西郷と久光の関係(8)
-西郷の捕縛命令-


(8)西郷の捕縛命令
 前回では、西郷と大久保の京・大坂における動きを中心に書いてきましたが、今回は、もう一方の当事者である島津久光の動きから話を始めることにします。
 下関において大久保を先発させた久光は、下関から蒸気船を利用して、文久2(1862)年4月3日、播磨の室津港(現在の兵庫県揖保郡御津町室津)に到着しました。
 久光が室津に到着した時、久光自身が京・大坂方面に探索役として派遣していた高崎猪太郎が戻ってきて、「大坂方面には浪人共が多数集結し、誠に不穏な情勢となっております」と報告しました。余談ですが、高崎猪太郎とは、後に高崎五六と名を改め、久光の公武合体運動工作の片腕として活躍することになる人物です。
 高崎の報告を聞いた久光は、ここでも苦虫を噛み潰すような嫌な思いがしたことでしょう。何度も申しますが、久光という人物は、自分が計画している公武合体運動の邪魔をしようとしている浪士達の動きが目障りで仕方がないのです。久光が鹿児島を出発するに際し、随行する藩士らに対して行なった布告を(6)で書きましたが、もう一度同じことを抜粋します。

「近頃、浪人等が尊皇攘夷の名の元に容易ならざる計画を企て、藩内にもその浪士等と交際している者があると聞くが、今後は彼等と一切の交際を絶ち藩命に従うように」

 これを見れば、いかに久光が浪士達に対して警戒し、彼らの存在を煙たがっていたのかがよく分かります。
 また、高崎の報告を聞いた久光は、大坂に集結している浪士達の運動の中心に西郷がいるのではないかと、もしかすると考えたかもしれません。久光の西郷に対する憎悪は、西郷が命令を無視して独断で大坂に向かったことで非常に大きく膨らんでいますので、そう考えたと推測してもおかしくはないと思います。

 さて、久光は高崎の「大坂方面が不穏」との報告を受けて、室津から陸路をとって大坂を目指すことにしました。おそらく、陸路をとって時間をかけながら進むことによって、京・大坂方面の詳細な情報を入手し、様子を見ながら上京するつもりだったと思われます。
 このように久光の行列が陸路をとって室津から姫路に到着した時、一人の薩摩藩士が久光に面会を求めにやって来ました。その薩摩藩士の名は、海江田武次(かいえだたけじ)、前名を有村俊斎と言って、西郷・大久保と同じく誠忠組の同志の一人です。海江田は、大久保と同じく久光の行列に付き従い鹿児島を出発したのですが、薩摩領内の阿久根において、「先行して、京・大坂の情勢を探索するように」という久光からの命令を受け、そこから先行して京・大坂に向かいました。高崎と言い、そしてこの海江田と言い、久光は自らの子飼いの藩士を探索役として派遣していることから考えても、久光がいかに京・大坂の情勢に敏感になっていたのかがよく分かると思います。
 久光に派遣された海江田は、京の情勢を探った後、伏見から大坂に帰る三十石船の船中で、偶然にも筑前の浪士・平野国臣と出会いました。平野という人物が『尊攘英断録』という倒幕策を薩摩藩主に建白し、この一連の倒幕のための挙兵計画に深く関わる人物であったことは何度も書いてきたとおりです。この平野と海江田が偶然船中で出くわしたのですが、この奇妙な偶然が、西郷を災難に落とす原因の一つとなるのです。

