西郷隆盛と橋本左内

−永遠の友情は消えず−



 幕末という時代において、井伊直弼大老により行われた「安政の大獄」ほど、あたら多くの有志を亡くす結果となった凄惨な事件はないでしょう。
 吉田松陰(よしだしょういん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)等、死罪になった者が七名、その他遠島、謹慎、追放等の処罰を受けた者がおよそ六十名。これらの結果を見れば、いかにこの事件が未曾有の大獄であったのかが分かります。
 安政の大獄で、西郷が最もその死を悼み悲しんだのが、越前福井藩士の橋本左内(はしもとさない)です。

 西郷が左内の刑死を知ったのは、西郷自身が安政の大獄の影響で奄美大島に身を隠して生活している時でした。
 西郷は、万延元(1860)年2月28日付けで誠忠組の同志である大久保利通、税所篤、有村俊斎、吉井幸輔の四名に宛てた手紙の中で、左内の死について次のように書いています。

「橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候」

 この手紙の文面を読めば、いかに西郷が橋本の死を惜しみ、そして悲しんだのかが分かるのではないかと思います。

 橋本と西郷の最初の出会いは、安政2(1855)年12月27日のことでした。場所は江戸、水戸藩士・原田八兵衛(はらだはちべえ)の屋敷で二人は初めて対面しました。
 橋本はその時の西郷の印象を次のように書き留めています。

「薩 芝上屋敷 御庭方 西郷吉兵衛 鮫島正人友人、卯年極月二十七日始於原八宅、相会す、燕趙悲歌之士なり」

 「燕趙悲歌之士」とは中国の故事で、簡単に訳せば「時世を慷慨する者」という意味として考えれば良いと思います。
 西郷は前年の安政元(1854)年1月に、「中小姓・定御供・江戸詰」を命ぜられ、同年4月に庭方役に任命され、その頃江戸薩摩藩邸に勤務していました。
 橋本の手記から考えると、橋本は初めて対面した西郷のことを、ただ時世を慷慨するだけの血気盛んな若者という印象しか持たなかった事が分かります。
 後年の西郷は、人物の押しも堂々とし、体中から圧倒的な重厚さを醸し出した人物ですが、橋本と初対面した当時の彼は、攘夷に騒ぐ一般の志士達と同じように、ただ血気盛んな若者にしか見えなかったのでしょう。西郷も一人の人間ですから、普通の人々と同じように、こういった血気盛んな時期も当然あったのです。

 さて、橋本左内の方ですが、左内は天保5(1834)3月、越前福井藩で奥医師を務めていた橋本長綱の長男として生れました。
 不思議と幕末に活躍した人物の中には、藩医や医者の子弟という経歴を持つ人が多いです。これを持ってしても、幕末という時代は、身分の上下も職業も経歴も、全てが一気にひっくり返った激動の時代であったことがうかがわれます。
 話が少しそれましたが、左内自身は医者の家に生まれた事を余り良く思っていなかったようです。左内が15歳の時に著した『啓発録』という書物の中で、医者の家に生まれた自らの境遇を嘆いている一文があります。
 左内が16歳の冬、大坂で緒方洪庵(おがたこうあん)が主催する「適々斎塾(適塾)」に蘭学修行に出かけたことは非常に有名な話です。この蘭学修行中、左内は横井小楠(よこいしょうなん)や梅田雲浜(うめだうんびん)といった当時一流の学者とも交流しています。このことが、後年左内が国事運動に関わるきっかけとなったかもしれません。
 安政2(1855)年、左内は医員を免ぜられ、士分に列せられて書院番となりました。医者の家に生まれた事を嘆いていた左内にとって、ようやく念願が叶った一瞬であったことでしょう。
 士分に列せられた左内は、同年11月に江戸出府を命じられます。藩主・松平慶永(まつだいらよしなが)から、その洋学の才を大いに買われたためでした。
 そして、左内はその江戸出府中に西郷と初めて対面したのです。
 左内の活躍は、この頃から始まったと言えましょう。

 西郷と左内が共に手を携え、最も活躍したのが「将軍継嗣問題」です。
 将軍が代替わりすれば、その「継嗣(世継ぎ)」を誰にするかということは、その都度問題となるのは当然のことですが、幕末で言う「将軍継嗣問題」とは、江戸幕府第13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)の世継ぎに関することを指します。
 家定は心身共に虚弱な体質の人物で、一説では言語すらもままならなかったとまで伝えられています。家定が将軍に就任した当時は、欧米列強の諸外国が次々と日本に開国を求めるなど、江戸幕府開幕以来の重要問題が山積していました。心身共に虚弱な家定に、それら外交問題を解決出来るはずもなく、そのため志ある諸大名・幕閣らは、リーダーシップを十分に発揮出来る優秀な人物を世継ぎ、つまり将軍にすることで、この国難を乗り切ろうと考えたのです。
 薩摩藩主・島津斉彬、越前福井藩主・松平慶永ら当時賢侯と呼ばれた大名らは、御三家に次ぐ身分の御三卿(ごさんきょう)である一橋家の当主・一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ・後の徳川慶喜)に白羽の矢を立て、彼に家定の跡を継がせるべく、運動を始めました。
 しかし、それに対抗し、当時まだ10代半ばであった紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を跡継ぎに据えようとする運動が、紀州藩の付家老・水野忠央(みずのただなか)を中心に開始されたのです。

 慶喜を擁立する一橋派と慶福を擁立する紀州派は、互いに各方面で激しい運動を始めました。一橋派の中心人物であった慶永は左内を、斉彬は西郷を懐刀として使い、「将軍継嗣問題」に奔走させました。
 特に左内は、幕閣対策や朝廷工作にも携わり、広範多岐に渡って懸命な運動を続けました。また、西郷とは互いに連絡を取り合い、互いの藩主の命に従い、慶喜擁立に努力したのですが、二人の運動は、一人の巨人の登場により、大きく阻まれることとなったのです。

 
それは彦根藩主で大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)です。

 安政5(1858)年4月に大老に就任した井伊は、独断で紀州藩の慶福を家定の世継ぎに決定し、慶喜擁立に動いた諸大名や藩士達を一斉に処罰し始めました。

 
これが世に言う「安政の大獄(あんせいのたいごく)」です。

 薩摩藩では藩主・斉彬が急死し、西郷は安政の大獄の影響で僧・月照と共に京都から脱出しますが、最後は鹿児島で入水自殺を計ることになります。
 一方の福井藩では、藩主・慶永が隠居謹慎を申し付けられました。そして左内はと言うと、安政6(1859)年10月7日、「公儀憚らざるいたし方、右始末不届付」との理由で死罪を命ぜられ、江戸伝馬町の獄で斬刑に処せられたのです。
 橋本左内、享年25歳。若き天才の早過ぎる死でした。

 明治10(1877)年9月24日、西郷隆盛は故郷鹿児島の地において、その長い生涯を終えました。
 自刃した西郷が携帯していた革文庫の中に、一通の手紙が収められていました。
 それは、西郷と左内が「将軍継嗣問題」に奔走していた頃に書かれた左内からの西郷宛の手紙でした。西郷は、左内の手紙を亡くなるその瞬間まで肌身離さず持っていたのです。
 西郷にとって橋本左内という人物は、一生忘れることの出来ない同志であり、永遠の友人でもあったのです。





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