士の出入りも多く存在していた。このような状態の中、今回、赤松から帰国したいとの暇乞いの申し出があったので、色々とその理由を探索したところ、やはり幕府に肩入れする奸佞の者であることが明らかに分かった。また、今年の春には新将軍・徳川慶喜にも拝謁したことがあったので、その疑いはますます確かとなったのである。



 このように、桐野は自らの日記の中で、赤松をなぜ斬るに至ったのかの理由を詳しく書き記しています。
 つまり、薩摩藩に招聘されていた赤松の身辺に幕府の影が見られ、赤松自身も急に暇乞いを願い出たので、不審に思った結果探索してみると、やはり幕府と相通じていることが明らかになったという理由からです。
 また、赤松暗殺の模様についても、桐野は詳しく次のように書き続けています。


折柄今日東銅院四条通西へ入町ニて出合候ニ付、不可捨置之者ニて、夫より小野・中島・片岡の三士は、烏丸四条南角ニまんぢう屋在り、此の処ニ為待置、田代と僕右赤松の跡ヲ追ひ附候処、四条より東銅院ヲ伏見之様下り候ニ付、追ひ候処、仏光寺通ニて屋敷者野津七次外ニ弐人在、赤松と相角致し、おひ手を通り、我々は五条下る迄越し、跡へ引返し候処、魚棚上ル所ニて出合、我前に立ちふさかい、刀を抜候処、短筒に手ヲ掛候得共、左のかたより右のはらへ打通候処、直ニたおるる所ヲ、田代士後よりはろふ、壱余り歩ミたおる也、直ニ留ヲ打ツ、合て弐ツ刀、田代も合て弐ツ刀にておわる。打果置者也、夫より直ニ引返し、右の三士の居る処まで来る、五士同行ニて帰邸営也
(『京在日記 桐野利秋』(田島秀隆編)より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
ちょうどその時の今日、東洞院四条通りを西に入ったところで、その赤松と遭遇した。赤松はそのまま放っては置けない存在であるので、それより小野・中島・片岡君の三人を烏丸四条南角に饅頭屋があったので、そこで待たせて置き、田代君と僕が赤松の後を追った。四条から東洞院通りを伏見の方向に下って追っていくと、仏光寺通りにて、同藩の野津七次(道貫)ら他二名と会った。二人は「赤松とそこの角で会った」と言ったので、自分達は匂天(おいて)町を通って五条まで下って先回りし、赤松が歩いている道を後へと戻って引き返した。すると、魚棚を上がった所で赤松と出会った。僕は赤松の前に立ちふさがり、刀を抜いたところ、赤松は短筒(鉄砲)に手をかけようとしたが、左の肩から右の腹にかけて斬りつけたので、すぐに赤松は倒れかかった。そこを田代君が背後から横に斬り払ったので、赤松は一歩ほど歩こうとしたがそのまま倒れた。僕は直に留めを刺し、田代君も留めを刺して、討ち果たしたのである。そこから僕らはすぐに引返し、三人の居る饅頭屋まで戻り、五人で藩邸に戻った。



 このように、桐野が書いた日記の記述には、赤松を斬った様子が事細かに描写されています。
 ただ、文面にある通り、赤松を暗殺したのは桐野だけではありません。同じ薩摩藩士の田代五郎左衛門という人物との共同行為であったことが分かります。
 また、饅頭屋で待たされていた三人も、当然この事情は知っていたでしょうから、この赤松暗殺に関しては、薩摩藩士の間では周知の事実であったのでは無いでしょうか。私が推測するに、おそらく赤松の行動に関しては、薩摩藩自体が疑惑を持っており、藩として探索を続け、そして藩として、赤松の暗殺を指令していたと予測することも出来ます。
 赤松は一時期は薩摩藩お抱えの軍学者であったので、薩摩藩は内部情報が幕府側に漏れることを危惧し、赤松暗殺の指令を出すに至った。つまり、赤松暗殺に関しては、薩摩藩自体が関与していたのではないでしょうか。
 その傍証として、元薩摩藩士・市来四郎が編纂した『忠義公史料』には、次のような文書が収められています。


赤松小三郎暗殺セラル
赤松何某トテ、本信州浪人ニテ、砲術ニ達セシモノニテ、此方ヨリ段々門人モ多ク、有名ノモノニ候処、是ハ幕府ヨリ間者之聞ヘ有之、中将公御出立前夜打果候ヨシ
(『鹿児島県史料 忠義公史料第四巻』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
赤松小三郎が暗殺されたとのこと
赤松某は、信州の浪人にて、砲術関係に詳しい者であって、最近は段々と門人も多く、有名の者であった。しかしながら、この赤松は幕府寄りの間者であるということであったので、中将公(久光のこと)が出立された前夜、討ち果たされた模様である。



 この文書は誰が書いた物かよく分からないものではありますが、市来が編纂した薩摩藩関係史料の中に含まれているということは、おそらく薩摩藩関係者の誰かが書き記したものであったことは間違いないでしょう。
 文面を見れば分かりますが、赤松は薩摩藩お抱えの軍学者であったにもかかわらず、「中将公御出立前夜打果候ヨシ(久光公が出立する前夜に討ち果たした模様)」などという非常に冷ややかな言葉を使っているのを見ても、この赤松の暗殺については、薩摩藩自体の何らかの関与を裏付ける傍証ともなるのではないかと思います。

 このように、桐野利秋が唯一犯した赤松小三郎暗殺事件は、桐野の単独犯でも無く、また藩の関与があった可能性も十分に高いものと推測されます。
 また、桐野自身が自らの日記に堂々と赤松を斬った事を書き記していることから考えても、この暗殺自体がテロ的な意味合いを持つものではなく、一種の藩の命令を遂行したものであったことを裏付ける傍証ともなるのではないでしょうか。
 赤松の暗殺に関しては、桐野が赤松と同道して歩いている最中に、急に斬りつけて暗殺したなどという、非常に姑息な手を使ったとの伝承がありますが、これも後世の者による作り話であることは、桐野の日記を見れば明らかだと思います。

 当然のことながら、暗殺という手段は、凄惨で絶対に容認出来るものでないことは確かです。
 しかしながら、ただこの一件をもってして、桐野に対し「人斬り半次郎」という異名を付けること自体、いかに虚説が先走りしているかがよく分かるのではないかと思います。
 「人斬り半次郎」という異名は、桐野利秋という人物の評価を低くするために付けられた後世の創作であったと考えてよいのではないでしょうか。


Aに続く




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