西郷と久光の関係(1)
-「西郷召還」から「寺田屋騒動」まで-


 西郷隆盛と島津久光(しまづひさみつ)が、終生相入れない仲であったことは、大変よく知られていることですが(よく知らない方は、この「テーマ随筆」を読んで是非知って下さい)、今回本サイトの記念すべき最初の「テーマ随筆」は、この二人の関係について書いていきたいと思います。

 まず、「なぜ最初のテーマが西郷と久光なのか?」と素朴な疑問を持たれる方もおられるでしょうが、最初にこのテーマを選んだ理由は二つあります。

 一つは、この二人の関係が、薩摩の幕末史だけにとどまらず、幕末全体の歴史、並びに明治になってからの政局にも多大な影響を与えているため。

 二つは、一般に理解しにくいとか、謎が多いと言われる西郷を理解するためには、この久光という存在を抜きには絶対考えられないため。


 つまり、西郷の行動や言動を正確に理解するためには、久光との関係を正確に理解する必要があるのです。従来の西郷批判家は、この久光と西郷の関係をなおざりにしていたため、西郷の行動や言動を誤解している人が非常に多いと言えます。
 以上述べた二つの理由により、記念すべき最初の「テーマ随筆」は、「西郷と久光の関係」として、「西郷召還」から「寺田屋騒動」の時期に焦点を絞って述べていきたいと思います。


島津久光肖像画
島津久光肖像(原田直次郎画)尚古集成館蔵
(1)島津久光の中央乗り出し策について
 文久元(1861)年、薩摩藩第29代藩主・島津忠義(しまづただよし)の実父である島津久光は、「公武合体政策」(朝廷と幕府が共に力を合わせ、政治を行なっていこうとする政策)の実現と幕政改革を目的に、率兵上京計画を企てました。
 この計画がどんなものであったかと言うと、この計画の元々の発案者は、久光の異母兄の第28代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)でした。斉彬がどのような人物であったかをここで詳しく説明するのは控えますが、斉彬は当時三百諸侯中随一の英明君主と謳われ、名君と言われた人でありました。(島津斉彬と率兵上京計画については、本サイトの「西郷隆盛の生涯」で簡単に説明しています)
 その斉彬が、井伊直弼が大老に就任したことにより、強行的な武断政治を取り始めた幕府の横暴を食い止めるべく計画したのが、この率兵上京計画だったのです。これは斉彬自身が薩摩から兵を率いて京都に入り、朝廷から幕政改革の勅命を受け、強大な兵力を背景に、幕府に対して幕政改革を迫る、という壮大な計画でありました。
 一外様大名が兵力を用いて江戸幕府の改革を要求するという、いわば一種の「クーデター計画」は、開幕以来前代未聞のことであったと言えるでしょう。これは英明と謳われた斉彬だからこそ、考えられた計画だったのです。
 しかし、その斉彬は、その率兵上京計画を実行する前、安政5(1858)年7月に突然病に倒れて亡くなり、この計画は結局果たせずに終わってしまいました。そのため、井伊大老により、世は「安政の大獄」などという恐怖政治が横行することになったのですが、それについては今回述べません。この随筆のテーマは、西郷と久光ですからね。

 斉彬の死後、藩主の座についたのが、斉彬の異母弟の久光の嫡男で、当時19歳の忠義でした。忠義という人は、素直で非常に聡明な人であったと伝えられていますが、このような激動の時代を力強く生き抜く「気力」というものが少々不足気味の人でした。つまり、人柄は良いのだが、リーダーシップを発揮し、どんどん積極的に行動していくような人物ではなかったのです。今の小渕総理のようなものでしょうか。
 少し余談を挟みましたが、忠義がそのような人物であったので、それに代わり藩政の表舞台に出てきたのが、忠義の実父である島津久光です。斉彬と久光とは腹違いの兄弟であり、斉彬は第27代藩主・島津斉興(しまづなりおき)の正室・周子(かねこ)の子であるのに対して、久光は斉興の愛妾・由羅(ゆら)の子でした。
 斉興が斉彬を嫌い、愛妾の由羅を溺愛していたため、斉興の跡継ぎをめぐり、薩摩藩では「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動まで起こるのですが、この騒動の詳細については、後日「テーマ随筆」で書きたいと思いますので、今回は省略します。ともかく、結局は正室の子の斉彬が藩主の座に就き、弟の久光は臣籍(家臣の地位)に下ることになったのです。

 しかし、斉彬が急死し、そして忠義の後見人であった前々藩主の斉興が亡くなると、忠義は実父を家臣の待遇にしておくのは、子として孝道にそむくという理由から、久光を藩主と同等の待遇を受けることが出来る「上通り」(かみどおり)という身分にしました。
 久光という人物は、子の忠義とは正反対に、頑固で保守的な性質でありましたが、人物の押しも堂々としており、学問も国学を中心にかなりの学力がある人物でした。そのため、自然藩主の忠義ではなく、その父の久光が藩内で実権を握るようになったのです。
 このような形で、久光という人物は、殿様待遇の身分となり、藩の実権を握ったのですが、なぜこの久光が、斉彬が果たせなかった先程の率兵上京計画に乗り出してきたのかと言うと、その理由は大きく二つ挙げられると思います。

