(西郷隆盛の生涯)私学校設立から西南戦争、西郷の死まで


南洲翁終焉之地(写真)
西郷隆盛終焉之地(鹿児島市)


【私学校設立】
 全権大使として朝鮮へ渡海することを断念せざるを得なくなった西郷は、明治六(一八七三)年十月二十三日、政府に辞表を提出し、鹿児島へと帰郷しました。
 西郷の辞職と帰国は、国内に衝撃を走らせました。西郷を慕う陸軍少将の桐野利秋や篠原国幹ら旧薩摩藩出身の近衛兵や士官たちは、西郷に付き従うかのように相次いで辞表を提出して、続々と鹿児島に帰郷しました。
 鹿児島に戻った西郷は、政治的なことには一切関わらず、温泉に湯治に出かけ、農耕に励み、そして魚釣りや狩猟に勤しむなど、俗事から離れた生活を始めました。
 このように西郷が田園生活の中に身を投じている間、政府の根幹を揺るがしかねない大事件が次々と起こっていました。
 明治七(一八七四)年一月、東京赤坂の喰違坂において、岩倉具視が旧土佐藩出身の武市熊吉ら不平士族の集団に襲われ、負傷する事件が起こったのを皮切りに、同年二月には、西郷と共に政府を下野した元参議の江藤新平が、旧肥前佐賀藩の士族を率いて「佐賀の乱」を起こしました。
また、政府が台湾に出兵することを決定するなど(台湾出兵)(注)、国内外に問題が噴出し始めたのです。(注:明治四(一八七一)年十月、台湾に漂着した琉球漁民が、台湾の先住部族により殺害されたことを発端に、政府が軍事介入した事件)
 このように政情が著しく不安定になっていく中、明治七(一八七四)年六月、西郷は旧薩摩藩の居城・鶴丸城の厩跡に「私学校」を設立しました。
私学校とは、砲隊学校と銃隊学校及び賞典学校(幼年学校)からなる、いわゆる公立に対しての私立の学校で、西郷は鹿児島に帰郷した若者たちの受け皿として教育機関を設立したのです。
 また、西郷は、ロシアや欧米列強諸国の軍事的な脅威に備えるため、軍隊の養成機関とも言える私学校を設立し、いざ日本に国難が迫った際には、そこで育てた人材や兵士を活用させることを考えていたとも伝えられています。


西郷隆盛が創設した私学校跡(鹿児島市)
【西南戦争】
 明治九(一八七六)年に入ると、さらに全国各地で不平士族の反乱が頻発しました。
 同年十月二十四日、熊本において旧肥後熊本藩士族の太田黒伴雄を中心とした不平士族の集団が熊本城を襲撃して「神風連(しんぷうれん)の乱」を起こし、同月二十七日には福岡県で「秋月の乱」、また、同月二十八日には山口県で前原一誠が「萩の乱」を起こしました。
このように全国各地で反政府運動が続出しましたが、鹿児島の西郷はその動きに呼応することは一切ありませんでした。
 しかし、政府にとって、明治維新最大の戦力となった旧薩摩藩士族の動きは最も気にかかるところであったため、西郷の創設した鹿児島の私学校の動きを監視するため、警視庁の大警視・川路利良は、旧薩摩藩出身の中原尚雄(なかはらなおお)ら二十三名を密偵として鹿児島に送り込みました。中原たちの目的は、鹿児島県の情勢調査と私学校と西郷の離間を図るというものでしたが、後に中原たちが私学校関係者に捕縛され、尋問を受けた際に、西郷暗殺計画を自供したことから、この密偵団には「西郷暗殺」の密命が下されていたとする説があります。
 また、明治十(一八七七)年一月、政府は旧薩摩藩士族の力をそぐために、鹿児島の陸軍火薬庫から武器・弾薬の類を大坂に移送しようとしました。
 このような政府の動きを知った一部の私学校生徒たちは、政府のやり方に激昂し、明治十(一八七七)年一月三十日夜、徒党を組み、城下草牟田(そうむた)にあった陸軍火薬庫を襲撃して、武器・弾薬を奪う事件を引き起こしました。
 また、血気にはやる若者たちの行動は県内に飛び火して、鹿児島県内の火薬庫が次々と襲われ、鹿児島城下は火を放ったような大騒動となりました。
 このように鹿児島城下が騒然とする中、その時西郷は城下から遠く離れた、大隈半島の小根占(こねじめ)という場所へ狩猟に出かけていました。
 西郷は、私学校生徒が政府の挑発に乗り、陸軍の火薬庫を襲ったとの一報に接した時、

