西郷と久光の関係(6)
-久光の激怒と大久保の上坂-





(6)久光の激怒と大久保の上坂
 久光の出発に先立ち、文久2(1862)年3月13日に鹿児島城下を出発した西郷、村田の一行は、肥後の情勢を観察しながら、筑後を通り、筑前へと入りました。その道中、久光の上京計画を聞いた九州諸藩の有志や志士達が、我よ我よと京・大坂に向かう異様な光景を一行は目の当たりにすることになるのです。九州各地は久光の上京計画により、まさに蜂の巣を突ついたような騒ぎになっていました。これらは平野や真木、清河らが、久光の計画を各地に喧伝したことによることは、前述したとおりです。
 西郷や村田は、この異様な熱狂ぶりにさぞ驚いたことでしょう。西郷は大久保から志士達の熱狂ぶりについては教えられていたと思いますが、やはり聞くのと見るのとでは印象が違います。「百聞は一見にしかず」と西郷は思ったことでしょう。

(写真)白石正一郎宅跡
白石正一郎宅跡(山口県下関市)
 西郷一行が筑前の飯塚という宿場町に到着すると、誠忠組の同志で、西郷らより一足先に出立していた森山新蔵(もりやましんぞう)が下関から差し立てた飛脚に出会いました。
 ここで森山という人物について少し書きますと、森山は元来からの武士ではありません。鹿児島城下の町方の出身で、漁業、商業などを手広く営んでいた豪商で、藩に多額な献金をして士籍に列せられた経歴のある人物です。そのため、彼の家計は非常に裕福であり、誠忠組の一種パトロンのような形で資金などを出し、この頃誠忠組のメンバーの一員として活動していました。大久保なども、随分この森山から生活の援助を受けていたようです。 森山は、久光の上京計画に係る兵糧の買い入れを命じられ、西郷よりも一足先に先発しており、彼が差し立てた手紙には、「急ぎ下関まで来て頂きたい」と書かれていました。そのため、西郷一行は飯塚の宿から昼夜兼行で下関へと向かいました。

 西郷一行が下関に到着し、郊外竹崎の地で廻船問屋を営んでいる白石正一郎(しらいししょういちろう)宅へ入ったのが3月22日の朝のことです。西郷が白石家に入ったのは、森山が米の買い入れのために白石家に逗留していたためですが、西郷も白石とは過去に面識がありました。当時白石は薩摩の御用商人を勤めていたのですが、その白石を藩に推薦したのは西郷だったのです。また、白石が勤王志士達のシンパ的な存在であり、下関を往来する志士達に金銭等の援助をしていたことは非常に有名な話です。
 白石家に到着した西郷に、森山は次のように報告しました。

「情勢が非常に緊迫していもす。諸藩士や浪士達が、続々と京・大坂方面に集結しておりもんで、早く行って統制せんことには、大きな事件に成りかねもはん」

 森山が西郷に飛脚を差し立てた理由は、彼が白石家に逗留する間、長州藩の久坂玄瑞(くさかげんずい)、土屋矢之助(つちややのすけ)、山田亦介(やまだまたすけ)、土佐脱藩浪士の吉村虎太郎(よしむらとらたろう)、沢田尉右衛門(さわだじょうえもん)、久留米藩の原道太(はらみちた)など、久光の上京計画を聞きつけた諸藩士らと相次いで会合し、彼らの計画内容を聞いたからです。彼らの計画とは、簡単に言えば、久光の上京に乗じて、倒幕の兵を挙げることです。西郷は森山からその内容を詳しく聞いたことでしょう。
 また、この白石家には豊後岡藩の小河一敏(おごうかずとし)、平野国臣の二人も、西郷が到着する一日前に白石家に到着していました。以前、小河が久光の上京の真意を確かめるべく、薩摩に入国したことは前回書きました。また、平野についてはもう説明する必要がありませんね。この二人も森山と面会していました。小河は岡藩の重臣で、今回の久光の計画に便乗するべく藩士20名を従えて白石家に逗留していたのです。
 西郷はこの小河と平野に会い、久光の計画について話し合いました。小河は、その時の西郷の印象を同志に宛てた手紙の中で次のように書いています。