 まず一つ、誠忠組のメンバー(特に大久保)らによって、久光自身が時局に目覚めさせられたため。

 目覚めさせられたという表現が正しいかどうかは分かりませんが、久光自身を国政に乗り出す気にさせたと言っても良いと思います。
 誠忠組とは、西郷隆盛や大久保利通らが結成していた若手の改革派集団といったものです。その中心人物の一人である大久保は、自ら藩政を動かすことが出来る地位に就くために、碁を通じて久光に近づいたことは有名な話ですが、それと同時に大久保は、久光に現在の日本の政治情勢などについて事あるごとに意見書などを出し、久光を教育していったのです。(本サイト内の「西郷と大久保」参照)
 家臣が身分の高い人物を教育するというのは、今から聞けばおかしな話ですが、当時の幕藩体制の世の中では、新聞や週刊誌などという時事を談じたものもなく、情報が行き交わない時代でもあり、身分の高い人物ほど時局についての詳細な情報は知らなかったものなのです。その点、大久保は誠忠組の同志らが江戸等に勤務しており、その手紙などから新しい情報をたくさん持っていました。大久保は久光に取り入るべく、そんな最新情報を差し出し、久光は大久保から差し出される意見書を、今で言う新聞のような形で読んでいたと思われます。これによって久光は、現在の日本の置かれた状況について詳しく知るようになり、次第に時局に目覚めていき、国政に乗り出す気になったのです。

 そして、二つ目ですが、それは久光自身がかなりの野心家であったということです。

 藩主の次男、三男と言えば、当時は部屋住みと呼ばれ、待遇も非常に悪いものでした。
 前述したとおり、久光は一度臣籍に下っていた経緯があり(鹿児島の北東にある重富という土地の領主でした)、常日頃から面白くない平凡な生活をしていたのですから、自分の息子が藩主となり、自らも殿様待遇となったことは、彼にとって千載一遇のチャンスであり、彼の野心に火を付けたといっても過言ではないでしょう。
 久光という人物は、最も頑迷で保守的な性格ですが、世に出たいという野心だけは、人並み以上に強いものがあったと思われます。現に久光は、この後自分の子の忠義を廃して、自ら薩摩藩主になるために幕府に運動をするぐらいですから。これを見ても、久光がかなりの野心家であったことが伺われます。

 このような二つの要因が絡み合ったのが、久光が斉彬の考案した率兵上京計画を踏襲しようと考えた原因となっているのですが、もう一つ、当時の社会状況が久光をこの上京計画実現に向かわせたと言えるでしょう。

 文久元(1861)年という年は、長州藩が「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」という、公武合体政策を朝廷と幕府に斡旋しようと運動していました。この航海遠略策は、長州藩士の長井雅楽(ながいうた)という人物が提唱したものなのですが、これがなかなか堂々たる計画で、幕府にも朝廷にも大変受けが良く、京において一大ブームを巻き起こしていました。
 しかしながら、この航海遠略策というものは、世上には恐ろしく評判の悪いものでした。その理由は、航海遠略策が主唱する公武合体策は、幕主朝従、つまり幕府主導型の公武合体策であったからです。(実際はそういうわけでもないのですが)長州藩内でも、松下村塾党と呼ばれる若い藩士達は、長井の策に猛反対で、長井を斬ろうとまで言う人間がいたくらいです。
 つまり、航海遠略策は、幕府や朝廷の高官達には大変受けが良かったのですが、一般レベルの人々には、大変受けが悪かったのです。そのため、この航海遠略策は、最初は羽振りが良かったのですが、長州藩の下級藩士(前述した松下村塾党)や一般の志士連中が公家に対し反対運動を起こしたことにより、次第に勢いがなくなり、公家の中でもこれを批判する人が出てきたのです。
 ようやく時局に目覚め、このような情勢を聞いた久光としては、今まで皆無であった強大な権力を手にした今、ここで自らが朝廷主導の公武合体政策ひっさげて京都に行けば、薩摩藩の評判というものが大きく上がり、ひいては自分も颯爽と京都政界に登場出来ると考えました。このような形で、久光は率兵上京計画を実行しようと考えたのです。

 薩摩藩の率兵上京計画は、言わば久光の政界デビュー戦にもあたる重要なものですから、久光としては俄然力が入りました。何とかして成功を収めたい、と久光は考えていたため、この計画を推進する上で、あくまでもこの計画の発案者・順聖公(斉彬の送り名)の遺志を継ぐ、ということを全面的に押し出しました。これは、藩内の人心を統一して事を成すには、斉彬の遺志であるということを強調することが一番効果があったからです。
 何と言っても、久光は殿様待遇になったばかりの人物ですので、家臣達にまだ人望がありません。久光がいかに号令をかけようとも、「笛吹けど踊れず」といった感じで、藩内の人間が一致団結して行動するかどうかに、久光自身かなりの疑問があったと思われます。そのため、「順聖公の遺志」を全面的に押し出すことによって、計画を進めました。
 実際のところ、久光の心中には、斉彬の遺志を継ぐというよりも、自分が世に出たいという気持ちの方が上だったかもしれません。
 これまで述べてきたことに反して、特に歴史の通説では、斉彬が死の目前、弟の久光に自分の遺志を継ぐようにと遺言したことが、久光が率兵上京計画に乗り出した最大の理由であるという風に書かれている書物が少なくありません。
 しかし、この計画における西郷の反応や動き、斉彬の重臣であった人々の言動や行動を見ると、もしかするとこのような遺言は無かったのではないか、という疑問すら沸いてきます。
 この件については、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏が鋭い論証をされているので、それについては次回の(2)で紹介したいと考えています。
 ともあれ、このような経緯で、久光は率兵上京計画の実現を目指すことになったのです。


(2)につづく




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