西郷と久光の関係(4)
-最初の出会いと衝突-





(4)最初の出会いと衝突
 前回の(3)では、文久2(1862)年2月13日に行われた西郷と大久保ら三名の久光側近者との会談について書きました。その中で、西郷の猛烈な反発により、結局四者の話し合いは物別れに終わり、久光との対面の場に結論が持ち越されたことも書きました。
 今回は、西郷と久光の関係を語る上で、最も重要な二人の初対面を中心に書いていきたいと思います。

 西郷と久光が初めて対面したのは、小松邸での会談の二日後、文久2(1862)年2月15日のことです。
 この日が、二人のこれからの運命を決定づけた運命の日でした。
 ここで先に重要なことを一つ付け加えます。久光は西郷と初めて対面する前に、二日前の小松邸での四者会談の内容を既に知っていました。つまり、西郷が上京計画に反対であるということを、久光自身は既に知っていたということです。
 会談内容を久光に報告したのは、中山尚之介以外に考えられません。くどいようですが、中山は久光の股肱の臣であり、最も忠実な家臣です。また、中山は先の会談で、西郷を憎いとまで考えるようになっていましたから、当然主君の久光に報告しないわけがありません。(また、中山が久光に報告したと考えるのには、もう一つ重大な理由がありますが、それは後述します)
 中山の報告を受けた久光としては、実に気分を害されたと思います。たかだか一家臣に、自分の壮大な計画を反対されたのですから。
 また、中山は、先の会談で西郷に含むところが生じたので、久光への報告は悪意に満ちたものであったと思われます。このことも、一層久光の機嫌を損ねさせたと考えられます。
 このように、久光は西郷と会う以前から、西郷に対しては余り良い感情は抱いていなかったのではないかと思います。

 久光は中山からの報告により、西郷自身が計画に反対であることを知っていましたが、久光は西郷に会うと、もう一度上京計画についての意見を求めました。久光としても、直接西郷の意見を聞いたわけではないのですから、西郷に発言させるのは当然だと思ったのでしょう。
 しかし、西郷は、久光の面前においても、計画に関して堂々と反対意見を述べました。
 西郷の反対意見を前回紹介した木場伝内宛の手紙(以後手紙と略)の内容を元に分かり易く要約すると、大体次の三つの内容になります。

一、先君・順聖公(斉彬のこと)が計画を実行しようとした頃と、今日の情勢とでは大きく違っている。そのため、今回の上京策が正しいものなのかどうかに先ず疑いがある。
(斉彬の在世当時は、公武合体という考え方が、斬新で最適な方策であったと思われたが、今日の情勢を考えると、先ずそれに疑いがある。つまり、既に公武合体という形では駄目だと西郷は考えていたかもしれません。しかしながら、この時点において、それを倒幕というものに直結して良いのかは大いに疑問が残りますが)

二、順聖公と久光公とは、人物的に根本的な差異がある。久光公は、国元では「国父」(久光は藩主・忠義の実父であるところから、国父と敬称されていた)と称されているが、世間的には一介の家臣の立場でしかない。また、順聖公のように諸侯(諸大名や幕閣)との交際がないので、幕政改革の勅諚を受けることが出来たとしても、諸侯と合従連衡して、それを即座に処理出来ない。
(つまり、久光は薩摩では身分の高い地位にいるが、藩外ではそれは通用しない。また、諸藩主らとの交際のない久光では、勅諚が下ってもそれを実行することが出来ない恐れがあると西郷は述べたのです)

三、京都に滞在することになれば、必ず異変が生じることになる。
(当時、久光の上京を、倒幕のための出兵と勘違いする諸藩士や浪人がいたため。この動きについては、後に詳しく書くことになります)

西郷と久光が対面した鶴丸城(鹿児島城)跡(鹿児島市)
 このように西郷が久光に向って上京計画について反対意見を述べる中で、あの有名な「地ごろ」事件が起こります。これは、西郷を扱った小説や伝記の中では、必ずと言って良いほど描かれているものです。
 まずは、この事件について、よく知らない方のために簡単に説明することにします。
 「地ごろ」とは、薩摩地方で「田舎者」という意味で、非常に軽蔑の意味を込めて使われる言葉です。普通ならば、身分の高い人に対し、「地ごろ」などという言葉は使わないものですが、西郷は久光と初対面した場で、久光に対し、面と向かって「地ごろ」と発言したというのです。
 つまり、西郷の二番目の反対意見、久光と斉彬の人物の違いを述べた際に、西郷が久光に「あなたは地ごろ(田舎者)だから……」と発言したと伝えられているのです。
 この事件については、明治になって、久光の側近であった市来四郎(いちきしろう)という人物が、久光から直接聞いた話として紹介している「史談会速記録第十九輯」という談話が元となっています。