「しまった! なんちゅうこっを……」

 と、一言漏らしたと伝えられています。
 西郷は急ぎ鹿児島城下へと戻りましたが、一度放たれた炎は益々激しく燃え上がり、既に手の施しようのない状態となっていました。
 西郷と私学校の幹部たちは、その対応を協議しましたが、火薬庫を襲った若者たちを捕え、政府に身柄を差し出すことへの反対意見も多く、結果、上京出兵が決定されたのです。
 西郷はその時、

「おいの体をおはんたち(お前たち)に差し上げもんそ」

と語ったと伝えられています。
 ここにきて、西郷は政府に対して弓をひく形で、挙兵することを決意したのです。


【西郷城山に散る】
 
「今般政府へ尋問の筋これあり」

 西郷は挙兵の大義名分を掲げ、明治十(一八七七)年二月十七日、約一万三千の旧薩摩藩士族を率いて、東京へ向けて進撃を開始しました。
 世に言う「西南戦争(西南の役)」の始まりです。
 西南戦争において、西郷率いる薩軍は、一路北上して熊本に向かい、後世最も拙劣と言われた熊本城を包囲する作戦を取り、その後の戦況を悪化させることになります。
 一方政府は、西郷挙兵の情報を察知すると、すぐさま征討軍を組織し、九州へ大兵団を送り込みました。
 熊本城を本拠としていた熊本鎮台もまた、薩軍に対して徹底抗戦の構えを見せ、ここに日本最後の内戦と言われた西南戦争の火ぶたは切って落とされたのです。
 西郷率いる薩軍は、熊本城を幾重にも包囲して激しい攻撃を加えましたが、天下の名城と謳われた熊本城をついに陥落させることが出来ず、その後、博多から南下してきた大軍勢の政府軍と田原坂(たばるざか)や吉次峠などで激しい戦闘を繰り広げました。
 しかし、圧倒的な兵力と物資を誇る政府軍に対し、薩軍の敗戦は濃厚となり、追い詰められていきました。
 薩軍は熊本、大分、宮崎、鹿児島と各地を転戦した結果、明治十(一八七七)年八月十五日、延岡北方の和田越(わだごえ)における決戦で大敗を喫し、西郷は長井村(現在の宮崎県延岡市長井)において正式に軍を解散し、生き残った薩軍将兵らと共に、険しい日向の山道を潜り抜け、一路鹿児島に向かって引き返しました。西郷以下薩軍将兵たちは、故郷鹿児島で最後の決戦を行なおうと考えたのです。
 網の目を潜り抜けるように、ようやく鹿児島へと戻った薩軍は、旧鶴丸城背後にそびえる峻険な城山を占領し、土塁を積み上げ、陣地を作り上げました。
 しかし、薩軍が鹿児島に入ったことを知った政府軍もまた、兵士を増強し、城山を幾重にも包囲しました。

 そして、迎えた運命の明治十(一八七七)年九月二十四日。
 政府軍は総攻撃を始め、城山に向けて集中砲火を浴びせかけました。
西郷と薩軍将兵たちは、潔く前へ進んで死のうと決意を固め、城山を下山し始めました。西郷に付き従った将兵たちは、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れていきましたが、それでもなお西郷は前へ前へと歩み続けました。その時、一発の銃弾が西郷の体を貫きました。政府軍が放った流れ弾が、西郷の肩と太股に当たり、西郷はその場にがっくりと膝を落としました。
 西郷は傍らにいた別府晋介に向かって言いました。

「晋どん、もうここいらでよか……」

 別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせー」と叫び、西郷の首を斬り落としました。
 西郷隆盛、四十九歳の波乱に満ちた生涯の幕切れでした。
 西郷という人物は、若き日、島津斉彬に見出されて世に出て以来、常に人々の期待や信頼を集め、明治維新という一大革命を成し遂げる立役者の一人となりました。
 しかしながら、西郷自身はその功績に決して驕ることなく、常に自らを厳しく律し、無欲でいることを心がけました。
 また、「敬天愛人」という言葉が象徴しているように、その性格は愛情深く、常に民衆の側からの政治を目指すことを理想としました。
 日本の歴史上、このような人物は、西郷ただ一人しか存在していないと言っても過言ではありません。西郷は清廉誠実な人物であり、最も徳望ある英雄であったと言えます。







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