 平野と海江田はお互い旧知の間柄です。平野は僧・月照の保護を依頼されて薩摩に密入国した経緯もあり、海江田のことはよく知っていたからです。
 平野は海江田と出会うと、大きく心打ち解けて、自分の胸中に秘めた倒幕策を全て海江田に話しました。海江田と西郷は共に誠忠組の同志でしたから、平野は海江田に心から気を許していたのです。平野は海江田に対し、下関で西郷と共に、「決策が立てば共に戦死しようではないか」と語り合ったことを話しました。
 下関に着いた西郷が平野に対し、決策、つまり倒幕の策が立てば、共に戦死しようではないかと述べたことは、西郷の手紙を引用して(6)で書きました。平野はこの西郷の言葉をそっくりそのまま海江田に対し話してしまったのです。平野としては、まさか海江田が久光の忠実な家来であり、久光から情勢探索の役目を負わされているなど露とも知らなかったことでしょう。平野は、海江田も西郷と同じ志を持っている者と勘違いしてしまったのです。
 平野から思いもかけない話を聞いた海江田は、大きな志というものよりも、当時は久光から命ぜられた探索役を立派に勤め上げようと考えることで頭が一杯でしたから、平野から西郷の話を聞くと、「これは良いことを聞いた!」とばかりに喜んで、久光の行列が到着する姫路へと急ぎ向かいました。
 海江田は、久光から探索役を命じられて、何か大きな手柄を立てたいと気負っていたのでしょう。姫路に着いた海江田は、平野から聞いた西郷の話、つまり、西郷が平野に対して、「倒幕の策が立てば共に戦死しようではないか」と述べたことを、久光にそっくりそのまま報告したのです。
 海江田は西郷の古くからの同志です。その海江田が西郷の不利になるような報告をしたわけですから、人間の災難とは、どこから生まれてくるものか、ほんとうに分からないものです。

 さて、この海江田の報告を聞いた久光は、またも腸が煮えくりかえるような不快感を露にしたことでしょう。これまで何度も触れてきましたが、久光の素志はあくまでも「公武合体」です。今回の上京の目的は、朝廷の権威を背景として、幕府に対し政治改革を迫るものでしたから、久光には倒幕などという大胆な行動に踏みきるつもりはさらさらありません。にもかかわらず、そんな久光の意に反して、西郷が平野と共に倒幕策を話し合ったという事実は、久光にとっては絶対に許しがたいことでありました。
 おそらく海江田の報告を聞いた久光は、
「西郷のヤツめ……」
 と怒り心頭に及ぶほどの不快感を感じたのではないでしょうか。
 このように、久光が海江田の報告を聞いて立腹していた時、その久光をさらに激怒させる情報が入ってきました。前回の(7)で詳しく書いた堀次郎が、久光の元にやって来たのです。堀は、伏見で西郷に厳しく叱責されたことを恨んでいたことは前回書きましたが、その堀が姫路に到着すると、すぐに久光に拝謁を願い出て、

「西郷は、京・大坂において、不逞な輩を煽動し、不穏な動きを見せておりもす」

 と報告したのです。
 これまで書いてきたとおり、これは堀の虚偽の報告であることは一目瞭然です。堀という人物は、古くから西郷と行動を共にし、最も良き同志の一人でした。しかしながら、最終的にはこういう形をとって、西郷に罪を被せる行為に出るのですから、これは堀の私情を挟んだ許しがたい行動と言っても過言ではないでしょう。この堀の虚偽の報告により、西郷が鹿児島に送還され、そしてその事によって寺田屋で惨劇が起こる大きな要因となるのですから、堀の犯した罪は非常に重いと断ぜざるを得ません。
 前回の(7)で、西郷の手紙を引用して書きましたが、西郷は浪士達を煽動するどころか、逆に抑えつけて暴発をしないように統制していました。久光が入京する前に、京・大坂において大きな事件が起こらなかったのは、西郷が居たればこそであることは明白な事実です。なぜならば、西郷が久光から罪を問われ、鹿児島に送還されたことによって、一気に寺田屋事件が勃発するわけですから。西郷という大きなストッパーが居なくなったことで、計画の首謀者であった有馬新七達は、「こうなったからには、後は我々でやるしかなか!」と決断するわけです。これはその後の史実が如実に物語っているのではないかと思います。

