西郷と久光の関係(7)
-京・大坂における西郷と大久保-


(7)京・大坂における西郷と大久保
 前回では、西郷が久光の命令を無視し大坂に出発したこと、それを知った久光が激怒したこと、そして、大久保が西郷の後を追って大坂に先発したことまでを書きました。
 西郷一行が大坂に到着したのが、文久2(1862)年3月27日のことです。西郷はここで大坂の薩摩藩邸には入らずに加藤十兵衛という者の屋敷に入りました。藩邸や普通の宿屋に入っては、浪士や薩摩藩誠忠組分派の人々が多数押しかけてくる恐れがあり、これらの人々に取り巻かれては、身動きが自由に取れなくなるということを考慮したからです。

(写真)大坂薩摩藩蔵屋敷跡
大坂薩摩藩蔵屋敷跡(大阪市西区)
 少し話はそれますが、明治7(1874)年に起こった佐賀の乱において、前参議兼司法卿であった江藤新平(えとうしんぺい)は、この手の失敗を犯していますね。
 江藤は、佐賀の情勢が不穏との報を受け、当初横浜から直接佐賀城下には入らずに、長崎に入ってその形勢を見ていたのですが、最終的に佐賀城下に入ってしまい、そこから身動きが取れなくなり、結局旧佐賀士族の首領に祭り上げられてしまったのです。
 おそらく江藤自身も、佐賀に入れば身動きが取れなくなるということを十分承知していたとは思いますが、結局江藤は集団の力を甘く見ていたと言えましょう。ある一つの目的を持って集まった集団というものは、状況によっては途方もないエネルギーを生み出します。一端燃え上がると手が付けられなくなるくらいの恐ろしい勢いを持つものなのです。
 江藤は頭が切れ過ぎるくらい頭脳明晰な人物でしたが、結局、最後は自分の才能に溺れてしまったのですね。文久2(1862)年の西郷の動きは、こういったことを常に危惧し、藩邸や宿屋には入らなかったと言えましょう。

 しかしながら、またもや脱線してしまいますが、後年の西郷は、最後に集団の力を甘く見た失敗を犯してしまいます。
 明治10(1877)年1月30日に起こった、西南戦争勃発のきっかけとなった私学校生徒による火薬庫襲撃事件がそうです。
 前年からこの年の初めにかけて、大警視・川路利良(かわじとしよし)が送り込んだ密偵が、続々と鹿児島に潜入しており、そのことで私学校関係者の間では非常にピリピリとした緊張状態が続いていました。なぜならば、私学校関係者はその密偵達を西郷暗殺のために送り出された「刺客」ではないかと考えていたからです。
 鹿児島城下がこのような緊迫した状態でしたから、私学校の幹部達は、私学校生徒らが何らかの形で暴発するかもしれないという危惧を抱いていました。この段階で既に暴発への導火線に火がつきかかっていたと言っても過言ではないでしょう。
 しかしながら、このように私学校周辺が緊迫状態にあったにもかかわらず、西郷は鹿児島城下から遠く離れた大隈半島の小根占(こねじめ)という所で狩猟生活をしていました。今から考えれば、こういった切迫した状況であったればこそ、西郷は城下に留まり、暴発する恐れのある私学校生徒らに対し、注意深く目を配るべきだったのです。
 しかし、その当時の西郷は、集団の力を甘く見ていたとしか考えられません。おそらく、西郷としては、もし騒ぎが起こったとしても、自分が迅速に出て行けば解決出来るという自信を持っていたのだと思います。
 なぜそのような推測が成り立つかと言いますと、これは「機が熟すのを待ってから物事の解決にあたる」という、西郷特有の事態処置方法であるからです。この西郷のやり方は、彼の生涯を通じて随所にわたって出ています。
 しかしながら、明治10(1877)年の事態は、西郷の予想を遥かに超えたものでした。一旦火がついた私学校生徒らの動きは、鹿児島各地へと飛び火して、手が付けられない状態になってしまったのです。
 私学校生徒らの火薬庫襲撃の報を受けた西郷が、「しまった!」と叫んだのは、「手遅れだ」ということをすぐに感じとった西郷自身の後悔の念が含まれていたと私は考えています。

