西郷と久光の関係(5)
-西郷先発-




(5)西郷先発
 前回では、西郷が久光と初めて対面し、西郷が上京反対策を唱えたこと。そして、久光が西郷の策を採用しなかったため、西郷が隠遁を考え、2月17日に指宿の二月田温泉へと向かったことまでを書きました。
 西郷が隠遁を考えたのは、薩摩藩の現状や久光の言動を聞き、厭世的になったのが第一の理由でしょう。(これらの原因については、前回までに書いたとおりです)
 西郷は、この日から3月上旬まで指宿に滞在することになるのですが、その間、薩摩藩内では、風雲急を告げるような事態が生じていました。

(写真)島津久光銅像
島津久光銅像(鹿児島市)
 久光の出兵上京の噂が、西日本を中心とした諸藩の間で知れ渡るようになり、今回の久光の上京を機に、それに乗じて倒幕の兵を挙げようとする動きが、西国を中心とする諸藩有志の間で進められていたのです。
 つまり、久光が率いる薩摩藩の兵力を背景に、倒幕の兵を起こそうとする動きです。
 久光が出兵上京することを西国の諸藩に広めた中心人物は、筑前の勤王志士・平野国臣(ひらのくにおみ)、久留米水天宮の前宮司・真木和泉(まきいずみ)、出羽庄内出身の浪士・清河八郎(きよかわはちろう)といった人々でした。
 時は少しさかのぼり、文久元(1861)年12月、平野は自らが執筆した「尊攘英断録」という論策をひっさげ、薩摩の島津久光に建言するべく、密かに薩摩に入国しました。この尊攘英断録とは、薩摩藩主への建白書の形式を取り、七千余語の漢文で書かれた一大論策です。この論策の内容については、海音寺潮五郎氏の著書『寺田屋騒動』に記載の内容が最も簡略で分かり易いと思いますので、それを参考に書くと次のようになります。

「現在の日本の状況を考えると、諸外国からの外圧を克服して国の独立を確保することが必要であり、いち早く挙国一致の体制を作ることが急務である。そのためには、公武合体などという俗論は捨て去り、薩摩のような雄藩が立ち上がり、朝廷から倒幕の勅命を受け、兵を率いて東上し、幕府を倒して、日本は天皇を中心とする国家を形成するべきである」

 純然たる倒幕論です。
 平野はこの論策をまず久留米の真木和泉に見せました。真木は、長年の修業により培われた才学と人物の重厚さから、九州地方の勤王志士の間では知られた存在であり、その名は全国の志士達にも轟いていたからです。
 平野から「尊攘英断録」を見せられた真木は、その論策の内容に感動し、是非薩摩に入国して一刻も早く建白するのが良いと言いました。平野は真木の言葉に勇気づけられ、薩摩に向かう途中、立ち寄った肥後の同志・松村大成(まつむらたいせい)の家に宿泊していた清河八郎にも、自らの論策を披露しました。
 当時の清河は、公卿・中山家の諸大夫・田中河内介(たなかかわちのすけ)の紹介状を持って、九州諸藩の有志の決起を促すべく、九州地方を遊説している最中で、偶然に松村の家に宿泊していたのです。
 清河も平野の論策の壮大さに感嘆が一通りではありません。清河は平野に対し、連れの伊牟田尚平(いむたしょうへい)を供に付け、薩摩に入国することを薦めました。伊牟田は、元来薩摩藩の肝付家の家臣、つまり陪臣であったため、薩摩の内情に詳しかったからです。この頃の伊牟田は、薩摩を脱藩して清河の弟子のような存在となり、今回の九州遊説にも付き添っていました。
 平野はこの伊牟田と共に、文久元(1861)年12月、いよいよ薩摩に入国しました。そして、紆余曲折の末、何とか久光に対し論策を提出することが出来たのですが、久光は浪人がしゃしゃり出て来て、自分に意見することが気に入りません。久光という人物は、元来保守的で統制主義を信奉する人物であり、自分の命令を無視して行動を起こすような者や諸藩を脱藩して勝手に行動する浪人を死ぬほど嫌ったのです。後の西郷も、この久光の統制主義のために罰せられることになりますが、それはその時になってから書きたいと思います。