 ここで少し関連があることなので、西郷が倒幕についてどのように考えていたのかを少しまとめてみたいと思います。それは次の三点です。

一、西郷は、鹿児島出発以前に、情勢によっては倒幕に持っていこうと考えていた。
二、西郷は、下関に到着した段階で、この情勢ならば倒幕に持っていけるのではないかと考えた。
三、西郷と大久保は、その倒幕策について伏見において相談した。


 以上のことは前回までに詳しく考察したところですが、西郷が当時の情勢を考えて、胸中に倒幕のことを考えていたことは、私は間違いないと思っています。
 しかしながら、西郷のその考えは、大久保や村田、森山といった西郷の同伴者、そして信頼出来る同志間だけでのトップシークレットだったと思います。そのため、西郷はその内に秘めた倒幕計画を他藩士に話すこともなければ、京・大坂に集結していた浪士達を煽動したような事実はまったくありません。むしろ、浪士達を無暗やたらに暴発させないように、統制していたことは紛れも無い事実です。
 西郷の当時の考え方は、浪士達が大事の前に事を誤って、無謀な行動を起こすことを非常に危惧していたのです。西郷としては、機が熟した段階で、彼らと共に起とうと思っていたのではないでしょうか。この辺りの西郷の覚悟は、彼が後に木場伝内に宛てた手紙の中で次のように書いています。

「勿論皆死地の兵にて、生国を捨て父母妻子に離れ、泉公の御大志在らせられ候段慕い奉り出掛け候に付き、都てヶ様(すべてかよう)に申し候ては、自負の様御座候得共、私をあてにいたし来たり候故、私死地に入らず候わでは死地の兵を救う事出来申す間敷、何篇諸方の有志は大坂にても、都て私より引きしめ置き候」
(『西郷隆盛全集第一巻』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「彼らは(京・大坂に集結している諸藩士や浪士達)、みんな死地にいる兵というべき人々で、生まれ故郷を捨て、父母妻子と別れ、和泉公(久光のこと)が御大志を抱いて上京するということを慕って、ここまで出かけて来たのです。全てこのように言ってしまっては自負のようですが、彼らは全て私を頼って来た者達ですから、私自身がその死地に入らなければ、死地に入っている彼らを救うことは出来ないと考えたのです。諸方から集まって来た有志達は、大坂において、全て私が引き締めていたのです」


 この文面から察すると、西郷は浪士達を焦って無謀な行動に出させ、大事を誤るようなことのないように、懸命に統制していたことがうかがえます。

「私死地に入らず候わでは死地の兵を救う事出来申す間敷」

 と書いているあたりには、西郷の強い覚悟が読み取れます。
 このように、自らの身を捨ててまでも、同志達を救おうとする西郷の行動や考え方が、幕末当時、全国の志士達の絶大なる信頼と人気を集める要因になったのだと私は思います。ここが西郷の最大の魅力なのですね。
 例えば、元薩摩藩士で後の海軍元帥となる伊東祐亨(いとうすけゆき)は、西郷のことを次のように語り残しています。

「先生が情に厚く義に強かりしことは顕著の事実であるが、先生は又た人の身上に何事か起り、其人より相談を受けたる時には、宛も自己の身に懸れる事件の如くに之を見、誠心誠意を以て忠実に之が解決に力を致さるるの常であって、通常人が、自己の為めには周到に考慮しながら、他人のためには苟くもするといふ様なことは、嘗て之無かったのである」
(「余の観たる南洲先生」<伊東祐亨談話>より抜粋)


 西郷の絶大なる人気の理由が、この談話の中にあるような気がします。
 西郷という人物は、自分のためだけではなく、他人のためにも大きな勇気を発することが出来る、最も勇気あふれる人物だったのです。そして、この談話の中にあるように、一切の私利私欲を捨て去って行動をしたところが、当時の幕末の志士達が、西郷を思慕した源流ともなっているのではないでしょうか。