 話が大きく関係のないところにそれてしまいました。話を本筋に戻します。
 大坂での西郷は、過激な論を吐いている浪士連中には一切会わず、限られた藩籍のある人物とだけと面会しました。その中に長州藩の大坂藩邸留守居役の宍戸九郎兵衛(ししどくろうびょうえ)と久坂玄瑞(くさかげんずい)がいます。
 久坂は、吉田松蔭の松下村塾で、高杉晋作(たかすぎしんさく)と並び「松門の双璧」と言われた人物です。久坂は、久光が兵を率いて上京する計画があることを知ると、藩内の同志達と共にそれに追随するべく、大坂に入りその準備を進めていました。久坂は、薩摩藩の中心人物と言われた西郷が大坂に来たことを知り、宍戸と共に面会を求めてきたのです。
 西郷はその席で久坂らに対し、「長井雅楽を斬れ」と発言しました。西郷の手紙の中に、

「永井儀は長州の有志共へ刺すべく申し置き候」(注:永井は西郷の誤字か当て字)

 と書かれています。
 長井雅楽という人物については、「航海遠略策」という公武合体政策を引っ提げて京の政界に一大旋風を巻き起こしました当事者であることは以前書きました。
 しかし、久光が薩摩から兵を率いて上京するという噂が巷に流れると、この航海遠略策の評判は急落しました。その機に乗じて、久坂ら松下村塾党メンバーも長井を失脚させようと運動を始めていたため、この頃の長井は世上非常に評判が悪い人物だったのです。
 西郷もその影響を受けてか、長井を姦物視していました。しかしながら、実際長井という人物は、西郷や久坂の考えていたような姦物ではなく、当時の有識者の中でも最も優れた部類に入る一大人物であったことは後世の我々の知るところになっています。
 西郷は長井とは一面識もなく、同志から聞く評判などを元に、その人物評価を下してしまっていたのです。西郷も奄美大島から召還されたばかりで、情勢の把握が完全に出来ていなかったことがうかがえます。西郷が久坂らに対し、長井を斬れなどと過激な論を吐いたのも、そういった事情からであると推察されます。西郷もまだ若かったと言わざるを得ませんね。

 久坂は、自藩から長井のような人物を出したことを、非常に恥であると思っていたのですが、西郷からこうまで言われては立つ瀬はありません。
 久坂は、「そうは言われますが、貴藩の堀次郎殿は、我が藩の長井に同調し、薩摩藩侯も同様の考えであると申されているではないですか」と西郷に対し反論しました。
 西郷は、その久坂の言葉に驚きました。
 堀次郎は、(2)において少しだけ触れましたが、前名を堀仲佐衛門と言い、大久保と同じく久光から抜擢されて、当時御小納戸役を勤めていました。また、堀と西郷は昔から知己の間柄で、古くから西郷の片腕として働き、最も信頼していた誠忠組の同志の一人でした。
 明治後、堀は伊知地貞馨(いじちさだか)と名乗り、国史の編纂などを手掛た人物ですが、後年は事ある毎に西郷のことを批判し続けました。これはこの後に書く、ある出来事が原因となっています。
 少し話がそれましたが、西郷が信頼していたはずの堀が、長井の策に同調していたことに西郷は驚き、そして憤りを感じました。
 西郷は、堀が薩摩藩代表として長井の説に同調した事実を重く見て、それを確かめるべく、3月29日に伏見の薩摩藩邸に入り、伏見薩摩藩邸留守居の本田弥右衛門(ほんだやえもん)に、その事について詳しく聞きました。
 本田は、堀が長井に同調したことを事実であると認めたのですが、そこにひょこっと当事者の堀が現れたのです。堀は長年の同志である西郷が伏見藩邸に入ったことを聞き、西郷を訪ねて来たのです。堀としては、一番頼りにしている西郷が来たことを頼もしくもあり、そして嬉しく感じていたのです。
 しかしながら、西郷はそんな堀に対し、長井に同調したことを厳しく叱責しました。その理由はこれまで書いてきたとおりです。
 西郷から意外な叱責を受けた堀は、長井の航海遠略策が余りにも評判が良かったため、薩摩藩もそれに遅れてはなるまいと感じ、つい長井の説に同調してしまった軽率を西郷に詫びました。
 しかし、西郷は堀を許そうとはしませんでした。海音寺潮五郎氏の著作『寺田屋騒動』では、西郷が堀に対して、「おいが長州藩の者に長井を斬れといったからには、それに同調したおはんも斬らなければならなくなるぞ」というようなことを言い、それを聞いていた同席の村田新八が、「そん時はおいがやりもす!」と言って、傍らにあった火鉢を堀に投げつけたと描かれています。
 もし、これが本当であれば、堀は西郷の迫力と村田の行動に震え上がったに違いありません。また、堀は西郷にここまで屈辱的な叱責を受けたことを深く恨みに思い、この後、大坂に向かいつつある久光に対し、讒言を企てることになるのです。
 この堀との一件が、西郷が処分される大きな原因となることを、この時点で西郷は知る由もありません。

