西郷隆盛と平野国臣

−英雄と詩人の関係−




 「我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」

 鹿児島を訪れたことのある方、いや訪れたことのない方でも、一度はこの歌を耳にしたことがあるかもしれません。この歌ほど、雄大にそびえ立つ桜島を象徴するのに適した歌は、古今東西無いと言っても過言ではないでしょう。
 この歌の作者こそ、筑前(現在の福岡県)の勤王志士・平野国臣(ひらのくにおみ)その人です。

 西郷と平野の関係を語る上で、欠く事の出来ないのは、月照(げっしょう)の薩摩入りでしょう。
 京都清水寺成就院の住職を勤めていた僧・月照は、公家の近衛家と薩摩藩の仲介役として、西郷らと共に朝廷方面での運動に活躍しました。しかし、井伊直弼が行った「安政の大獄」により、月照もその身が危険となったのです。
 幕府の探索の手から月照を守るため、西郷は月照を薩摩で匿うことを計画しました。西郷は月照と共に京を脱出し、下関に到着した後、月照の身柄を筑前博多近郊に住む同志の北条右門(ほうじょううもん)に託し、急遽先行して薩摩に戻ることにしました。月照の薩摩入りの下工作をするためです。
 しかし、西郷が出発した後、事態は急変しました。幕府が派遣した京都町奉行支配の目明し二人が月照の後を追い、博多に潜入してきたのです。
 このまま月照が博多に留まっているのは危険と感じた北条は、西郷からの連絡を待たずに、月照を先に薩摩に潜入させるのが良いと考え、上座郡大庭村へ月照とその下僕を脱出させました。
 しかし、月照単独の力だけで遠い薩摩に行けるはずがなく、誰か月照の供をして一緒に薩摩に潜入してくれる頼もしい人物が必要だと、北条は感じていました。

「こんな時に、平野どんが居てくれれば……」

 北条の頭の中には、平野国臣という人物が浮かんでおり、北条は彼しかこの大役を果たせる人はいないとも考えていました。

 平野国臣は、筑前黒田家に仕える足軽の次男として生れましたが、大きく変動する時代の流れに触発され、志を持って諸有志らと交わりを持ち、積極的に国事運動に身を投じました。
 余談ですが、平野は奇抜な格好をよく好みました。髪を総髪にし、刀は一昔前の太刀作りの刀を佩き、烏帽子・直垂を着て町中を歩くこともあったと伝えられています。
 こういった点だけを見れば、何か飾った豪快な人物だけのようにも見えますが、平野は和歌も嗜み、笛を奏でることも出来るのです。平野という人物は、博多男児に代表される快男児であっただけではなく、一種の風流人でもあったのです。幕末に活躍した数多くの志士達の中でも、平野は異例の人物であったと言えましょう。

 平野と月照を匿った北条とは、非常に親しく付き合っていた間柄でした。
 また、平野は若い時分から京や江戸に出向くなど、非常に旅慣れた人物であったので、北条は彼に月照の供を頼みたいと考えたのです。
 しかし、その頃、平野は筑後・肥後方面に旅に出ており不在でした。平野が不在であったため、北条は日々月照の薩摩入りについて頭を悩ましていたのですが、突然その平野自身が北条を訪ねて来たのです。北条の喜びは一通りではありません。一番手を借りたいと思っていた人物が、期せずして現れたのですから。

「これこそ、天の助けなり」

 北条は平野に全ての事情を話し、月照の供をして薩摩に行ってくれないかと頼みました。その北条の頼みに、平野は二つ返事で答えました。

「ようござす。行きましょう」

 このように、平野という人物は、いついかなる時でも、清々しいほどの男気と勇気を発する人物なのです。

 平野は月照の供をして薩摩に入ることを簡単に引き受けましたが、当時の薩摩藩は独自に鎖国政策を行なっていたかの如く、関所の警備は厳重を極め、容易に他国人の入国を許しませんでした。正式な関所手形も無く、目明しに追われている月照の供を引き受けるのは、まさに命懸けの行動と言えるものでした。そんな危ない橋を渡ってまでも、月照の身を引き受けた平野の勇気と義侠心には、ほんとうに頭が下がります。

