龍馬暗殺の黒幕・薩摩藩説への疑問
−大政奉還後の西郷と大久保−

(写真)龍馬・慎太郎暗殺地
坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺地(京都市)
「坂本龍馬を暗殺したのは誰か?」
 慶応3(1867)年11月15日に起こったこの暗殺事件は、今や幕末だけでなく、日本史上最大のミステリーとまで言われています。幕末に少しでも興味を持たれた方は、必ず龍馬暗殺の犯人について、一度は考えたことがあるのではないでしょうか?
 通説、いわゆる一般的に唱えられている説としては、実行犯は今井信郎(いまいのぶお)以下、幕府お抱えの見廻組(みまわりぐみ)の犯行ということになっていますが、龍馬が暗殺されて130年以上経った今日でも、龍馬暗殺の黒幕について、色々な諸説が唱えられ、新聞・雑誌やテレビ等を賑わしています。

 それら色んな黒幕説の中でも、特に最近巷で流行なのが薩摩藩黒幕説です。つまり、西郷や大久保が龍馬暗殺の黒幕として関わったのではないかとする説です。
 その薩摩藩を黒幕とする説の動機(理由)として一番多く挙げられるのが、

「武力倒幕を推進しようとする薩摩と長州にとって、大政奉還を行った龍馬が非常に邪魔な存在であった。そのため、龍馬を暗殺することを計画した」

 というものではないでしょうか。最近では、歴史雑誌やテレビの歴史番組でも、薩摩藩黒幕説を採っているものが多く見受けられます。
 以前から、私はこの薩摩藩黒幕説に対し、異論を持っており、大きな不満を抱いておりました。
 まず最初に結論から簡単に書くならば、当時の薩摩藩は、藩内部が非常に重要な局面を迎えていたため、龍馬暗殺に関わっているような状態ではなかったと言えます。
 今回の「テーマ随筆」は、当時の薩摩藩の動きに焦点を絞り、龍馬暗殺の黒幕としてあげられている薩摩藩説について書いていきたいと思います。

(大政奉還後の薩摩と長州の方針)
 まず、確かに武力倒幕を目指していた薩摩藩や長州藩にとって、龍馬が推進し、成し遂げたともいえる大政奉還は、大きな痛恨事であったことは間違いありません。なぜならば、それまでに両藩は、武力倒幕の準備を着々と進めており、公家の岩倉具視(いわくらともみ)を通じて「討幕の密勅」を朝廷から受けるための努力を懸命に行っていたからです。つまり、それらの運動が龍馬の大政奉還運動によって全て水の泡になってしまったからです。
 大政奉還同日に下りた「討幕の密勅」は、言葉は悪いですが、ただの紙切れになってしまったとも言えるでしょう。つまり、大政奉還というものは、薩長の武力倒幕のための大義名分を失わせる効果を持っていたということです。江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、十分にその効果を狙って大政奉還に踏み切ったと言えます。
 しかしながら、薩長の倒幕派首脳部は、大政奉還が行われた後も、あくまでも武力倒幕に持っていく方針を変えませんでした。なぜなら、急に政権を奉還された朝廷側では、長い長いブランクのためか、それとも公卿自体に能力が無かったためか、実際の政務を取り行なうことが出来ず、政権を持て余すようになり、朝廷内部では、一旦奉還された政権をもう一度幕府に委任しようではないかという意見まで出ようとしていたからです。
 薩長倒幕派首脳部は、この情勢のままで幕府にまた政権が戻るようなことになれば、革命(つまり世直し)が中途半端な形で終わり、形骸化してしまうことを恐れました。
 とても非情なようですが、260年以上続いた徳川幕府の世を終わらせ、世の中を大きく変革させ、一般庶民にも新しい世が来たことを象徴的に示すためには、武力という手段を使おうとしたのも致し方のないことだったと思います。
 今現在の常識から考えると、武力という手段を聞けば、何か非常に荒っぽく感じられますが、幕末当時の常識から考えると、武力を使って世直しをするということは、誰もが考える常套的な手段だったと言えましょう。
 過去の歴史上の出来事を考える際は、その当時の常識や観念等を必ず念頭において見ていかなくてはなりません。現在の常識で、過去の出来事の良し悪しを判断すれば、必ず誤った結論を導き出してしまいます。歴史とはそういうものなのです。今現在の常識や観念を持って歴史を見るのではなく、当時の常識や観念を常に念頭に置き、細心の注意を払って、歴史は見ていかなければならないものなのです。
 少し話がそれましたが、この大政奉還後の薩長両藩の武力倒幕の方針を考えると、大政奉還の主唱者である龍馬の存在が邪魔であるということを動機とすること自体、少し論点がずれているようにも思われます。つまり、龍馬の存在があるなしに関わらず、言葉は悪いですが、薩長はゴリ押しでも武力による倒幕を目指していたからです。

