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野村忍介宿営地(宮崎県延岡市) |
(第6回「天性の軍略家・野村忍介」)
野村忍介は、弘化3(1846)年、薩摩藩士・折田清太夫の第二子として、鹿児島城下常磐町に生まれました。初めは亀次郎、そして十郎太、齊蔵と名乗り、最後に忍介と改めました。忍介と書いて、「おしすけ」と読みます。
薩摩藩と言えば、「示現流」という流派の剣術が有名ですが、野村の剣術歴は少し変わっています。
野村自身が書き残した『野村忍介自叙傳』(以降『自叙傳』と略)の写本によると、幼い頃の野村は、太刀流という剣術を習っていますが、それは自らの意にそぐわなかったようで、15歳の時に深見休八の門に入り、真影流を二年間習っています。
しかし、その真影流も野村は気に入らなかったようで、最終的には「野太刀自顕流」の薬丸半左衛門兼義の門に入りました。
よく勘違いされますが、薩摩独特の剣術として知られる「示現流」と野村が学んだ「自顕流」は、読みは共に同じ「じげんりゅう」ですが、厳密には違う流派です。
自顕流は、正式には「野太刀自顕流」と言い、また「薬丸自顕流」とも呼ばれています。
野太刀自顕流は、薬丸兼武という人物が「野太刀流」の術に、東郷重位を始祖として生まれた薩摩藩の伝統的な剣術である「示現流」をミックスして、独自の流派として完成させたものなのです。
野村が学んだ薬丸半左衛門兼義は、野太刀自顕流の開祖である薬丸兼武の嫡子であり、当時城下では評判の高い剣豪でした。そのようなことから、当時、鹿児島城下で野太刀自顕流を学ぶ者が非常に多かったと伝えられています。
例えば、薩摩藩士同士が相討つことになった「寺田屋事件」において、京都伏見の船宿・寺田屋に集結していた倒幕派の有馬新七らを抑えるべく、薩摩藩内から選りすぐりの剣客が鎮撫士として派遣されましたが、その中の大山格之助や鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門は、皆この野太刀自顕流の使い手でした。
他にも「桜田門外の変」に唯一薩摩藩士として参加した有村次左衛門や人斬り半次郎という異名を持った中村半次郎こと桐野利秋なども、この野太刀自顕流を学んでいます。
また、寺田屋に鎮撫使として派遣された薩摩藩士・大山格之助は、軒下から地面にしたたり落ちる雨露を落ちるまでの間に三度刀を抜き払って斬ることが出来たと伝えられています。今から考えれば信じられないような話ですが、大山の剣さばきがいかに鋭かったということを示すエピソードとしては、非常に興味深い話だと思います。
このように野太刀自顕流は、当時の鹿児島城下で広範囲にわたって学ばれていたため、野村はその流行に惹かれて、野太刀自顕流を修得するようになったのかもしれません。
野村が16歳の時、彼は剣術だけではなく、近所に住む是枝生胤という人物に歌道を習っていることが『自叙傳』の中に出てきます。
「適〃和歌を教ゆる人是枝生胤あり来り隣居す予始め歌道に志あり遂に就て学ぶ」
(『西南戦争の記録 第二号』所載「野村忍介自叙傳」より抜粋)
『西南記伝』の中には、野村が詠んだ和歌がいくつか載っていますが、『自叙傳』にあるように、野村の歌の素養は元々青年の時分から歌道に興味を持ち、それを学んでいたからだと言えましょう。
例えば、野村が詠んだ有名な和歌の一つに、
「みとり子の 髪かきなてて 立わかれ 出るも國の 為めにそありける」
というものがありますが、これは西南戦争において、薩軍がいよいよ熊本に向かって鹿児島を出発する前夜、野村が自宅に帰り、家族と別れを惜しんだ際に詠んだ歌です。
最愛の我が子の髪をなでながら、いつまでも別れを惜しむ情景や家族への深い愛が感じられる歌です。また、離別への悲しさが入り混じりながらも、国の為に立ち上がろうとする強い決意も併せて感じとれる、とても味わい深い歌だと言えるのではないでしょうか。
このように、野村の和歌の技量は、青年時から地道に積み重ねられたものだったのです。
若き日の野村は、剣術や和歌だけではなく、砲術を青山愚痴の元で学んでいます。
青山愚痴は、坂本天山が創始し、江戸中期以降に隆盛を極めた天山流砲術を会得した砲術師範家であり、彼の門下には、後に戊辰戦争で薩摩藩小銃第五番隊を率いて活躍することになる野津鎮雄などがいます。
野村は友人であった村田経芳と共に、この青山の元に通ったことが『自叙傳』の中に出てきます。村田経芳は、後に日本最初の国産銃「十三年式村田銃」を開発したことでも有名な人物です。
その他にも、野村は銃砲戦術の合傳流を学んでいるなど、剣術・和歌・砲術・銃戦術など、彼は若くしてあらゆる学問を身につけていますが、これらの素養が後年西南戦争において大いに役立ったことは言うまでもありません。