 さて、久光の素志は「公武周旋(公武合体)」にあり、幕府を倒そうなどという過激な了見はさらさらありません。久光が上京を決意したのは、薩摩藩の代表として、堂々と京に上り、朝廷と幕府の間を取り持ち、国政のイニシアチブを握りたいというのが第一の理由なのです。結局この久光の考え方と諸藩有志らとの考え方の相違(乖離)が、後の寺田屋での惨劇を生むことになるのですが、これは後に詳しく書くことにします。
 久光は、平野の論策の内容はさて置き、一浪人の分際で薩摩にまで入国してきた平野らを厳罰に処したいところであったでしょうが、側近の大久保は、百方手を尽くして、二人の助命を成功させました。平野は、西郷と月照の入水事件以来、薩摩とは深い結びつきがあったためです。(本サイト内の「大西郷の周辺」の第2回「西郷隆盛と平野国臣」参照)
 このように、大久保が平野ら二人を藩外に無事に送り出すべく尽力したおかげで、二人は無事に肥後を目指して帰路につくことが出来たのですが、その途中の伊集院郷で、二人を待ち受けていた集団がありました。
 有馬新七(ありましんしち)、橋口壮介(はしぐちそうすけ)、柴山愛次郎(しばやまあいじろう)、田中謙助(たなかけんすけ)といった誠忠組分派の人々です。
 誠忠組とは、西郷や大久保らを中心とした若手の改革派集団ですが、当時の誠忠組は、二つの派閥に分かれていました。一つは、大久保を筆頭に、久光に抜擢され、その側近として活躍している者を中心とした集団、例えば堀次郎(ほりじろう)、海江田武次(かいえだたけじ。前名有村俊斎)といった面々です。そしてもう一方は、前記した有馬ら四人を中心とし、久光の公武合体政策に飽き足らない気持ちを抱いている集団です。
 有馬は当時36歳、西郷より二つ、大久保より五つ年長でした。有馬は、朱子学の中でも最も過激な崎門学派(山崎闇斎を祖とする流派)の徒であり、「今高山彦九郎」とあだ名され、誠忠組の中では一種長老のような風格を醸し出し、一目置かれる存在でした。
 この有馬を中心とする誠忠組分派の人々は、今回計画されている久光の上京に乗じて、久光を巻き込み、倒幕の先鋒として行動することを考えていたのです。

「大久保どんらは、やるやると言いながら、いつまで経っても行動を起こさん。久光公は久光公で勝手にやればよか。おいどんらは、おいどんらの信念を元に行動しようではごわはんか」

 といった感じで、有馬達は次第に大久保らと一線を画すようになったのです。
 また、有馬達は、平野が薩摩に入り、久光に倒幕策を献策したことを知るや、その帰り道に酒席を設けて、二人を待ち受けていました。
 有馬、柴山、橋口、田中といった誠忠組分派の人々は、その席で平野の論策の内容を詳しく聞いたことでしょう。そして有馬達は、近々久光が兵を率いて上京すること、そして自分達がその上京を機に、行動を起こそうと考えていることなどを大いに談じたと思います。
 有馬達から、久光の上京計画について聞いた平野は、踊らんばかりに喜んだと思います。