(西郷、大久保の帰国)
 幕府から大政奉還の上表が朝廷に提出されたのは、慶応3(1867)年10月14日のことです。そして、その三日後の17日、薩摩藩の西郷吉之助(後の隆盛)、大久保一蔵(後の利通)、小松帯刀(こまつたてわき)の三人が、京を出発し、一路鹿児島に向けて帰国しました。
 幕末の薩摩藩の歴史を少しでもかじれば分かるのですが、当時の薩摩藩のトップ3とも言える三人が、同時に帰国したのは非常に異例な事態です。
 では、なぜ三人が同時に帰国しなければならなかったのでしょうか?
 三人は倒幕のための兵隊を国元(薩摩)から出兵させるために帰国したのです。

 一般的に言うと薩摩藩は、藩内一致団結して倒幕を目指したかのように伝えられていますが、これは大きな間違いです。薩摩藩内には、倒幕に反対する保守派と呼ばれる人々が多数おり、根強く西郷や大久保の倒幕派と対立していたのです。(と言うよりも、西郷・大久保の倒幕派の方が少数派であったと言えるかも知れません)
 そのため、西郷や大久保が国元に対し出兵要求を行っても、国元の保守派連中が頑強に出兵に反対し、なかなか十分な兵力を京に送らせなかったのです。
 また、国元にいる藩主・島津忠義(しまづただよし)の実父・島津久光(しまづひさみつ)は元来からの保守家で、彼の頭の中には幕府を倒すなどという了見はさらさらありませんでした。そのことも、保守派連中が力を持つ原動力ともなっていたのです。(その久光が、なぜ最終的に倒幕に賛成したのかについては、テーマがそれますので、またいずれかの機会に書きたいと思います)

(薩摩藩内の情勢と西郷・大久保の帰国の真意)
 ここに薩摩藩内が出兵か否かで揺れる混乱ぶりを示す資料をその一例として挙げてみたいと思います。
 慶応3(1867)年10月19日、藩主・忠義は藩内に自筆の告諭を出しています。この告諭は藩内の保守派(倒幕反対派)に向けて出されたようなもので、その内容には非常に興味深いことが書かれてあるのですが、長い文章のため必要な部分だけを抜き出すことにします。
 まず、告諭の冒頭は、次のような文言から始まっています。

「此節一大隊就令上京、出船前及直諌、又ハ役筋ヘ相付致諌訴、出船後封書ヲ以申出候モ有之」(以下原文は、「鹿児島県資料・忠義公資料第四巻」より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「この度、兵一大隊を上京させたことについて、出船前に直接諌止あるいは役筋の者へ訴状を提出し、出船後も封書をもって諫言してきたものが有った」


 在京の西郷・大久保らが盛んに国元に出兵要求を行っていたため、藩主の忠義は、それに少しでも応えるべく、取りあえず兵一大隊だけを京に派遣することに決定したのですが、この告諭の冒頭の文言を見ると、この派兵についても、藩内から多くの反対意見が出ていたことが分かります。
 そして、この文言の後には、藩主・忠義が派兵反対派に対して、懇切丁寧に派兵についての説明をし、彼らの気持ちをなだめようとする内容が続いているのですが、特に注目する必要があるのが次の文言です。

「尤此方ヨリ無謀ニ事ヲ起シ候儀決テ無之」

(現代語訳 by tsubu)
「もちろん、これから無謀に事を起こすようなことは決してない」


 つまり、藩主・忠義は、派兵反対派に対して、無謀に兵を挙げて幕府と相対するようなことは決してしない、と出兵への理解を求めているのです。
 そして告諭の最後を締めくくる部分が次の文言です。

「何卒紛擾無之様一同致一和、急変之時ハ十分致尽力呉候儀、我等各々モ朝廷江之忠節此上アルマシクト存候」

(現代語訳 by tsubu)
「何とぞ紛擾の無いよう、家中一同一和して、急変の時は十分に尽力してくれることが、我等(藩主・忠義と実父・久光のことを指す)にも、朝廷に対してもこの上ない忠節であると考えてくれるよう」