『西南記伝』は、そんな野村のことを次のように評しています。
「長ずるに及びて、韜略優秀兵を用ゆる俊敏、戊辰の役、丁丑の役、機略縦横戦へば必ず勝ち、攻れば必ず取り、常に能く奇を出して勝を制したるが如き、皆兵学素養の致す所なりと云ふ」
(黒龍会編『西南記伝』より抜粋)
(現代語訳by tsubu)
「成長するに及んで、その戦術・機略は優秀で、兵を用いれば素早く適切な行動を取り、戊辰戦争や西南戦争においては、機略縦横、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず領地を取った。常に奇を以って勝ちを制する。それらは皆、幼い頃に学んだ兵学の素養によるものであると云う」
『西南記伝』の中で評されるように、野村は戊辰戦争においては、川村与十郎(後の純義)率いる薩摩藩小銃第四番隊に編入され、宇都宮、白河、会津などを転戦して活躍し、また西南戦争においても重要な役割を果たしたのです。
明治10(1877)年1月30日、鹿児島に貯蔵してあった武器・弾薬の類を時の明治政府が大阪に移送しようとしたことに激昂した一部の私学校生徒達が、鹿児島城下草牟田(そうむた)にあった陸軍火薬庫を襲撃し、そこから多量の武器・弾薬などを奪う事件が起こりました。
この私学校生徒による「陸軍火薬庫襲撃事件」は、一気に鹿児島各地に飛び火し、この事件をきっかけとして、日本最後の内戦と言われた「西南戦争」が勃発することになります。
私学校生徒による火薬庫襲撃事件のあった5日後の2月4日、西郷隆盛をはじめとする私学校幹部達は、鹿児島城旧厩跡にあった私学校本部に集まり、今後の対策を協議しました。
当時、鹿児島で警察署長を務めていた野村忍介は、その席上で次のように発言したことが『西南記伝』の中に出てきます。
「野村忍介は、壮士六百を率い、汽船に乗じて、水路若州小濱に抵り、是より更に京都に入り、闕下に伏して、奏請するに、急に西郷大将を徴し、且つ沿道の鎮台及衛戍に勅し、特に其路を啓かしむることを以てするの議ありし」
(黒龍会編『西南記伝』より抜粋)
(現代語訳by tsubu)
「野村忍介は、壮士600名を率いて汽船に乗り、海路若狭の小浜に上陸し、ここから更に京都に入って、帝に対し伏して奏上し、急ぎ西郷大将(当時、西郷は陸軍大将のままであったので)を朝廷に徴すことをお決め頂き、かつ沿道の鎮台や衛守に対して勅命を下し、特に京都までの道を開けるようにする策はいかがであろうか、と提案した」
私学校生徒の予期せぬ暴発により、挙兵するか否かの決断を迫られていた状況の中で、野村は挙兵するのであれば、一刻も早く九州の地から中央へと進出し、そして京都に入って勅命の降下を願い、薩軍を官軍にすることが何よりの得策であるという一つの確信を持っていました。
『西南記伝』所収の「野村忍介傳」には、さらに詳しく当時の野村の考えや発言が記されています。
要約すると次のようなものです。
「我が薩軍が挙兵すれば、必ず政府軍はその東上を押さえにかかるであろう。私はいたずらに戦争を好みはしないが、政府軍が薩軍の東上を阻止しようとするのであれば、戦わざるを得ない。しかしながら、先に戦略を立てて戦わなければ必勝は得がたい。戦の勝敗の要は、敵の不意を付くところにある。政府軍は必ず薩軍の進路を妨げる手段に出るだろうから、その虚をついて、決死の兵一大隊を汽船に乗せて、海路若狭の小浜に上陸し、そこから進んで京都に入るべきである。幸いなことに、現在、帝が京都にご滞在なされているので、我が一隊が帝の側にいる奸賊を一掃し、詔勅を請い願い奉り、そこから全国の有志達に対して反政府運動の激を発する。そうすれば、天下の大事はなったも同じである。もし、我が一大隊が全て京都で戦死することになったとしても、薩摩に残る兵隊がその機に乗じて、豊前小倉に出て関門海峡を渡るべし。そうすれば天下の形勢は我が薩軍に帰することは間違いない」
この野村の発言の後半部分にも出てきますが、「豊前小倉へ出て、関門海峡を渡って中央へ出る」という考えを、野村は西南戦争末期に至るまで、常に胸に抱き続け、そして事ある毎にその軍略を桐野利秋ら薩軍幹部へと進言しました。野村は一刻も早く九州から本州に入ることが何よりも重要であり、そして京都や大阪などを押さえて、政府と対決することが大きな勝利へと繋がるという考えを持ち続けていたのです。
野村自身は、とにかく早急に薩軍が挙兵したことを全国に知らしめることが重要であると考えていました。そうすれば、薩軍の挙兵を聞いて呼応しようとする者が必ず全国各地に現れ、薩軍の決起に引き続き絶え間なく反政府運動が起こり、政府がそれらの運動や反乱を全て同時に鎮圧することは不可能となるため、自然薩軍の勝利が見えてくるという風に考えていたと思われます。
