西郷と久光の関係(3)
-西郷と中山の確執について-


(3)西郷と中山の確執について
 奄美大島で藩からの召還命令を受けた西郷は、文久2(1862)年2月11日、鹿児島本土の枕崎港に到着しました。安政6(1859)年1月に鹿児島を離れ、奄美に身を隠していた西郷にとって、約三年ぶりに鹿児島の地を踏んだことになります。
 西郷はその日枕崎で一泊し、翌日自宅に戻ったのですが、2月13日、久光により御側役に取り立てられた小松帯刀の屋敷で、小松と御小納戸役の中山、そして大久保といった久光側近の者達と会談を行いました。当然その話の内容は、久光の率兵上京計画についてです。
 おそらく、この会談の席を設けたのは大久保だと思います。大久保は、久光が企てた上京計画を実際に遂行するための中心人物です。
 前述しましたが、この計画にかける大久保の意気込みは並大抵のものではなく、計画には西郷の協力が必要不可欠であると考えていました。そのため、大久保は計画の概要説明とその打ち合わせを兼ねて、この会合を企画したと考えるのです。御側役の小松や当時の実力者の中山を同席させ、このような会合を催したあたりが、何事に対しても用意周到に事を進める大久保らしいやり方と考えられるからです。

 小松邸に集まった西郷、大久保、小松、中山の四人は、その席上で久光の上京計画について話し合いを始めました。
 まず最初に、中山が上京計画の内容について、西郷に説明を始めたのではないかと私は推測しています。西郷を除く三人の中で、一番身分の高い小松や計画の中心人物である大久保ではなく、なぜ中山が説明役となったのかについては、後々に重大な意味を持ってくるため、西郷と久光が初対面したあたりで、その理由については書きたいと思います。
 取りあえず、話を先に進めます。
 中山は、前藩主の斉彬が考案した計画と同じく、久光が薩摩から兵を率いて京に入り、朝廷から幕政改革の勅諚を受け、薩摩藩の強大な兵力を背景にし、幕府に対して改革を迫る、という計画の内容を詳細に説明しました。
 また、朝廷から受ける勅諚は、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ・後の徳川慶喜)を将軍後見職に、前越前藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)を政治相談役に任命する内容のものを、朝廷に働きかける計画であるということも話しました。
 おそらく、このような内容を中山が雄弁にかつ熱心に語っている間、西郷は不快な気持ちでそれを聞いていたのではないでしょうか。
 西郷は奄美から戻ってまだ三日しか経っていませんでしたが、上京計画については、誠忠組の同志等から大体の内容を聞かされて知っていました。しかし、西郷は同志から現在の藩の状況や上京計画の話を聞かされる度ごとに、だんだん不快な気持ちになっていったと思われます。その理由の最たるものは、久光に取り立てられた者達が、出世したことにより、我が物顔で藩政を取り仕切っていることにありました。

 後に西郷が久光の逆鱗に触れ流罪になった際、西郷の友人である奄美大島の見聞役の木場伝内(こばでんない)という人物に、流罪に至るまでの経緯を述べた西郷の長文の手紙が現在に残されています。
 今回の「テーマ随筆」は、その西郷の手紙の内容を元に構成しているのですが、西郷はその手紙の中で、当時の薩摩藩政府の実状を

「当時の形勢、少年国柄を弄し候姿にて」

 と酷評しています。
 ここでいう少年とは、大久保、中山、小松といった久光に抜擢された人々を揶揄していることは言うまでもありません。
 つまり、経験未熟な者達が、国(藩)の政治を弄(もてあそ)んでいる、と西郷は憤りを感じていたのです。
 そしてまた、誠忠組の同志についても、

「所謂誠忠派と唱え候人々は、(中略)先ず一口に申さば世の中に酔い候塩梅」

 と表現し、誠忠派と自称している人々は、冷静な考えを持たず、時勢に酔った気分になって浮かれていると、これもまた酷評しています。
 これら手紙の内容から察すると、西郷が中山ら藩政府首脳の人々や大久保を筆頭に久光に抜擢された誠忠組の同志らをどのように見ていたのかがよく分かります。奄美大島から帰還してからの西郷は、そんな藩の現状を不快に思っており、同志らに対しても不信感で一杯だったのではないでしょうか。

