「会津藩と薩摩藩の関係(後編)−会薩提携、八月十八日の政変−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-



(16)薩摩藩に下された勅書
 前編では、「会津藩の馬揃え」がどのような経緯で、そしてどのような形で行なわれたかについて書いてきましたが、その中でその馬揃えに込められた孝明天皇の隠された真意や会津藩が馬揃えを積極的に行おうと目論んだ意図などについても、詳しく触れてきました。
 ただ、この会津藩の二回にわたる馬揃えは、攘夷親征を強行に進める尊皇攘夷派への多少の牽制や公卿達を畏怖させる効果はそれなりにはあったものの、それでも「大和行幸・攘夷親征」という大きな時局の流れをせき止めるまでの影響はなかったのです。

 前編において少し触れましたが、銃火器を使用した大規模な馬揃えを行ない、間接的に尊皇攘夷派を牽制することまでが、当時の会津藩の政治的な限界であったことは否めない事実であると私は考えています。
 つまり、会津藩はそこから一歩踏み込んで、在京勢力(兵力)を使って、この形勢を逆転させるためのクーデターを起こす計画にまで踏み切れなかったのです。
 前編において詳しく書きましたが、この当時の会津藩は、在京の兵隊と国元の兵隊の交代時期とが重なっていたため、通常時の倍にあたる、およそ2000人に近い兵力が京都に集結していました。会津藩はこの大きな兵力を背景にして、一気に形勢を挽回することも可能であったのです。
 しかしながら、会津藩はそこまで大胆な行動に踏みきることが出来ませんでした。つまり、ここが当時の会津藩の政治的限界であったと思われます。

 もっと踏み込んで大胆に書きますが、これは会津藩の政治力の乏しさが主要な原因であったとは思いますが、もう一つ、会津藩は孝明天皇から余りにも大きな信任を得ていたため、言わば当時は「がんじがらめ」の状態になっていて、動くに動けなかったということも、大きな一つの要因となっていると思います。
 つまり、会津藩は朝廷や孝明天皇の意向を尊重する余り(非常に気にする余り)、大胆な行動が取れなかったことも、会津藩が武力クーデターにまで踏み込めなかった大きな原因となっているのではないかと思います。
 クーデターを起こすと言うことは、一歩間違えると「朝敵」になりかねない行為なわけで、会津藩が二の足を踏んで、そこまでは踏みきれなかったと言えるのではないでしょうか。朝廷ひいては孝明天皇に不興を買うかもしれない行動を取ることを会津藩は恐れ、積極的な行動に出られなかったのだと私は考えます。これは会津藩が京都守護職という禁裏守護に任命されているということも大きな原因となったでしょうし、また会津藩主・松平容保の性格にも大きく起因していると思います。

 ここで少し補足しますが、「八月十八日の政変」の特徴の一つとして挙げられるのが、会津藩と薩摩藩、つまり松平容保と島津久光という、孝明天皇の信任が厚かった二人の手によってクーデターが実施されたということです。
 もちろん、クーデター当日、久光は京都に居なかったのですが、薩摩藩が会津藩に提携を申し出たのは、久光の意向以外には考えられませんから、久光は政変の陰の当事者であることは間違いないでしょう。
 従来、孝明天皇の信任を得ていた人物と言うと、どうしても松平容保の名が挙げられ、島津久光のことはなおざりにされがちですが、久光もまた孝明天皇の信任が厚かった人物であったということは再確認するべきであると思います。前編においても書きましたが、この点をちゃんと認識しておかないと、幕末維新史における薩摩藩の役割を正確に理解することが出来なくなると思います。

