薩長派遣留学生の明治維新
-薩長留学生のロンドンでの出会い-


 慶応元(1865)年3月22日、薩摩藩は15名の藩士を派遣留学生としてイギリスへと留学させました。(視察員を含めると19名)薩摩藩が外国に留学生を派遣したのは、これが初めてのことです。
 当時、江戸幕府により日本人の海外渡航は禁止、つまり国禁とされていましたから、彼らはいわゆる密航留学生でした。
 薩摩藩がイギリスに留学生を派遣することを決定した背景には、やはり文久3(1863)年の薩英戦争による藩論の転換と言うことが、まず第一の原因に挙げられるでしょう。
 イギリスとの戦いを経験した薩摩藩は、強大な西欧文明の力を実感したことにより、攘夷というものが、いかに愚かで不可能な政策であるかを身をもって知りました。そのため、薩摩藩は、西欧の技術や知識を積極的に吸収することにより、藩(国)の力を増強させる富国強兵政策へと藩論を転換させたのです。このことが薩摩藩がイギリスに留学生を派遣するきっかけとなったと言えましょう。
 薩摩藩はイギリスへ留学生を派遣するにあたり、藩の開成所(かいせいしょ)に所属していた藩士達を中心に留学生を選抜することを決定しました。開成所とは、元治元(1864)年6月に、薩摩藩内の洋学教育を目指して設立された機関で、陸海軍に関する砲術や兵法といった軍事に関するものや天文、数学、造船、物理、語学といった西洋技術や知識の教育機関として運用されていたものです。
 薩摩藩上層部が、開成所で西洋知識を勉学する藩士達から派遣留学生を選抜したのは、当然のことであったと言えるでしょう。
(写真)森有礼誕生地
薩摩藩派遣留学生・森有礼誕生地(鹿児島市)
 イギリスへの派遣留学生は、総勢で16名選抜されました。(内1名は渡航前に死亡)この留学生の中には、後の初代文部大臣となる森有礼(もりありのり。当時は森金之丞)や明治政府の駐仏公使となる鮫島尚信(さめじまなおのぶ。当時は鮫島誠蔵)といった面々がいました。
 15名の選抜留学生一行は、慶応元(1865)年1月20日に鹿児島城下を出発し、一路鹿児島の西方の串木野郷羽島浦(くしきのごうはしまうら)に向かいました。そして、3月22日、長崎で武器商を営んでいたトーマス・グラバーが所有する小型蒸気船「オースタライエン号」で一路香港へ向けて出発しました。これが、薩摩藩最初の海外派遣留学生の旅立ちの時でした。

 香港に着いた薩摩藩派遣留学生の一行は、そこでイギリスの大型客船に乗り換え、一路遙か彼方イギリスに向けて出発しました。
 留学生一行がイギリスの南方・サザンプトン港に到着したのは、慶応元(1865)年5月28日のことです。鹿児島を出発してから約二ヶ月の船旅でした。
 留学生一行はサザンプトンから汽車に乗り換え、その日の内にロンドンに到着しました。彼ら薩摩藩留学生一行の世話を見たのは、トーマス・グラバーの兄・ジェイムズ・グラバーと留学生と共に日本から随行したグラバー商会のライル・ホームという二人の人物です。この二人は、遙か彼方日本からやって来た留学生に対して、今後の留学プランを作成したり、生活面での支援を行ったり、と親身になって世話をすることになるのです。

 留学生一行の留学生活が本格的に始まろうとしていた閏5月3日、グラヴバーとホームの二人が彼ら留学生に驚くべき話をしました。ホームの話によると、昨日、留学生の宿舎からの帰り道、偶然に路上で三人の日本人と遭遇したというのです。薩摩藩の派遣留学生の一人である畠山丈之助(はたけやまたけのすけ。後の畠山義成)は、その自身の日記の中で次のように記しています。

「昨日はホーム長州人に途中にて鳥渡(ちょっと)遇い候由、今日此方に来るの時も又々遇い委敷事(くわしきこと)相分からず候えども、三人一昨年より当地へ来り分理学稽古致候哉にホームより聞及候」
(犬塚孝明著『密航留学生たちの明治維新』所載、『畠山義成洋行日記』より参照抜粋。原文はカタカナ交じり文)


 留学生一行は、ホームの話に驚愕したであろうことは想像に難くありません。まさか自分達よりも先に、それも一昨年に、長州藩士がイギリスに留学していたのですから。
 ライル・ホームが出くわした三人の長州人とは、長州藩士・山尾庸三(やまおようぞう)、遠藤謹助(えんどうきんすけ)、野村弥吉(のむらやきち)の三人です。この三人は、一昨年の文久3(1863)年に、横浜のジャーディン・マジソン商会の仲介で、イギリスのロンドンに留学していました。
 ただ、当初はこの三人の他にも、井上聞多(いのうえもんた。後の井上馨)と伊藤俊輔(いとうしゅんすけ。後の伊藤博文)という長州藩士も留学生としてイギリスに滞在していたのです。
 長州藩がイギリスへ留学生を派遣した背景は、薩摩藩の場合とは決定的に異なります。薩摩藩が薩英戦争により、積極的に西洋知識・技術を吸収しようする富国強兵政策に藩論を転換したことが、留学生派遣の大きな原因となったことは前述しましたが、それに対し、文久3(1863)年段階の長州藩の藩論は「尊皇攘夷」を中心としたものでした。そのため、この長州藩の五名の留学生派遣計画は、藩が積極的に行ったものではなく、井上らの留学希望の上申に対して、それを黙認する形で行われたのです。つまり、薩摩藩の場合が藩公認の留学生であったとすれば、長州藩のはそうではなかったということになります。
 このように、薩摩藩が藩の政策として留学生を派遣した経緯と比べると、長州藩の場合は、その経緯が大きく異なっていると言えましょう。