 しかしながら、私はこの件に関し、長年疑問を持っていました。果たしてこれは真実なのでしょうか?
 確かに、西郷は藩主であろうがその実父であろうが、自分が正しいと思ったことは、死をも恐れず発言する勇気ある人でしたが、誰に対しても非常に礼儀正しく振舞った人物でもありました。そんな西郷が初対面の人間に対し、その面前で「あなたは田舎者だ」と発言するということがあるのでしょうか。ましてや、相手は藩主の実父です。私には、到底西郷が正面切って、そう言ったとは考えづらいのです。
 この件に関して、西郷研究家の第一人者であった作家・海音寺潮五郎氏は、著作『西郷と大久保と久光』の中で、その「地ごろ」発言について、

「切所にあたっては、実に思い切ったことを言うのは、西郷には珍しくないことですが、やはり驚かずにはいられませんね」

 と書いており、市来の話を事実として扱われています。
 しかし、どうもこの点に関しては、私にはしっくり来なかったので、そこで、ある仮説を立ててみました。それは、2月13日に小松邸で行われた四者会談の席上で、西郷が「地ごろ」という言葉を使ったのではないかというものです。
 前回書きましたとおり、先の会談に挑んだ西郷の心境は非常に複雑で、大久保ら久光の側近達に対し、大きな不信感と嫌悪感を抱いていました。そのため、大久保らに対し、ややもすれば行き過ぎともとれる発言をし、それにより、中山が屈辱感を味わい、西郷に対して悪印象を持ったのです。
 西郷の手紙、そして薩摩地方に伝わる伝承、色々考え合わせると、あの会談の席での西郷の精神状態は、もはや尋常のものではなく、西郷自身がかなりエキサイトしていたことがうかがわれます。つまり、このような状態の西郷ならば、久光を「地ごろ」と称して発言する可能性が高いのではないかと私は推測するのです。
 普段冷静沈着であるはずの西郷が、それではなぜそこまでエキサイトする結果になったのでしょうか。私は色々考えた末、それは中山に原因があるのではないかと考えました。
 前回にも書きましたが、四者会談の席上、上京計画の内容について説明したのは、大久保や小松ではなく、中山であったと仮定しました。そして、そう考えるのには大きな理由があるとも書きましたが、それはこの「地ごろ発言」につながると考えたからなのです。
 西郷は、中山の印象を手紙の中で次のように書いています。

「中山と申すもの我意強く、只無暗(むやみ)のものに御座候」

 現代語訳するまでもありませんが、この一節を見れば、西郷が中山のことをどのように感じたのかが良く分かると思います。
 西郷がこのような酷評をするくらい、中山とは反りが合わなくなったということは、先の四者会談において、中山と西郷の間でかなりの激突があったことがうかがわれます。
 と言うことは、中山が積極的に上京計画の内容を西郷に対し説明し、それに西郷が猛烈に反発したという状態が、二人の間であったのではないでしょうか。そして、その中山とのやり取りの中で、堪忍袋の尾が切れた西郷が、

「久光公は、京都政界では官位も持たぬ、いわば地ごろでごわすので、到底計画成功の見込みは立ちもはん」

 というような発言をしたのではないかと推測するのです。このように考えた方が私にはしっくりいきます。
 そして、その発言に驚き、西郷に悪感情を持った中山が、会談の内容と西郷の「地ごろ発言」について、久光に報告した。(おそらく、その日か、その次の日。久光が四者会談の内容を知っていたことは、市来の談話で事実だと思われますので、それから考えると、久光に報告するのは、中山以外にはいないと思われます)
 これが、西郷の「地ごろ発言」の真相なのではないでしょうか。
 久光が市来四郎にこの一件を話したのは、明治に入ってからのことですし、久光はこれ以後西郷憎しの思いで凝り固まっていた人ですから、中山から聞いたことを思い違いをしてこう発言したとしても、決して不思議ではないと思うのですが、いかがでしょうか。
(付記:また、市来が聞き違いをしたとも考えられます。なぜなら、市来の回顧談には、西郷の手紙と食い違う事柄が多いのです)
 話がだいぶ横道にそれてしましたが、有名な「地ごろ発言」一件について、私なりの解釈を加えて、現時点での結論を推測してみました。