「いよいよ薩摩が立つか!」

 平野は身震いするような感動を覚えたことでしょう。
 平野は有馬達に見送られ肥後に戻ると、松村や清河に薩摩の計画を語りました。二人とも薩摩の計画を聞いて喜び勇みましたが、特に清河は「自分は早速京に立ち戻り、薩摩藩と行動を共にするべく同志を募る」と言い残し、京に向けて出発しました。清河がその道中、諸藩士や浪士達に薩摩の上京計画を喧伝していったことは言うまでもありません。
 また、平野は筑前や肥後の同志を募るべく行動を始め、久留米の真木にも薩摩の計画を語りました。真木も大いに触発され、自分の高弟の淵上郁太郎(ふちがみいくたろう)を長州へ派遣し、長州藩有志らに薩摩の計画を伝えるよう指示したのです。
 このような形で、久光の上京計画は、西国を中心に諸藩士や浪士達の知れ渡るところとなりました。
 前回の(4)において、西郷の上京反対意見の中に、京に入れば必ず騒動が起こるという内容があったことを思い出して下さい。これは前述のような平野の献策事件などの話を、西郷が同志から聞いていたことを物語ると思います。
 西郷は、時局を見る目に関しては、天下随一の人物です。西郷が危惧したことは以上のような理由があったからで、また、後に寺田屋事件が起こることを考えれば、西郷の見通しは全て当たっていたと言っても過言ではないでしょう。
 また、今回の久光上京の目的は公武周旋であるのに、平野や清河や真木らが伝えたことが、噂が噂を呼び、薩摩が倒幕に踏み切ると誤って伝えられたことも、寺田屋での悲劇を生む原因となるのです。
 これまで書いてきたとおり、薩摩藩の中で久光の上京を機に倒幕まで持っていこうと考えていた連中は、誠忠組分派の人々であって、久光には毛頭その気はありません。これは現代の伝言ゲームと同じですね。噂話と言うものは、いつの間にか真意が捻じ曲げられて伝わってしまうものなのです。

 さて、薩摩の方に話を戻します。
 西郷が指宿にいる間、前述のように平野、真木、清河らによって伝えられた薩摩藩出兵計画を聞いた諸藩の有志らは、その真意を確かめるべく、こぞって薩摩に入国してきました。豊後岡藩の小河一敏(おごうかずとし)、肥後の有志代表である宮部鼎蔵(みやべていぞう)と松田重助(まつだじゅうすけ)、長州藩の来原良蔵(くるはらりょうぞう)と堀真五郎(ほりしんごろう)、こういった面々が続々と薩摩に入国してきたのです。
 今となっては、久光の上京は一薩摩藩だけの問題ではなく、日本全体の問題となりつつあったのです。
 このように、西国を中心とした諸藩士や浪人の間で、久光上京策に期待を寄せる動きが活発化する中、久光の重臣である大久保は、この計画には何としてでも西郷の力を借りなければならないと、痛感する思いの毎日であったと思います。大久保は、久光自身の保守的な考えや浪人嫌いを痛いほどよく分かっていましたので、各地の浪士達が不穏な動きを取り始めていることに大きな危惧を抱いていました。
 また、大久保は、西郷が奄美から召還される前に、久光の上京計画を京都に朝廷工作に行った帰路、平野や真木といった志士達とも久光の計画について話したことがありましたので、このような浪人運動には敏感になっていたのです。
 続々と薩摩に入国する諸藩士や浪人達の動きを考えると、大久保の不安は一層つのったことでしょう。そして、大久保は、これら急速に過熱する浪人達の動きを沈静させ、なおかつ統率できる人物は西郷しかいない、と考えていました。大久保は、謀略や計略に関しては天下第一の人物ですが、徳望や人望という点に関しては、西郷の足元にも及びません。大久保自身もそれをよく分かっていたのです。

 西郷が指宿から城下・上之園の自宅に帰ったのが3月上旬のことです。
 なぜ西郷が鹿児島の自宅に帰ったのかについては、海音寺潮五郎氏がその著書『寺田屋騒動』の中で、西郷を指宿から呼び寄せたのは、大久保ではないかと推測していますが、私も同感です。前述のとおり、大久保は熱狂する浪士達に大きな不安を抱いていましたので、西郷にこの件を相談するために、早く帰ってきて欲しいと依頼したのだと思います。
 西郷が自宅に帰ると、その夕方、大久保が早速訪ねて来ました。西郷の手紙には、次のように書いてあります。