 さて、話を久光に戻します。
 久光は今まで我慢に我慢を重ねてきましたが、堀の報告を受けた時、完全に堪忍袋の尾が切れました。ただでさえ、下関で待てとの命令を無視されている上に、今度は自分の邪魔をしている浪士達を煽動する行為に出ていると報告されたわけですから。

「あやつは、どこまでわしの命令にそむくつもりか!」

 と、その場で大声を張り上げて久光が怒ったことは、想像に難くありません。そして、烈火の如く怒った久光は、その場で西郷の捕縛命令を出したのです。
 この日は、文久2(1862)年4月6日のことです。実はこの日は、前回書いた西郷と大久保の二人が、伏見において倒幕策についての打ち合わせをしていた日のことだったのです。
 つまり、西郷と大久保がお互いに手に手を取り合って、「これから大いにやろうではないか!」と意気込んでいたその時、久光が西郷の捕縛命令を出していたことになります。
 運命のいたずらと言うのか、それとも歴史のいたずらと言うのでしょうか……。歴史とは、時にこういった非情な出来事を起こすものだと思います。

 さて、慌しいですが、今度はまた場面を展開し、大久保の動きについて注目しましょう。
 前回では、伏見において西郷と一大決心について話し合った大久保が、久光の行列に戻るための帰路に、男山八幡宮を参詣したところまでを書きました。その後、大久保は大坂から舟に乗って、4月8日に大蔵谷(おおくらだに。現在の兵庫県明石市大蔵谷)に到着し、そこで久光の行列が到着するのを待ちました。
 この日の大久保の動きについては、彼の日記が残っています。

四月八日
今日八時分大蔵谷へ着舟未
御着無之七ッ時分 御着堀氏未滞リ居候先江被参候間段々咄承り且大島一條承知故云々申置奈良喜士入来有武士入来云々承大鐘時分堀士江鳥渡逢否承候処不分明則小松家江差越云々帰懸堀子行逢旅宿江同伴云々論し候
(「大久保利通日記(一)」日本史籍協会編より抜粋)


 当時の大久保の気分を読み取って頂くために、敢えて難しい原文をそのまま書いてみました。見て頂ければ分かると思いますが、大久保の日記の解読は非常に難解です。なぜなら大久保の日記は、今で言うメモのような代物で、要点しか書かれていないため、読み下して理解するのが難しいのです。
 しかし、このままでは何が書いてあるのか非常に分かりづらいため、少し現代語訳してみます。

(現代語訳 by tsubu)
四月八日
今日、午前二時頃、大蔵谷へ舟が着いた。
しかし、久光様の行列は未だ到着していなかった。午前四時頃、未だ行列は滞っているが、行列より先に堀次郎が到着した。そこで現在の状況などを色々と聞き、大島(西郷の変名)の件について承知した。そのため、色々と堀に対して申し置いた。奈良原喜左衛門、海江田武次が私の所へやって来て、色々と話を聞いた。午後六時頃、堀とちょっと会ったが、よく状況が分からない。そのため、小松(帯刀)氏の宿舎へ行き、色々と話し合いをした。その帰りがけに堀と出会ったので、そこから宿に同伴し、堀に対し色々と論じた。