「偖(さ)ても斯(か)かる勇夫大胆の人、今の世に有る可くとは思ひ寄らざるほどの人に御座候。(中略)大島(西郷の変名)は極めて大事を成す人と存じ奉り候。斯かる勇士も有れば有るものと感心仕り候。しかし猪武者にてはこれ無く候」

 まさに大絶賛ですね。小河は初対面の西郷と腹蔵無く会談し、その人物に惚れ込んだと言えるでしょう。また、平野と西郷は、月照との投身自殺未遂以来の旧知の間柄で、西郷と面談した際の平野の決心は並々ならぬものがありました。
 前述したとおり、平野は『尊攘英断録』という論策を立て、九州各地の志士達の力を結集させようとしていた人物です。自分の思い描いた通りに事が運んでいるのを嬉しく思わないはずがありません。西郷も平野の決心を聞き、次のように述べたと木場宛の手紙の中で書いています。

「右の者(平野のこと)至極決心いたし居り候故、又其の方と死を共に致すべき我等に相成り候。いずれ決策相立て候わば、共に戦死致すべしと申し置き候」

 このように、西郷は平野に対し、決策が立てば共に戦死しようではないかと述べたのです。ここで言う決策とは、つまり倒幕の策と考えて良いのではないでしょうか。私はこの時点において、西郷はうまく行けば久光を巻き込んで倒幕に持っていけるのではないかと考えていたと推察しています。

 少し話がそれますが、久光の上京策について、西郷がそれを倒幕まで持っていこうと考えていたかどうかについては、非常に重要なことだと考えています。この点については、この後の西郷や大久保の行動等により考える必要がありますので、それらを書いた後に詳しく考察しようと考えています。取りあえず話を先に進めます。
 平野や小河といった久光の上京策に一大決心を賭ける人々と話し合った西郷は、ここで当初久光から与えられた「下関で行列の到着を待て」との命令を無視し、風雲急を告げる大坂へと向かうのです。
 西郷が大坂に向かった理由はただ一つ。つまり、京・大坂に集結しつつある志士達を統制しようとするためです。西郷は大事を成す前には軽挙行動を慎むべきであると考え、彼らの動きを押さえるべく、大坂へと向かったと言えましょう。
 しかしながら、この久光の命令を無視した西郷の行動は、後に久光を激怒させ、彼が処罰される原因の一つとなり、久光の西郷憎悪の大きな理由ともなるのです。
 この西郷の大坂出発に関して、幕末の薩摩藩史を研究されている芳即正氏は、西郷南洲顕彰館発行の『敬天愛人誌』第六号所載の「西郷隆盛と島津久光」の中で次のように書いておられます。

「西郷の下関脱出がなく西郷が無事に久光に随行しておれば、寺田屋鎮撫の役が西郷に命じられた可能性は大きい。そうすればあれだけの悲劇を生まずにすんだかもしれない」

 後に生じる寺田屋の悲劇に関しては、西郷は非常に重大な罪を持っていることは確かでしょう。しかしながら、これは西郷だけの罪ではありません。後に書きますが、大久保やその他久光重臣の連中も同罪であると言えます。
 ただ、芳氏が述べられるように、西郷が命令通り下関に待機し、久光に随行していれば寺田屋の悲劇を生まずにすんだかもしれないという部分は、果たしてどうでしょうか。
 前回書きましたとおり、久光はこの計画に関して、もう西郷を使う気を既に無くしていたと考えられます。もし、西郷が下関で待機していたとしても、その後行列に参加して、京まで行けたとは私には考えづらいのです。
 また、寺田屋の鎮撫士に西郷が選ばれた可能性が高く、寺田屋に派遣されていれば、あのような惨劇が起こらなかったということも、私には同様に考えづらいです。よしんば、西郷が京に随行出来たとしても、西郷の過激な発言や行動を知っている久光ですから、寺田屋に派遣すれば、有馬らと共に行動しかねないと思い、「ミイラ取りがミイラになる」といった風に考え、寺田屋には派遣されることは無かったと私は考えているからです。寺田屋には西郷の弟の慎吾がいるくらいですから、西郷が鎮撫士に選ばれる可能性は低かったものと思います。