 西郷が伏見の藩邸に入ってからは、続々と血気盛んな若い藩士達や薩摩藩の動きに追随しようとする他藩士、浪士達が、西郷の元に詰めかけてきました。
 後の寺田屋事件にも関係してきますので、当時、京・大坂に集結していた主な人々の動きをここでまとめておくことにしましょう。
 まず、薩摩藩関係者ですが、誠忠組分派の首領であり、後に寺田屋での挙兵の中心人物となる有馬新七は、久光の行列に随行していましたので、大坂にはまだ到着していません。
 その有馬の代わりに誠忠組分派を束ねていたのは、江戸薩摩屋敷詰糾合方(図書係)を勤めていた柴山愛次郎(しばやまあいじろう)と橋口壮助(はしぐちそうすけ)です。彼らは、久光が上京するに際し、急遽京に馳せ上ってきた者達です。(5)において、薩摩に潜入した平野や伊牟田に対し、有馬や柴山らが久光の上京を機に行動する、つまり倒幕への行動を起こすつもりであることを告げたことは書きました。柴山と橋口はそれを実行に移すべく、京に上って準備を進めていたのです。この集団が後の寺田屋の主要メンバーとなります。
 また、久光の行列の随行出来なかった人々も、薩摩を脱走して大坂に集結しつつありました。西郷と共に大坂に入った森山新蔵の長男・森山新五佐衛門(もりやましんござえもん)らがそうです。新五佐衛門らも大坂に入ると、柴山を中心とした誠忠組分派の人々と行動を共にしていました。
 次に長州藩関係者ですが、これは前述した久坂玄瑞を中心としたグループが大坂の長州藩邸に集結していました。ここには土佐脱藩の吉村虎太郎などもいます。
 そして、最後に浪士グループですが、前回書いた平野国臣、そして策士・清河八郎を中心に、伊牟田尚平や田中河内介親子等がいました。
 このように、京・大坂周辺は風雲急を告げる、まさに一触即発の緊迫した状況になろうとしていたのです。
 伏見に入った西郷は、そんな彼等の暴挙を諌め、終始押さえることに懸命に努力しました。海音寺潮五郎氏の著書『西郷と大久保と久光』の中の西郷の台詞の一節を引用すると、こんな風に西郷は彼らを統制しようとしていました。

「わしが出てきたのじゃ。わしはおはん方の志を最も見事な形で生かして上げようと苦心しとるのじゃ。わしを信じて、決して軽挙はしてはならんぞ。よかじゃろな」

 また、この辺りの状況については、西郷は手紙の中で次のように書いています。

「浪人共は始終私方にて押さえ付け居り候て動かし申さず、又年若の者共は尻押す所の事にこれなく、(中略)始終叱り付け置き申し候。」

(現代語訳 by tsubu)
「浪人達は私が押さえ付けて動かさず、また、若い藩士達は煽動したことは一度もなく、むしろ私が始終叱り付けていたのです」


 西郷は、後に久光から、浪人共と組んで騒動を企てたことや年若の者を煽動した等という罪状をかけられて処分されることになるのですが、むしろ西郷は決起盛んな者達を懸命に統制しようとしていたことが分かります。
 実際この後西郷が捕縛されて鹿児島に送還されたことにより、浪士達等を統制していた西郷という「重石(おもし)」が無くなったことが、寺田屋への惨劇へとつながっていくことになるのです。

 さて、ここまで大坂での西郷の動きを中心に書きましたが、ここで一方の大久保の動きを追うことにしましょう。
 大久保が大坂に着いたのは、4月5日のことです。大久保は西郷一行が加藤十兵衛宅から伏見に向かったことを聞き付け、その翌日、一路伏見へと向かいました。また、大久保が大坂に着いたのと入れ違いに、堀次郎が久光に会うために大坂を出発しました。後で詳しく書きますが、堀は久光に対し、「西郷は、京・大坂において不逞な輩を煽動し、不穏な動きを見せています」と報告しに行ったのです。つまり、堀は長井の件に関して西郷に厳しく叱責されたのを遺恨に思い、久光に讒言しに行ったというわけです。この堀の行動は、まさに私情を挟んだ人としては決して許されない行為であると言わざるを得ません。

 伏見の薩摩藩邸に着いた大久保は、西郷が宇治に外出しているのを知り、書面を出して西郷に帰邸を促しました。前述のとおり、西郷の元には諸藩士や浪人達が次々と面会を求めてきましたので、留守居の本田の配慮で、西郷は人目を避けるために宇治に潜伏していたのです。
 大久保からの手紙を受け取った西郷は、急ぎ藩邸に戻り、大久保と面会しました。大久保にとっては、西郷が鹿児島を先発して以来の再会です。大久保はその日の日記に次のように記しています。