 さて、話を戻しますが、このように当時の会津藩は、「馬揃え」での抵抗が精一杯の努力であったわけですが、後に会津藩と提携することになる、もう一方の主役の薩摩藩は、それを一つ飛び越えた構想を持っていました。
 これまで何度か触れてきましたが、文久3(1863)年当時の薩摩藩は、前年8月に生じた生麦事件を発端とするイギリスとの関係悪化から、久光自身が京都に長期滞在することが出来ず、また兵力も京都に割くことが出来ない状態であったことから、尊皇攘夷を唱える急進派の動きを封じ込めることが出来ませんでした。この薩摩とイギリスの関係悪化は、最終的には「薩英戦争」という大きな戦いに発展し、鹿児島において砲撃戦が繰り広げられることになります。
 この薩英戦争が開戦したのは、文久3(1863)年7月2日のことです。
 この当時の京都の政治情勢については以前詳しく書きました。真木和泉が松平容保を関東に追い払おうと画策したり、そして孝明天皇から会津藩に秘勅が降下されたことについてもこれまで書いてきたとおりです。
 前編の(9)「会津藩の孤立と薩摩藩の焦り」の中で、当時京都に居た薩摩藩の兵力が非常に少なかったことから、薩摩藩としては単独で事を起こすことが出来なかったため、クーデターに関して、他藩に先を越されるのではないかと薩摩藩関係者が焦燥感を抱いていたという話を越前藩の記録である『続再夢紀事』の記述を引用して書きました。そして、当時の薩摩藩が焦る理由というものは、実はもう一つあったと言えましょう。

 この当時の京都における薩摩藩の立場は非常に微妙なものでした。
 文久3(1863)年5月20日に起こった公卿・姉小路公知の暗殺事件の嫌疑が、薩摩藩士の田中新兵衛にかかり、その田中自身が何も弁明せぬまま自刃するという事件が起こっていたからです。
 この田中新兵衛による姉小路公知暗殺事件については、私も色々と思うところがあるので詳しく書きたいところなのですが、それを書いていると先に進みませんので、ここでは飛ばして先に進むことにします。
 田中が姉小路卿を暗殺したという嫌疑をかけられたため、薩摩藩は御所の乾御門の警備を外され、薩摩藩士は御所の九門内の往来を禁止される処罰を受けました。
 しかし、この姉小路暗殺の一件については、当時から薩摩藩が黒幕であるということに対して、懐疑的な見方があったことをうかがわせる史料があります。
 文久3(1863)年5月26日、この日は田中新兵衛が捕らえられて自刃した日ですが、前関白・近衛忠熙と忠房の父子が連名で、当時鹿児島にいた島津久光に宛てた書簡の中で次のように書いています。


「姉小路大変一件、甚六ヶ敷〜〜薩人之業ト相成、召捕ニ相成居候人々在之、扨々痛嘆候、是ハ全其許ヲきらひ罪ニおとすへき計策かと被存候」
(『鹿児島県史料・忠義公史料第三巻』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「姉小路公知卿が殺害された一件、はなはだ難しいこととなりました……。薩摩人の仕業ということになって、召し捕られた人々が居るとのことであり、さてさて心が痛み嘆息の他はありません。しかし、これは全て、貴殿(久光)を嫌い、罪に落とそうとする計略ではないかと考えております」



 この書簡の一文によると、近衛父子は「姉小路公知暗殺の一件は、久光を嫌って罪に落とすための策略ではないか」という風に推測しています。
 この推測は、何も近衛父子に限ったというものではなく、当時はこのような話が上流公家の間での一般的な考え方であったようです。
 現に、そんな姉小路殺害の黒幕として処罰された薩摩藩に対して、文久3(1863)年5月29日付けで、孝明天皇は久光に対し、「上京して姦人を一掃するように」という勅命を下しています。
 つまり、孝明天皇は、姉小路を暗殺した嫌疑が薩摩藩にかけられたこと自体、尊皇攘夷派による策略だと考えていたと思われます。そうでなければ、朝廷の公卿を暗殺したと思われる藩に対して、勅書を降下するなどということは通常考えられないでしょうから。
 この久光に下された勅書は、当時の孝明天皇がいかに久光を頼りにしていたかということと、当時の朝廷の情勢や孝明天皇の考え方を非常によく表していると思いますので、少し長いですが全文を抜き出したいと思います。その後に私の現代語訳を書きたいと思いますので、原文を読むのが面倒な方は、そちらの方をご覧になって下さい。
 以下はその薩摩藩に下された勅書の全文です。