 また、西郷を不快にさせたのには、もう一つ大きな原因があります。
 それは、久光の率兵上京計画についてです。
 この計画の元々の発案者が前藩主の斉彬であり、西郷もその計画の一端を担っていたことは前回までに書きました。西郷にとって斉彬という人物は、単なる藩主であるだけでなく、自分を見出してくれた恩人であり、世界情勢を教えてくれた師であり、そして神とも言える存在でした。その斉彬が思案に思案を重ねて、念入りな準備を進め、実現を目指したのが率兵上京計画なのです。
 斉彬は志半ばで病に倒れ、計画を実行することが出来ませんでしたが、西郷にとって、この計画は単なる公武周旋のための計画ということだけでなく、斉彬の遺策であり、遺言ともいうべき神聖な計画だと感じていたのでしょう。西郷にとってそんな特別な計画を、後に権力を持った久光が突然しゃしゃり出て来て踏襲しようとすることが、西郷にとっては気に入らなかったのだと思います。何だかこの計画を軽んじられ、そして汚されているような気が、西郷にはしたのではないでしょうか。
 以上は私の推論ですが、後々の久光に対する西郷の感情を考えると、こう理解するのが妥当ではないかと思います。

 そしてまた、前回にも書きましたが、斉彬の腹心であった島津下総を久光が更迭したのも、西郷の久光に対する悪感情に拍車をかけたと言えましょう。西郷と下総とは、両者とも斉彬の腹心であったということだけでなく、非常に関係が深い間柄なのです。
 西郷と島津下総の関係について書くことは控えますが、例えば、下総の弟の桂久武(かつらひさたけ)と西郷は、「刎頚(ふんけい)の交わり」ともいえるほどの美しい友情で結ばれています。桂は西南戦争において、西郷と共に城山で戦死しているほどです。
 このように西郷と下総とはお互いによく知った間柄であったのですが、その斉彬の信任が厚く、計画をよく理解しているはずの下総を久光が更迭したことから、久光の計画踏襲は斉彬の遺志ではない、と西郷は思ったのではないでしょうか。
 このように考えなければ、後に西郷が上京計画に反対する事実と辻褄が合わなくなるのです。
 また、ここで少し補足説明しますが、西郷が久光及びその側近らに対し、感情面だけで気分を害していたということでは決してありません。西郷が「少年国柄を弄し候姿」と評するに至ったのは、島津下総ら斉彬の腹心を追い出し、藩政の中枢に就く形となった中山達が、緻密な下準備や工作もなく、計画を進めている姿を見てのことであることが、まず第一原因です。この後書くことになる西郷の計画に対する疑問点を読んで頂ければ、それがよく分かると思います。

 さて、話を戻します。
 中山の説明をじっと黙って聞いていた西郷は、話が一段落つくと、今まで我慢していたものが一気に爆発するかのように、計画についての質問を滔々と述べ始めました。西郷の計画に対する質問内容については、前出の木場伝内の手紙にその内容が書かれているので、ここにその要約だけを分かり易く小説風に書くことにしましょう。

 西郷は中山らに言いました。

「御計画の内容はよう分かりもしたが、朝廷から勅諚を受けるためには、朝廷内に手蔓、すなわちコネがなくてはなりもはん。勅諚というもんは、朝廷内の有力者と渡りをつけるなどして、下準備を入念にして初めてお請けするというものでごわす。その辺りの工作は、どげん考えていもすか?」

 中山らは困惑した表情で返答しました。

「まだ、そこまでの用意は出来ていもはんが……」

 西郷は厳しい表情で続けます。

「そいなら、もし運良く幕政改革の勅諚を受けることが出来たとして、幕府がそれに対し曖昧な返答をして、いつまでもそれを守ろうとせん場合は、どげんするおつもりでごわすか?」

 西郷のこの質問は、当時の幕府の状況を考えるならば最もあり得る話です。この西郷の質問に対し、中山らは、

「そん時はあくまでも京に滞在し、幕府に対して勅諚の遵守を迫ることになりもんそ」

 と返答しました。
 それを聞いた西郷は一段と厳しい表情で、

「そげんこと言われるが、もし幕府が延引策を取ったとしたら、京に一年も二年も滞在することが出来ると思いもすか。そん間は薩摩から率いた兵も滞在させなければなりもはんが、そん辺りの準備は出来ていてそう言われもすか?」