「一夕大久保参り実に心配いたし居り、弥(いよいよ)変を生じ候との趣承り候」

 大久保がいかに現状を心配していたのかがよく分かります。
 そして、大久保は何とか西郷を説き伏せようと試みました。大久保はこうと決めたら、絶対に諦めない強靱な意志と忍耐力がある男です。大久保は自分の腹の内を全て打ち明け、西郷に協力を求めました。
 西郷は久光の計画に反対はしましたが、日本の現状を憂う気持ちや非業に倒れた斉彬の志を受け継ぐという熱い素志は、大久保と何ら変わることがありません。そんな西郷はようやく大久保の熱意に応え、

「おはんの気持ちは、よう分かりもした。そいなら、一緒に気張ってやりもんそ」

 と答えました。
 大久保は、飛び上がるばかりに嬉しかったことでしょう。西郷と大久保は、その日夜遅くまで久光の上京策について話し合ったであろうと思います。一時は離れていた二人の心は、今ようやく一つになり、力を合わせ、一つの目標に向かって、この時走り始めたのです。
 その数日後、西郷は、「肥後の形勢を視察し、下関で久光公一行の行列の到着を待て」との藩命を受け、久光から先発を命じられました。
 西郷が先発を命じられたのは、諸説色々とあり、海音寺潮五郎氏は『寺田屋騒動』の中で、西郷が久光に願い出たのではないかと推測していますが、私は、大久保が久光に願い出たのではないかと思います。西郷としても、以前の対面であれだけのことを久光に対し発言したわけですから、大久保がそのことを配慮して、久光に願い出たのではないかと推測するからです。
 さて、久光ですが、大久保からの願い出とはいえ、気分が良かろうはずがありません。「あれだけ反対しておきながら、今更何を言うか……」くらいに思ったことでしょう。久光は、この計画において、既に西郷を使う気が無くなっているばかりか、西郷を一種憎むほどの感情にまでなっているのです。

「西郷一人の力なんぞ借りなくても十分やれるわ」

 当時の久光の心境は、こんな感じと言えるかもしれません。
 しかしながら、大久保やその他誠忠組の士や諸藩士らの間での西郷にかかる輿望は、非常に大きなものがありました。そのため、無下に大久保の願い出を却下するわけにはいきません。久光としては、西郷を用いたくはなかったでしょうが、側近の連中がどうしても西郷を使いたいと言うので、嫌々ながらそれを許したのでしょう。
 後年には、久光は全薩摩藩の権力を一手に握り、独裁とも言えるほどの権力を行使する人物ですが、前述のとおり、久光は先年本家に復したばかりで、この当時は重臣達の意見を無視することが出来るほどの権力をまだ持っていなかったことも注目する必要がありましょう。
 また、「下関で行列の到着を待て」と久光が西郷に指示したのは、下関で色々な理由を付けて、西郷を薩摩に引き返させるのが目的であったと私は思います。いわば下関への先発は、大久保達に対する配慮(アピール)であり、おそらく下関に到着した後は、西郷を鹿児島に帰還させるか、後方支援のような形で下関に残そうと久光は考えていたものと思われます。(西郷も自らの手紙の中でそう書いています)

 久光から先発の命令を受けた西郷は、早速その準備を始めました。
 西郷は一旦やると決意した時には、全身全霊をもって事にあたる最も勇気ある人物です。西郷は、村田新八(むらたしんぱち)を自分の同行者として選び、藩から許可を得ました。この当時、村田は26歳の若者です。西郷より九つ年下の村田は、二才(にせ。青年)時分から西郷を尊敬すること一通りでなく、西郷の同行者に選ばれたことを大いに誇りに思い、俄然やる気が出たに違いありません。
 そしてもう一人、西郷が奄美大島から連れてきた宮登喜(みやとき)という若者を、西郷は従者として連れて行くことに決めました。宮登喜も村田と同様、奄美に西郷が潜居している間、西郷のことを非常に慕っていたため、本人の希望するまま城下へと連れ帰ってきていたのです。
 以上、西郷一行三名は、いよいよ風雲急を告げる下関へと出発しました。久光の行列が出発する三日前、文久2(1862)年3月13日のことでした。


(6)に続く




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