「攘夷之存意は聊茂不相立、方今天下治乱之堺ニ押移り、日夜苦心不過之候、今度大樹帰府之儀ニ付而モ、段々不許趣申張候得共、朕存意ハ少シモ不貫徹、既に帰府治定候事、実以於朝廷茂存分更ニ不貫徹、総而下威ニ中途之執計已ニ而、偽勅之申出有名無実之在位、朝威不相立形勢、悲嘆至極之事ニ候、何分ニ茂表ニ誠忠ヲ唱、内心姦計、天下之乱ヲ好候輩已ニ候、昨年基本ヲ開候事故、深依頼ニ存、只管待候事ニ候、三郎急速上京ニ而、尾張前亜相ト申合セ、一奮発ニ而、中妨無之手段厚周旋、為皇国尽力在之、先内ヲ専ニ相整候辺不浅依頼候、昨年上京之砌言上之筋、一廉も不相立者全姦人之策ニ候得は、何分此処ニ而姦人掃除無之而は、迚茂不治ト存候得は、早々上京ニテ、始終朕ト申合真実合体ニテ無寸違周旋有之度候、何分此侭ニ而は、天下催已ニ而昼夜苦心候間、其辺深熟考有之度候事、上京於周旋は依頼致シ度儀モ候得は速ニ承知、周旋兼而頼置候事」
(『鹿児島県史料・玉里島津家史料二』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「攘夷の意向については、いささかも相立たず、最近天下は治乱の境目に移っており、朕は日夜苦心する日々を過ごしている。今度、大樹公(将軍)が江戸に帰府するということについても、何度も許可しないと申し渡したのであるが、朕のその考えは少しも受け入れられることもなく、既に将軍は江戸に帰府することが決まっているようである。実にもって、朝廷においても、朕の考えは更に貫徹せず、総じて下の勢いばかりが盛んになって、中途半端な取り計らいのみで、偽勅が出されるなど、朕も有名無実の在位であり、朝廷の威光が立たないこの形勢について、朕は至極悲嘆に暮れているのである。何分にも現在の朝廷は、表には忠誠を唱えながら、内心は姦計を計って、天下の乱を好む輩ばかりである。そのため、昨年朝廷の基本を開いてくれたそち(久光)を深く頼みにし、ただ、その上京を待ちわびている。三郎(久光)が急ぎ上京して、尾張前大納言(徳川慶勝)と申し合わせ、一奮発して、朝議が中途で妨害されることの無いように厚く周旋し、皇国のために尽力し、先ず朝廷内部を相整えるように依頼したいと浅からず考えている。昨年そちが上京した際に言上したことについて、まったく実現出来ていないのは、全て姦人の策であるので、何分ことここに至っては姦人を一掃しなければ、とてもこの状態が良くなるとは思われないので、早々に上京して、始終朕と相談して協力し、真実一体となって周旋されたいと考えている。何分このままでは、天下の政を行なうにしても昼夜苦心が絶えないので、その辺りの事情をよく熟考されたいと考えている。このように、上京して朝廷の為に周旋してくれることを依頼したいので、速やかに承知なされ、周旋されるように頼み置く次第である」



 大変長くなってしまいましたが、この久光に与えられた勅書を全文抜粋したのは、当時の孝明天皇がいかに久光のことを信頼し、そして期待していたのかを知って頂くためです。
 特に、「昨年基本ヲ開候事故、深依頼ニ存、只管待候事ニ候」という部分からは、孝明天皇が久光を大変頼りにし、その上京を待ちわびている様子がうかがわれます。「昨年基本を開き候」とは、文久2(1862)年4月に久光が上京し、その後江戸に下って幕政改革を成功させたことを指している部分で、孝明天皇はその時から久光に対して絶大な信頼を寄せていたのです。
 また、この久光に与えられた勅書には、非常に重大なことが書かれています。この勅書には、久光に対してクーデターを実行するように暗に示している部分があることです。
 例えば、「何分此処ニ而姦人掃除無之而は、迚茂不治ト存候」という部分は、「もうここまで来たら、姦人を一掃するしか手段が無い。それしか今の朝廷の状況は良くならない」と言っているわけです。
 説明するまでもありませんが、孝明天皇が言う姦人とは、長州藩士等の過激浪士や、彼らに後押しされている急進派公卿達のことを指しているわけですから、孝明天皇は「彼らを一掃して欲しい」、つまり「クーデターを起こして現状を打開して欲しい」と述べているのです。
 この勅書を読むと、このような早い段階から孝明天皇の頭の中にはクーデターを実行して欲しいという願望があったことがうかがい知れるのです。
 しかしながら、結局薩摩藩はこの勅書に応じることが出来ず(その理由はこれまで書いてきたとおりです)、孝明天皇の目は薩摩藩から会津藩へと移される形となるわけです。
 そしてそのことが、会津藩をして馬揃えを実施させることにも繋がっていくのです。


(17)に続く




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(17)薩摩藩の動向(次回更新予定)


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