 さて、この日記には非常に重要なことが書かれています。それは、この日、大久保は行列より先行して来た堀と出会ったことで、初めて久光が西郷の捕縛命令を出したことを知ったことです。大久保が「大島一條承知」と書いていることに、それがよく表れています。
 おそらく、大久保はこの異常事態にさぞ驚いたことでしょう。なぜならば、その後の大久保の日記の記述は、全て西郷の処置についての状況を把握しようとする動きばかりが一貫して書かれているからです。
 例えば、堀に対しても「云々申置」、つまり西郷の罪の誤解を解くために、堀に色々と言ったことがうかがわれます。原文と見比べて頂くと分かりますが、大久保が日記の中で「云々」と書いている部分は、「色々と話し合った」と解釈する必要があります。
 またその後の大久保の日記によると、奈良原、海江田の二人が大久保の所に来ています。当然、三人が話し合った話題は、西郷と久光のことであったと思います。なぜなら、海江田は西郷を罪に落とす報告を行なった当事者ですからね。海江田も、まさか自分の報告で久光がそんなに怒り、西郷を捕縛する処置に出るとは思っていなかったでしょう。猪武者の海江田らしいと言えば、彼らしいのですが……。
 また、大久保は堀に久光や西郷の状況を聞いていますが、要領を得ない返答だったことが書かれています。堀と出会った時のことを「承候処不分明(承り候ところ分明ならず)」と、大久保が日記に書いています。堀は西郷のことを恨んであのような報告をしたわけですから、大久保に事の真相を聞かれても大変困ったと思います。なので、堀は事実をうやむやにして、大久保には何も語らなかったのではないでしょうか。
 そのため、大久保は、家老の小松ならば事情をよく把握しているのではないかと考え、小松に話を聞きに行っていますね。この辺りも、大久保の困惑と動揺が非常によく分かるのではないかと思います。
 大久保も、自分が居ない間に、まさかここまで事態が悪化しているとは思いも寄らなかったことでしょう。大久保は堀と宿舎に同伴した上で、「云々論し候」と書いていますので、おそらく西郷を罪に落とすことになった堀を論じ攻めたと思われます。

 ここからかなり踏み込んで書きますが、西郷の捕縛命令を知った大久保は、どんな気持ちであったでしょうか……。当然、長年の同志である西郷に捕縛命令が下ったことは、大久保にとって非常に驚くべきものであり、心が痛むほど悲しむべきものであったことは間違いないでしょう。
 しかし、ここで思い出して頂きたいのは、西郷と大久保との伏見での倒幕についての話し合いのことです。大久保は、西郷から京・大坂の情勢を聞いて、「彼是京地模様等承別而大機会ニ而候(かれこれ京の地の模様を承り、これは大機会だと思った)」と日記に書き、倒幕へ向けての決意を新たにしたことは前回書きました。
 ただ、前回書いたとおり、大久保の倒幕策については、全て「久光あっての倒幕」なのです。ですから、久光が激怒して、西郷の捕縛命令を出している現状において、大久保はどちらを選択するか非常に揺れるわけです。つまり、西郷と共に行動を起こして心中するか、それとも今までとおり久光に付き従って、久光の意のままに動き行動するかの二者選択を迫られたというわけです。この選択は、大久保にとっては究極の選択であったと私は思います。
 そして、大久保が最終的に出した答えは、やはり久光を取るということだったのです。このあたりが、大久保らしいと言えば、大久保らしい決断であったと言えましょう。「事に望んでは私情を挟まない」という、大久保の性格が顕著にあらわれています。
 この段階での大久保は、久光の機嫌を損ない、そして自らの地位を犠牲にしてまで、倒幕に踏み切る勇気は無かったと言えましょう。前回の(7)で、西郷と大久保の考え方に温度差があると書いたのはこういった理由からです。
 ただ、大久保も西郷を見捨てることは、非常に忍びなかったと思います。なぜならば、それは後の大久保の行動に顕著に出てきます。次回詳しく書きますが、この後、大久保は西郷と共に二人刺し違えようとする行動に出ます。これは、大久保が久光を選択することによって生じた、西郷に対する一種の後ろめたさと申し訳無さが、彼をそういう行動に出させたものであると私は解釈しています。

 話を元に戻します。
 大久保は、堀や海江田や小松から、久光の激怒の様子や西郷の捕縛命令の件について詳しく聞き、西郷と打ち合わせた倒幕策を完全に捨てることになります。この辺りの大久保の心境は、かなり複雑であったことでしょう。
 そしてその翌日、その苦悩している大久保の元に、西郷が突然やって来たのです。
 大久保は、複雑な思いで西郷を出迎えました。


(9)に続く



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