しかしながら、結局この野村の提案は受け入れられませんでした。西郷以下薩軍幹部達は、大挙して陸路熊本城に進撃することに決定したのです。
明治初年の戊辰戦争において、戦場の指揮官として多大なる功績を残した旧土佐藩出身の板垣退助は、薩軍が挙兵したその頃、官職を離れて郷里の高知にいましたが、薩軍が熊本城を包囲し攻撃を開始したことを聞いて、
「ああ、西郷、兵を知らず」
と嘆いたと伝えられています。
類稀なる軍事的な才能を持っていた板垣にとって、薩軍がとった熊本城包囲・攻撃策は、最も愚かな戦術であることを瞬間的に感じとったのでしょう。板垣もまた、野村が考えたように、一刻も早く関門海峡を渡って中央に向けて進撃することが一番の良策であると考えていたからです。
当時は政府に対する不平・不満が全国的に噴出し、各地で士族達の反乱が続発し、新たな暴動がいつ起こってもおかしくはない状況でした。薩軍が多数の兵をもって一刻も早く東京へ向かえば、全国各地で薩軍の挙兵に呼応した大規模な反政府運動が起こり、政府は到底それらに対応出来ないものと予想されていました。そのため、板垣も野村も、一刻も早く関門海峡を渡ることが必要だと考えていたのです。
しかしながら、西郷を始めとする薩軍幹部は、野村の献策を入れませんでした……。
結局、板垣の危惧は的中し、熊本城を包囲し攻撃を開始した薩軍でしたが、最後まで城を攻め落とすことが出来ず、その間に政府軍の増援部隊が続々と九州に集結する事態となったため、薩軍は一気に敗北への道を辿ることとなったのです。
次々と増援されてくる政府軍の猛攻により、薩軍は田原坂や吉次峠といった熊本の重要拠点を失い、熊本南方の人吉に退却せざるを得なくなりましたが、明治10(1877)年5月11日、野村忍介は自らの率いる「奇兵隊」を引き連れて、現在の宮崎県の北方、大分県との県境に近い延岡に入り、そこを拠点として豊後(大分)方面への進出を考えました。
藩政時代、延岡は譜代大名であった内藤家が治める七万石の城下町でしたが、野村が延岡を占領しようと考えたのは、
「延岡を拠点にして、豊後(大分)方面に出、一気に中央へと進出する」
という、野村自身が当初から胸中に抱いていた起死回生の作戦を実行するために、軍略上、延岡は非常に重要な場所だと考えたからです。
『西南記伝』(黒龍会編)には、
「野村は、延岡を以て、豊後方面進撃の根拠地と為し、牙営を置き、弾薬製造所を設け、大に鉛、銅、鉄を購究し、兵器弾薬の製造に着手したり」
と書かれており、これを見ても野村がいかに延岡という場所を重要視していたのかがよく分かります。
熊本城奪取に失敗し、敗走せざるを得なくなったとは言え、野村が豊後方面進出に強いこだわりを最後まで持ち続けていたのは、時既に遅しとは言えども、何とかして一刻も早く関門海峡を渡り、京都に向かおうとする考えがあったからだと言えましょう。
これまで書いてきたとおり、野村忍介という人物は天性の軍略家であり、西南戦争において薩軍の拙劣な作戦が目立つ中、彼が戦闘の指揮をとった作戦には、緻密さと用意周到さがあり、野村の指揮能力の高さは、薩軍内でも非常に際立ったものであったと思います。
しかしながら、野村の考えた中央進出に向けての大いなる軍略は、結局叶うことはありませんでした。
明治10(1877)年8月15日、西郷隆盛率いる薩軍は、延岡北方にある「和田越(わだごえ)」において、新政府軍と最後の一大決戦に及びましたが、大きな敗北を喫し、西郷は正式に軍を解散することを決定しました。その後、新政府軍の包囲網をくぐり抜けるため、可愛岳(えのだけ)の峻険な山道を突破して、故郷である鹿児島の地を目指すことになったのです。
西南戦争後、野村は生き残り、懲役10年の刑を受けて、東京佃島の監獄に収容されることになったのですが、明治11(1877)年9月24日、西郷隆盛の一周忌にあたって、獄中で次のような和歌を詠んで西郷の霊を追悼しています。
「命ならて 何を手向けん ものはなし 袖は涙の 時雨のみして」
野村の西郷に対する深い思いが伝わってくるような和歌です。
これまで書いてきたように、野村は文武両道に秀で、薩軍の中でも異彩を放つ、非常に優秀な人物であったと思われます。
薩摩隼人という言葉で表されるように、薩摩人は勇猛果敢、ややもすれば気持ちや思いだけで行動を起こす人達が多かった中、野村は常に冷静に戦局を見つめ続けた、数少ない知将の一人であったと言えるのではないでしょうか。
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