 では、話を先に進めます。
 西郷は、下関に到着したその日の夜に、森山が用意していた船で、村田、森山を伴い大坂へと出発しました。この素早い出立をみても、西郷がいかに京・大坂方面の事態を重く見ていたのかが分かります。
 ここで重要なことを一つ書きます。西郷は下関から大坂へ出発するにあたり、一通の手紙を残したと木場宛の手紙の中ではっきりと書いています。この置手紙については、後に重大なことにつながりますので、是非ご記憶下さい。
 さて、ここで話を久光の方に移しましょう。
 久光は、文久2(1862)年3月16日に鹿児島城下を出発しました。総勢凡そ八百人です。
 久光は出発に先立ち、随行する藩士らに次のような布告を出しました。その内容を簡単に要約すると、次のようなものになりましょうか。

「近頃、浪人等が尊皇攘夷の名の元に容易ならざる計画を企て、藩内にもその浪士等と交際している者があると聞くが、今後は彼等と一切の交際を絶ち藩命に従うように。もし、この命に違反する者には断然たる処罰をする」

 久光自身も、今回の自分の上京策に便乗し、不穏な動きを見せている浪士達が多数いることは、大久保の情報等で十分に知っていました。そのため、このような布告を出したのです。
 久光という人物は、当時の一般の大名のように、飾り物のような無知な人物では決してありません。非常に賢くて、見識も高かった人物です。ただ、余りにも性格が保守的で頑迷であったため、この後、幕末史を停滞させるような行動を取ってしまうことになるのです。
 もし、久光が保守的な性格に生れておらず、非常に柔軟な知性の持ち主であったならば、もしかすると身分が身分だけに、西郷や大久保に勝るとも劣らない活躍が出来たやもしれません。
 話がそれました、布告の件に戻ります。
 久光が出した布告を見れば分かるように、寺田屋の悲劇は、この布告に始まったとも言えるのではないでしょうか。「藩命に背いた者には、断然たる処罰をする」という件がそうですね。後にも書きますが、久光は京に入ってからも、これと同じような布告を藩士に対し行っています。久光自身が、いかに浪士達の動きに気を使っていたのかがよく分かると思います。

 久光の側近であった大久保は、非常に筆まめな人物で、後世に膨大な数の日記を残しています。それらは『大久保利通日記』として、日本史籍協会から出版されているのですが、その日記の中の文久2(1862)年の大久保の日記は、3月16日、つまり久光が京に向けて出発したその日から始まっています。
 この大久保の日記を読めば、当時の久光の取ったコースが詳細に分かります。
 久光が鹿児島を出発し、下関に到着したのが、3月28日のことです。その時初めて、久光は西郷が命令を無視して、勝手に下関を離れ大坂に出発したことを知りました。そのことを知った久光は、当然の如く激怒しました。
 前回書きましたとおり、久光は大久保ら側近の者が西郷の登用を必死に願い出たので、渋々ながら西郷を使っているのです。そしてまた、久光が西郷に対し、わざわざ「下関で行列の到着を待て」との命令を下したのは、西郷を下関から鹿児島に帰還させようと考えていたと推測されます。
 しかし、久光の思惑とは裏腹に、西郷はその命令を無視しました。これにより、久光の心中には、一層西郷憎しの感情が高まったことでしょう。