 話を長州藩の五人の留学生に戻します。
 この五人の留学生は、文久3(1863)年5月12日に横浜を出発後、途中上海に立ち寄り、9月22日にイギリスに到着しました。彼らのイギリスまでの留学過程にも、非常に面白い逸話がたくさんあるのですが、それは本題から外れますので、後の機会にします。
 長州藩から派遣された五人の留学生は、ロンドン大学で分析化学を勉強し、大学にいる時以外は、英語や数学といった基礎教育を学ぶ生活を続けていたのですが、元治元(1864)年、彼らにある一つの転機が訪れました。
 元治元(1864)年に入ると、前年文久3年に、長州藩が下関において外国船を砲撃したことに対して、英・仏・蘭・米の四カ国連合艦隊が、長州藩に対し直接報復行動に出る、という噂が新聞紙上で具体的に掲載されてきました。
 さかのぼること文久3(1863)年5月11日、攘夷の実行と称して、長州藩がアメリカ商船・ペンブローク号を砲撃する事件が起こりました。これは、長州藩の派遣留学生が横浜を出航する前日のことです。その後も長州藩は、フランスやオランダの軍艦を次々に下関で砲撃しました。この長州藩の一連の過激な行動に対し、イギリスの提唱のもと、仏・蘭・米の諸国は共同戦線を張り、四カ国の連合艦隊を組織し、実力で「下関海峡通航の安全確保」を目指して、長州藩を直接攻撃する可能性が出てきたのです。
 五人の留学生の内、井上と伊藤は、ロンドンの新聞紙上で、この迫り来る長州藩の危機を初めて知り、留学を中断し、日本に帰国して四カ国連合艦隊の行動を阻止しようと考えました。周囲の人々は、井上と伊藤の行動を止めようとしたのですが、結局二人は元治元年3月中旬、関係者の静止を振り切り、日本へ帰国することにしたのです。
 以上のような状況から、慶応元(1865)年の段階では、ロンドンには三人の長州藩留学生しか残っていませんでした。ホームが出会った長州藩の留学生が三名だったのは、このような理由からです。

 さて、ライル・ホームが長州藩の留学生と出会ってから約一週間後の閏5月10日、長州藩の三人の留学生が、薩摩藩留学生をその宿舎に訪ねてきました。
 前出の畠山の日記には次のように書かれています。

「今日は日曜日にて十一時頃より石垣氏(視察員・新納刑部の変名。)宿へ差越候。暫有て帰り候。長州人先日より一行へ面会致度よしホームを以て申入候に付、今日の六時後より三人被参(まいられ)首尾委敷(くわしく)聞候処、江戸へ初めて出て一昨年五月十日攘夷期限之砌(みぎり)、前々日五月八日夜中横浜を忍出、懇意之西洋人へ便り異船へ被乗込四ヶ月目に当地へ着被致候由、其節は五人にて候得共両人は昨年帰国被致候由聞及候。其他彼処之咄等有之十一時に被帰候」
(犬塚孝明著『薩摩藩英国留学生』所載、『畠山義成洋行日記』より参照抜粋。原文はカタカナ交じり文)


 この記述を見ると、長州藩の留学生がホームを通じて、薩摩藩の留学生に面会を求めたこと、夕方の六時から十一時まで、長州藩士の留学に至る経緯を聞いたこと、また、井上・伊藤の両名が前年に帰国したこと、などを話し合ったことがよく分かります。
 これが薩長派遣留学生が、ロンドンにおいて最初に出会った瞬間でした。
 当然、この時点の日本においては、薩長の関係は良好ではなく非常に深刻で、薩長同盟はまだ締結されていません。(薩長同盟の締結は、翌慶応2(1866)年1月)
 しかしながら、外国で同じように生活する日本人が居たことについては、薩長の両藩士ともさぞ驚いたと思われますが、それと共に一種の懐かしい気持ちを感じたのではないでしょうか。
 薩長の留学生は、この時よほど打ち解けたのか、翌日の閏5月11日、長州藩士・山尾庸三の誘いで、大学のスポーツ大会を一緒に観戦しに行っていることが、畠山の日記に出てきます。そして、この薩摩藩と長州藩の留学生の交流は、その後も末永く続きました。
 畠山の日記には、山尾と同行して「ロンドン塔」を一緒に見学したこと、ベッドフォードの鉄工場やその他イギリスの造船場や武器庫などを長州藩士と共に見学に出かけたことなどが書かれています。
 また、山尾が造船学を学ぶために、スコットランドのグラスゴーに行こうとした際にも、学費に窮して旅費の工面が出来なかった山尾に対し、薩摩藩の留学生達が1ポンドずつカンパしあい、計16ポンドのお金を旅費として山尾に貸し与えています。
 当時の社会においては、藩というものは現代の感覚で言う国というものに等しく、ましてや、文久3(1863)年8月18日の政変以来、薩摩藩と長州藩の関係は相容れぬ非常に深刻なものになっていたにも関わらず、遠い異国の地で学ぶ薩長の留学生達は、藩という大きな垣根を越えて、お互いに交流を深めていたのです。
 おそらく彼らの頭の中には、「自分達は同じ日本人である」という共通の概念が、イギリスでの留学生活の中で芽生えていたからではないでしょうか。



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