 いかに藩主の忠義自体が、藩内の保守派と呼ばれる人達に対して気を使っていたのかがよく分かりますね。いくつかの部分を抜き出しただけですが、この告諭を見れば、この時期の薩摩藩内が倒幕派と保守派で二分され、京への派兵の是非を巡って、いかにもめていたのかが分かると思います。
 西郷ら三人が同時に帰国しようと考えたのは、三人が一致団結して力を合わせて協力しなければ、藩内の混乱を静め、藩内の倒幕反対派を押さえ、藩から兵隊を京に出兵させることが出来ないと判断したからです。つまり、三人の帰国は、藩論の統一のための帰国だったのです。西郷・大久保にとって、ここが倒幕に向けての第一の正念場だったと言えます。
 この帰国に関して少し補足しますと、西郷や大久保が、家老の小松帯刀と一緒に帰国していることにも注目する必要があります。この時期、西郷や大久保は、対外的には薩摩藩を代表する大物になっており、諸藩士の間でその名が轟いていましたが、対内的、つまり薩摩藩内においては、一代限りの家老待遇という身分に過ぎず、それほどの大きな権限や発言力は無かったのです。つまり、西郷や大久保には、薩摩藩内において、何事も独断で決定できる権利など無かったのです。
 薩摩と言えば「西郷と大久保」と後年言われたことから、二人が何事においても大きな権限を持ち、独自に藩政を動かしていたかのように勘違いされやすいのですが、実際はそうではなかったのです。
 先程も書きましたが、この幕末という時期の出来事を考える場合は、当時が純然たる封建制の世の中であったということをまず念頭に置いて考えなければなりません。下級藩士の出身である西郷や大久保も、その例外ではなく、実質的な権限はさほど大きなものでは無かったと言えましょう。
 その点において、家老の小松帯刀という人物は、藩内名家の出身で、家柄も良く、身分も高い人物であったので、藩内においては大きな発言力がありました。西郷や大久保が小松を一緒に連れて帰ったのは、帰国後開かれるであろう御前会議の場において、西郷・大久保の意見をバックアップしてもらうためだったのです。
 少し話がそれますが、この小松という人物がいなければ、西郷や大久保は、幕末期あのように縦横無尽に活躍することが出来なかったと言っても過言ではありません。それ程西郷や大久保にとって、小松という人物の力は大きかったのです。残念ながら、この小松は明治3(1870)年に病気で亡くなってしまいます。

(薩摩藩黒幕説について)
 これまで書いてきたとおり、当時の西郷・大久保ら薩摩藩の倒幕派首脳部は、大きな問題に直面していました。いかにして藩内の保守派を押さえ、藩から倒幕のための兵隊を京に出兵させることが出来るかという問題です。つまり、当時の西郷や大久保らは、倒幕のために龍馬が邪魔であるとか、大政奉還を推進した龍馬を恨んでいただとか、徳川救済に奔走する龍馬の存在を疎んでいたとか、こういった薩摩黒幕説の動機とされるものを考えているような余裕のある状態では無く、いかにして藩から出兵させることが出来るかという重大な課題に直面し、そのことに集中していたと言えます。外部の龍馬のことを心配するよりも、藩内部の方に問題が山積していたのです。

 よく、「龍馬暗殺当時、西郷や大久保が京にいなかったのが怪しい」とか「西郷や大久保は、龍馬暗殺に関わっていないことを示すアリバイ作りとして帰国したのである」などと実しやかに平然と書かれてある本がありますが、それは薩摩藩内部の情勢をよく調べずに書いているものであって、これまで書いてきたとおり、完全に誤りと言えます。真実は、西郷と大久保らは鹿児島に帰らざるを得なかったと言うべきでしょう。
 また、西郷は鹿児島に帰国するにあたって、長州へ立ち寄り、倒幕の挙兵のための打ち合わせを行っています。このことも、帰国後開かれるであろう御前会議を自分達倒幕派に有利に進めさせるための地固めでもあったのです。
 このように、龍馬を暗殺した黒幕と囁かれている薩摩藩の西郷や大久保は、当時は非常に重大かつ重要な局面を迎えており、龍馬の存在を煙たがる余裕すらなかったと言えます。
 また、もし仮に西郷や大久保が龍馬暗殺の黒幕であったと仮定したとしても、藩から京に兵を出兵させることが出来なければ、龍馬を暗殺すること自体、何の意味も持たないことになるのです。その点から考えても、西郷や大久保が龍馬暗殺に関わっているはずがないと私は考えています。


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