 北条の依頼を受けた平野は、早速月照の潜む大庭村へと向かいました。想像ですが、月照は自分を助けに来てくれた平野のことを感無量で出迎えたことでしょう。
 平野と月照は直ぐに身支度を整え、大庭村を出たのですが、その途中、平野は古道具屋で山伏の装束を買い求め、月照とそれに着替えて薩摩へと向かいました。山伏に扮装するあたりが、いかにも豪快で変装好きな平野らしいやり方です。
(写真)野間之関
平野と月照が入国を拒否された野間之関所跡(鹿児島県出水市)
 その後、平野の知恵と勇気で数々の困難を乗り越えた月照一行は、何とか薩摩領境まで辿り着いたのですが、案の定関所で薩摩への入国を拒否されてしまいました。
 しかし、平野はそれでも諦めませんでした。近辺で舟を雇い、強引に薩摩領内に上陸しようと試みたのです。
 舟で薩摩領内に入るためには、当時潮流が早く、航海の難所と言われていた「黒の瀬戸」と呼ばれる長島と下出水半島との間の海峡を通らなければなりませんでした。
 当時、九州では近海の難所を

「一に玄海、二に千々石(平戸)、三に薩摩の黒の瀬戸」

 と呼んでいました。
 このような難所を平野と月照は真夜中に舟で通ったのです。これを見ても、当時の薩摩への密入国は命懸けだったと言えましょう。
 このようにして月照と平野はようやく薩摩に入ることが出来たのですが、薩摩では大きな悲運が待ち受けていたのです。

 先行して薩摩に戻っていた西郷は、四方八方手を尽くし、藩政府に月照の保護を要求していたのですが、幕府のとがめを恐れた藩政府の態度は非常に冷たく、藩として月照を庇護しようとはしませんでした。
 それでも西郷は諦めずに嘆願を続けていたのですが、月照が平野に連れられて薩摩に入国したことを藩政府が知ると、月照と平野を使者宿に隔離し、西郷を呼び出して、月照らを藩外に追放するよう命じたのです。
 西郷はその命令に憤りを感じましたが、藩士として藩の命令に背くわけにはいきません。かと言って、薩摩藩にとって大恩のある月照を見捨てることも当然出来ません……。
 一先ず西郷は月照と平野を引き連れ、一路日向に向けて鹿児島錦江湾の海に船を漕ぎ出しました。
 船中では、これから待ち受ける月照の苦難を慰めるかのように、平野は笛を奏でていたと伝えられています。
 平野の哀しい笛の音が鳴り響く中、船が錦江湾の華倉の沖合いを過ぎた時、突然、西郷と月照は二人合い抱いて寒中の海に身を投げたのです。
 事態に絶望した西郷と月照は、心中をはかったのです。

「ザブーン」

 という大きな水音が鳴った瞬間、船室に居た平野はすぐに外に飛び出ると、西郷と月照がいないことに気付きました。

「船を止めろ〜! 帆を下ろせ〜!」

 平野は船頭に向かって絶叫しました。
 平野と船に同乗していた薩摩藩の足軽・坂口周右衛門(さかぐちしゅうえもん)は、必死になって辺りを捜しまわりましたが、二人の姿は見えません。その後、懸命な捜索が続き、数刻経った後、二人の体が突然海面に浮き上がってきました。
 平野らは二人を船に引き揚げ、華倉の浜辺へ急遽上陸し、二人を蘇生させるべく熱心な介抱を続けました。
 その結果、月照は絶命しましたが、西郷はすんでのところで息を吹き返したのです。
 西郷の命が助かったのは、ひとえに平野の熱心な捜索と看病のお陰であったと言えましょう。

 この事件があって以後も、平野と西郷は深い交流を続けていくのですが、長くなりましたので、最後に平野が作った一つの和歌を紹介して、本稿を終わりたいと思います。

「君が代の 安けかりせば かねてより 身は花守となりてんものを」

 「花」は「美」と訳した方が分かり易いかもしれません。
 つまり花守とは、美を守る者、つまり芸術家のことを指します。

「国が平和だったなら、自分は詩人や文学者のような芸術家になっただろうに」

 と、平野が自らの胸中や境遇を詠じた和歌ということです。
 この和歌に象徴されるように、平野国臣という人物が単なる志士ではなく、詩才豊かな一流の風流人であったことがうかがわれるのではないでしょうか。




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