 閑話休題。
 久光は、西郷の反対意見をどのような気持ちで聞いていたのでしょうか。西郷の意見は的を得ており、久光にとっては非常に耳が痛いことばかりであったことは確かです。久光としては、これから薩摩藩の代表として京都政界に堂々と乗り込もうとしていたのを、一藩士の西郷に自分の計画を罵倒されるが如く反対されるのを、気分良く聞けるはずがないと思います。久光の心中は、相当複雑であったに違いありません。特に、西郷の二番目の意見は、自分を世間知らずと言わんばかりの内容ですから、久光にとっては、腹立たしい限りであったでしょう。
 しかし、久光はその怒りを極力押さえ、次のように発言しました。

「その方の申すことは一々最もであるが、今回の参府(上京計画)については既に届け済みであるので、最早延引は出来ない。わしは非常な覚悟を持って事にあたるつもりである」

 久光は西郷の意見を無視して、何が何でも上京するということを宣言したと言って良いでしょう。西郷に対するせめてもの抵抗です。
 しかし、西郷は久光にこう言いきりました。

「非常のことを為すためには、非常の備えが必要でごわす。諸侯(諸大名や幕閣)との合従連衡の計画が出来ていない以上、固く国を守ることが適当な処置と考えもす。是非、病気ということを申し立て、御参府(上京計画)は中止にし、三州(薩摩、大隈・日向。つまり薩摩藩内)に割拠という御覚悟を持って頂きとうございもす」
(西郷の言う割拠とは、政治的な行動を取るよりも、国(藩)力を充実させることに重点を置き、来るべき機会にこそ、大いに藩として踏み出すべきであるということである。この割拠論は、長州藩の高杉晋作(たかすぎしんさく)も、文久3(1863)年当時に、藩重役に意見している。西郷と高杉、幕末の英雄二人が同じ結論に達したと言うことは、特筆すべきことである)

 久光としては、十分怒気を押さえて発言したにもかかわらず、このように西郷の返答には一切の妥協も遠慮もありませんでした。久光は、腸が煮え来りかえるような感情を持ったことでしょう。

「この西郷という奴は、一体自分を何様と思っているんだ……」

 これくらい強い怒りを感じたかもしれません。中山の報告といい、自分に対するこの態度といい、久光は西郷に対し、強い悪感情を抱きました。これが西郷が死ぬまで続いた、西郷と久光の確執の始まりであったのです。

 斉彬の寵臣であり、前計画の運動者だった西郷の反対意見を、久光並びに重臣達は無下には出来ませんでした。久光は「それならば上京計画についての意見をまとめ、文書にて差し出すように」と西郷に指示し、その日は散会となったのです。
 次の日、西郷は早速上京計画に関して上下二策の意見書を書き、藩庁に提出いたしました。これら策についても西郷の手紙に書かれていますが、簡単にまとめると次のようなものです。

上策:参府を中止(延期)し、家老をもって名代として行かせる。
下策:どうしても中止や延期が出来ないのであれば、海路を取って、直接江戸に入るのが良い。陸路を上って京都に入れば、必ず騒動が起こる。


 これを見た久光はまたも西郷憎しの思いが沸き起こってきたことでしょう。久光はどうしても威風堂々と京都に入りたいのです。自らの政界デビュー戦なわけですから。それが上京を中止せよとか、直接江戸に入れなど、到底久光が納得出来るはずがありません。「地ごろ」と称されたり、計画の疎漏な部分をずけずけと指摘されたりと、久光にとって西郷への憎しみは確固たるものとなりました。
 ただ、西郷の意見には耳を傾けなければならない部分が多く、久光は当初参府の出発日として決めていた2月25日を3月16日に延期することに決めました。しかし、西郷の提出した二策はいずれも採用しませんでした。おそらく延期することも久光としては嫌だったことでしょう。
 このように、西郷は自分の策が入れられないことを知るや、2月17日、足の治療を理由に、指宿の二月田温泉へと湯治に向かいました。西郷としては、これを機に隠遁するつもりであったのです。
 西郷は手紙の中で、当時の心境を次のように書いています。

「何様の事にても、足引き(出勤)あげ申さざる考えにて、隠遁の賦(つもり)に御座候」
(句読点は、筆者挿入)

 西郷は、何もかもを捨て、この時本気で隠遁することを考えていたのです。


(5)に続く




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