「あやつ、どこまでわしを愚弄するつもりか……」

 久光は激しい怒りの感情を抱いたに違いありません。
 何度も言いますが、久光という人物は、統制主義を信奉するがゆえに、自分の命令に従わない者を非常に嫌いました。久光が脱藩浪人や志士達を嫌ったのはそのためであり、寺田屋の悲劇が起こった原因の根本はそこにあるのです。

 さて、前々回の(4)において、西郷の「地ごろ発言」を考察した際、久光の側近・市来四郎の回顧録を引用しましたが、この市来の回顧談によると、西郷は一通の置手紙もなく勝手に大坂に出発したので、久光は非常に立腹したと書かれています。
 少し前に、西郷が下関を出発する際、一通の置手紙を残したということが木場宛の手紙の中に書かれてあることを書きました。西郷の手紙と市来の回顧談は、この点が完全に食い違っています。市来の回顧談の中には、大久保と共に久光に随行していた中山尚之介も、西郷が一通の置手紙すらしていないことに非常に腹を立て、「一通の書付も残さないとは怪しからん次第だ」と激怒したということも書かれています。
 西郷自身は置手紙をしたと手紙の中で書き、市来が久光から聞いた話では、置手紙が無かったと言っている。非常におかしな話ですね。
 じっくり冷静に考えて見れば、西郷から寺田屋騒動に至るまでの事の顛末を綴った手紙を受け取った木場伝内は、当時奄美大島の一介の見聞役に過ぎなかった人物です。そんな木場に対し、西郷が置手紙を残した等とわざわざ嘘をついて弁解する必要などないと思われます。木場にそんな弁解をすることによって、罪が軽くなる等ということも、もちろんありませんから。とすれば、久光の記憶違いということになりますが、そうとも言えないでしょう。久光が激怒したのは、西郷が何の断りも無しに勝手に大坂に出発したことにあるのですから。
 以上のようなことを考えると、西郷・久光どちらの話も真実ということになってしまいますが、私はこの話の食い違いの原因は、大久保にあると見ています。
 つまり、大久保が西郷の置手紙を握り潰したと考えるのです。なぜならば、西郷が置手紙を残していたとすれば、それは必ず大久保宛のものであったに違いないと思うからです。
 では、なぜ大久保が西郷の置手紙を握り潰し、久光に報告しなかったのか?
 これは推測以外の何物でもありませんが、おそらく西郷の置手紙の内容に容易ならざることが書かれてあったので、大久保は取りあえずその手紙を握り潰さざるを得なかったのだと思います。
 作家の海音寺潮五郎氏は、著書『寺田屋騒動』の中で、同様の解釈を取られています。海音寺氏はその解釈を裏付ける資料を提示されていませんが、私はそれを裏付けするような傍証を、先頃大久保の日記の中で見つけました。その説については、次回の「テーマ随筆」内で書きたいと思いますので、もうしばらくお待ち下さい。

 さて、西郷が久光の命令を無視し、大坂に向けて出発したことを知った大久保は、久光に対し、自ら先発して大坂に向かうことを願い出ました。大久保の3月29日の日記に次のように書かれています。

「(久光に対し)切に建白に及び候ところ、云々のことあって出坂仰せ付けられた」

 大久保が久光に先発を願い出た理由は、大きく三つあると思います。

一、浪士等が不穏な動きを見せ、京・大坂方面に集結しているとの情報を得たため。
二、西郷の命令違反に対し、久光が非常に立腹していたため。
三、久光の命令を無視し、大坂に向かった西郷に「ある真意」を確かめるため。


 一については、3月29日の大久保の日記の中に、諸藩士や浪人達の動きを非常に心配する様子が詳しく書かれています。
 また、二については、西郷の大坂出発を聞いた久光の立腹が余りにも激しいものであったので、大久保自らが「西郷に事の次第を確かめてきます」と久光に先発を申し出たのではないでしょうか。
 そして、最後の三ですが、これは前述した置手紙の内容に関係があります。
 ともあれ、ある決意を秘めた大久保は、行列から先行して、3月30日、西郷が向かった大坂へと出発しました。


(7)に続く



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