西郷隆盛と坂本龍馬

-信頼という絆で結ばれた二人-



 西郷隆盛と坂本龍馬が初めて出会ったのは、元治元(1864)年8月中旬頃であったと伝えられています。
 龍馬は初めて西郷と会った時の感想を、師の勝海舟に次のように語りました。

「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした」

 西郷を「釣り鐘」に、龍馬自身を「撞木(しゅもく)」に例えているところが、いかにも幕末の風雲児である坂本龍馬の言葉であると言えましょう。
 そして、この龍馬の西郷評を聞いた勝は、

「評される人も評される人。評する人も評する人」

 と語ったと伝えられています。
 英雄・西郷と風雲児・龍馬の出会いは、このように劇的な幕開けをしたのです。

坂本龍馬誕生地(高知市)
 天保6(1835)年11月15日、坂本龍馬は高知城下本丁筋一丁目の郷士・坂本家の次男として生まれました。
 土佐では子供が産まれると「元気で丈夫な子に育って欲しい」という願いを込めて、動物の名前を付ける習慣がありました。龍馬という名も、これにあやかって名付けられたと思われます。
 例えば、龍馬の姪の春猪(はるい)にも、「猪」という動物を表す文字が使われていますし、後年、龍馬と共に大政奉還運動を推進した土佐藩の参政・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)にも、「象」という文字が使われています。これを見ても、当時の土佐の習慣が分かるのではないでしょうか。

 文久2(1862)年3月、龍馬は密かに高知城下を抜け出し、土佐藩を脱藩しました。
 当時の土佐藩は、武市半平太(たけちはんぺいた)が率いる「土佐勤皇党(とさきんのうとう)」が、挙藩一致の勤皇運動を起こそうとしていたのですが、龍馬はその武市の考え方に賛同できず、脱藩するに至ったのです。
 脱藩した龍馬は、その後各地を転々とするのですが、最終的には江戸で幕臣の勝海舟に出会い、勝に弟子入りします。そして、元治元(1864)年5月、龍馬は勝が創設した「神戸海軍操練所」に入り、勝から海軍術を学び始めます。
 しかし、この海軍操練所は、幕臣だけでなく、龍馬ら土佐脱藩浪士や他藩士も生徒としていたため、勝は幕府の高官から「勝は神戸で浪士達を煽動している」と身に覚えのない嫌疑をかけられ、操練所は閉鎖に追い込まれ、勝にも江戸への帰還命令が下りました。
 勝は龍馬らの行く末を案じ、当時面識のあった薩摩藩の西郷隆盛に対し、龍馬らの庇護を求めました。勝に惚れ込んでいた西郷は、その依頼を承諾し、龍馬らを薩摩藩邸に匿いました。西郷と龍馬の本格的な交流は、この時から始まったと言えましょう。
 そして、その西郷と龍馬の関係を語る上で、龍馬が周旋した「薩長同盟」は、切っても切り離すことが出来ないものです。

 慶応2(1866)年1月20日、龍馬は薩長同盟締結のために上京していた桂小五郎(かつらこごろう・後の木戸孝允)を京都薩摩屋敷に訪ねました。龍馬としては、同志の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)らと共に奔走した「薩長同盟」が、いよいよ締結される時が来たと胸踊る気持ちで桂に面会を求めたのです。
 しかし、長州藩の代表であった桂と薩摩藩との間で同盟についての話し合いは済んでおらず、桂は明日山口に帰国しようとしていました。桂から未だ同盟が締結されていないことを聞いた龍馬は、驚き、そして怒りました。

「あっしは、長州藩や薩摩藩のためだけに、こんだけの努力をしたわけじゃないぜよ。まっこと、日本全体のことを考えて、中岡も土方も苦労してきたんじゃ。桂さんはわざわざ京まで来ておきながら、同盟の話を切り出さんとはどういうことぜよ」

 龍馬は激しく桂に詰め寄りました。それに対し桂は、こう答えました。

「そうは言うが、現在孤立している長州から薩摩に同盟の話を持ち出せば、それは薩摩に助けを請うようで、到底武士としてそれは出来ん。確かに、この同盟が成らざれば、長州藩は滅亡するじゃろう。しかし、それでも構わん。長州藩が滅亡に追いこまれても、薩摩藩がその後をしっかり継いで、日本のために尽くしてくれるならば、それで本望である」

 このような桂の悲壮な決意を聞いた龍馬は絶句しました。そして、すぐに西郷の元を訪ねたのです。
 龍馬は西郷にこう言いました。

「西郷さん、桂はあっしにこう言いよりました。長州藩滅亡すれども、薩摩がその後を継いでくれれば本望であると。桂もこれだけ日本のことを考えとるがぜよ。西郷さん、ここは互いの面子を捨てて、薩摩藩から長州藩に同盟を申し込んでくれんか。長州藩や薩摩藩のためだけに頼むのではない、日本の将来を考えてのことです」

 龍馬の必死の説得に、西郷は心大きく動かされ、大いに後悔し、自らの配慮の無さを大いに恥じて答えました。

「坂本さん、おいが間違っていもした。薩摩の方から同盟を切り出しもんそ」

 龍馬は土佐藩を脱藩していた一介の浪人です。対して西郷は、大藩・薩摩藩を代表する人物です。普通、そんな大藩の重臣であれば、浪人・龍馬の言葉に、そう簡単に耳を貸すことはなかったでしょう。しかし、西郷は龍馬の言葉をすんなりと受け入れました。これは西郷が龍馬に対し、絶大なる信頼感を持っていたからです。
 こうして、慶応2(1866)年1月、薩長同盟が締結されました。
 西郷そして龍馬。最初の出会いから一年余り経った今、二人は薩長同盟という大仕事を成し遂げたのです。

坂本龍馬新婚の地碑(写真)
鹿児島塩浸温泉に建つ坂本龍馬新婚の碑
 最後に、龍馬が西郷のことをどのように見ていたのかを知る龍馬の一通の手紙を紹介してこのエッセイを終わりたいと思います。
 それは、慶応2(1866)年12月4日付け、龍馬が姉の乙女(おとめ)に宛てた手紙です。「おとめさんにさし上げる」で始まるこの手紙には、龍馬の妻のお龍との恋愛話や、龍馬が京都伏見の寺田屋にて幕吏に襲われ負傷した後、日本初の新婚旅行と言われる鹿児島に行ったこと、お龍と二人で霧島に登山したことなどが、面白おかしく書かれています。龍馬ファンならずとも、この手紙の内容を一度は聞いたことがある方も多くおられることでしょう。その手紙の最後の部分に、西郷のことが書かれています。

「私し其内ニも安心なる事ハ、西郷吉之助の家内も吉之助も、大ニ心のよい人なれバ此方へ妻などハ頼めバ、何もきづかいなし」

 これは国事に奔走する龍馬が、いよいよ幕府と薩長が戦争になった際、妻を西郷家に預けておけば、自分は何の心配も無しに働くことが出来る、と姉に述べている部分です。
 この手紙を持ってしても、西郷のみならず、いかに龍馬が西郷のことを信頼していたのかが、よく分かると思います。
 西郷そして龍馬。
 二人は厚い信頼感によって固く結ばれ、幕末という激動の時代を生き抜いたのです。





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