 と言い放ちました。その西郷の言葉に誰も返す言葉がありません。
 ここまで西郷の手紙を元に書いてみましたが、このようにこの会合の席で、西郷は久光の上京計画の疎漏な部分をどんどん指摘し始めたのです。
 これらを見れば分かりますが、西郷の発言は質問と言うよりも、計画に対する反対意見と捉えた方が良いでしょう。つまり、「計画を実行するというが、何も用意が出来とらんではないか」と西郷は言いたかったのです。また、西郷の指摘したことは、斉彬の片腕となって計画の一端を担い、京などで活躍した西郷だからこそ気付いた点であったとも言えましょう。
 しかしながら、小松も中山もこの西郷の態度には非常に驚きました。特に、この会合を企画したと考えられる大久保は、一番驚きそして慌てたと思います。西郷は斉彬時代に計画の一端を担った人物だったので、当然この計画実行について、いの一番に賛成してくれるものと考えていたからです。また、大久保としては、この計画に協力してもらうために、懸命に西郷の奄美からの召還に努力したのですから。
 西郷と大久保、いかに二人が盟友として深い関係で結ばれていたとしても、人の心というものは当て推量で計れるものではないのですね。大久保はこの会合の前に、西郷と二人でじっくりと事前に話しておくべきだったのです。大久保としては、公務の忙しさの余りそれを怠ってしまったのでしょう。この一件は、西郷と久光が激突する最初の要因となるのですから、何事に付けても用意周到な大久保らしからぬ失敗であったと思います。
 また、大久保を含めた三人の中で、西郷の態度を一番不快に感じたのは中山であったと思います。気分良く堂々と計画について語っていたのに、西郷にそれを全部否定されたのですから。
 しかし、西郷の意見は一々尤もなことばかりでしたので、中山としては返す言葉が見つかりません。そのことも、逆に中山を一層不快にさせたと思います。
 前回書きましたが、当時の中山は、久光側近の中でも一番権力を持っていた人物です。周囲の人間からもてはやされることにより、非常に権威的で傲慢になっていた中山にとって、意見の内容はさて置き、西郷の態度は許せないものだったに違いありません。
 中山はこの一件で、西郷に対して大きな悪感情を抱くことになり、西郷と久光の確執の始まりは、西郷と久光の寵臣の中山の確執を持って、その幕が開けたとも言えるのです。

 西郷の強烈な反対により、会合の場の雰囲気は険悪なものになりました。大久保は、このままでは拙いと考え、西郷に次のように言いました。
(付記:西郷の手紙の中には、大久保が言ったとは記されていませんが、彼が言ったとするのが最も自然だと考えましたので、大久保が発言したことにします)

「ごげな問題があるからこそ、お前さあの帰りを待っていたのでごわす。今指摘のあった部分については、全て任せもすから、大いに骨を折ってくれもはんか」

 頭脳明晰な大久保ですから、西郷が指摘した部分について、大きな問題点があるということは漠然と分かっていたと思います。だからこそ、大久保としては西郷の協力が必要不可欠だと言いたかったのでしょう。
 しかし、大久保の嘆願ともいえるこの依頼に、西郷は大きく首を振り言いました。

「未だ評議中の計画というもんであれば、何とかしようもありもすが、何でもかんでも勝手にやらかした後で任せると言われても、出来るはずがありもはん」

 この辺りの西郷は、普段冷静な彼には珍しく、非常に感情的になっています。それほど西郷は腹に据え兼ねるものがあったのでしょう。
 また、西郷は次のようにも言いました。

「お前さあらとこの上議論しても、らちがあきもはん。こん計画については甚だ疎漏な部分が多いと考えもすから、久光公に拝謁して、どげん風に考えているか伺いたいと思いもす」

 この西郷の発言は、中山、小松、大久保に対する不信任を宣言しているようなものです。西郷は、「あなた達では駄目だから、一度久光に会わせてくれ」と要求したのですから。
 大久保ら三名は、その西郷の言葉を複雑な気持ちで聞いたでしょうが、いずれは西郷と久光を対面させるつもりでしたので、「両三日中には、御目通りすることが出来るであろう」と答えました。
 結局、この会合で、西郷の大久保らに対する不信感というものは決して晴れることはなく、久光の対面の場へと持ちこされることとなったのです。
 こんな西郷の態度を見ていた中山は、一層口惜しく、歯噛みする思いだったに違いありません。

「どこまで、我らを小僧扱いするか……」

 といった感じに怒りを覚えたのではないでしょうか。
 よくよく考えてみれば、西郷が奄美大島から戻ることが出来たのは、ひとえに中山の尽力があったればこそなのです。中山としては、西郷に感謝されこそすれ、自分らを無知識な人間のように批判される覚えなどないのです。
 この瞬間、西郷と中山の関係は決定的なものとなったと言えましょう。そして、西郷と中山の確執が、後に久光と西郷の激突へと繋がっていくのです。


(4)に続く




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