「彼是京地模様等承別而大機会ニ而候且大島江少々議論有之候處一盃振はまり故先ツ〃安心いたし及鶏鳴候」
(「大久保利通日記(一)」日本史籍協会編より抜粋)


 原文が漢文調ですので、分かりやすく現代語訳に直すと、次のような内容です。

「かれこれ(西郷から)京の模様などを承った。別して大機会だと思った。大島(西郷の変名)には少々議論があって来たのだが、一生懸命精一杯に努力をしている様子なので、先ず先ず安心した。鶏鳴に及ぶまで話し合った」

 私は大久保の日記の中の「大島(西郷)に少々議論これ有り候」という部分と「先ず先ず安心いたし候」という二つの部分を重要視ししています。なぜならば、これは前回書いた下関に残されていたはずの西郷の置手紙と密接に関係があるように思えるからです。
 少し整理しますと、私は大久保が西郷の置手紙の内容に容易ならざることが書かれてあったため、手紙を握り潰さざるを得なかったと前回推測しました。また、大久保が久光に大坂への先行を願い出た理由の一つとして、西郷に「ある真意」を確かめるためが目的でったことも書きました。
 つまり、この大久保日記の中の「大島(西郷)に少々議論これ有り候」の部分は、西郷の置手紙の内容に、久光に誤解を生じさせるような、容易ならない内容が書かれていたので、大久保自身がその真実を西郷に確認したかったという裏付けになると考えています。
 大久保の日記の記述から考えると、次のような解釈が出来るのではないかと考えています。
 大久保は西郷が下関に残した置手紙の内容に久光が誤解するような容易ならざることが書かれていたため、取りあえず手紙は無かったようにして握りつぶし、西郷にその真意を確かめるべく、久光に大坂への先行を願い出ました。そして、伏見で直接西郷と会って話し合ってみると、それらの誤解は解け、西郷も精一杯努力しているようなので安心した。「先ず先ず安心いたし候」という部分には、大久保の安堵の色が見て取れ、それは大久保が懸念していたことの誤解が解けたと解釈出来るのではないでしょうか。
 また、久光に誤解を生じさせるような容易ならない内容とは何か……。それはやはり「倒幕」ということ以外にあり得ないと私は思います。

 前回の(6)で、西郷が久光の率兵上京計画に際し、「倒幕」を意図していたかどうかが非常に重要な問題であると書きました。これについては、海音寺潮五郎氏は著書『寺田屋騒動』の中で、「西郷・大久保談合説」を主張されています。
 海音寺氏の説によると、西郷が久光に先立ち先発するに際し、西郷と大久保との間で、全国の志士達の動きが強力で機が熟しているならば、久光を巻き込んで倒幕に持っていくことを、二人があらかじめ事前に打合せていたのではないかということです。二人の親密な関係から考えると、西郷も大久保も、その状況によっては公武合体から発展して倒幕に持っていこうと考え、事前に何らかの話し合いがあったことは間違い無いことだと私も思います。
 ここからは、寺田屋騒動が起こった重要な原因にも触れていきますので、少し詳しく書くことにします。
 私は海音寺氏の説とは少し違う考えを持っています。独自の説を書きますと、私はこの当時の西郷と大久保の間には、倒幕についての考え方に「温度差」があったと考えています。実はこの「温度差」こそが、同志相討つ寺田屋の惨劇へと繋がる重要な要因になったと私は考えています。
 極簡単に言うならば、この時点では、西郷は積極的倒幕派、大久保は消極的倒幕派ではなかったかと思います。どういった意味での積極・消極かについては、後で詳しく述べることにして、まず、この計画の当事者・島津久光の考えの中に、「倒幕」などという大それた考えがまったくなかったことは、前回まで折に触れて書いてきた通りです。これは久光側近の大久保はよく分かっていることですし、直接久光に拝謁した西郷も当然そのことは分かっていたはずです。
 西郷が、久光に倒幕の意志がないと分かっているにもかかわらず、この計画に加わったのは、大久保との間で次のようなやり取りがあったからではないかと推測しています。

(西郷)「一蔵どん、今回の計画において、もし倒幕を成し遂げられる形勢になりもしたら、一歩踏み出して、おいは有志の者達と共に一大決心をするつもりでごわす。そいで良かなら、おいは一身を賭けてこの計画に協力しもんそ」
(大久保)「よう分かりもした。おいも機が熟して成功の見込みが立つならば、吉之助さあの考えに異存はごわはん。そのつもりで大いに気張ってやったもんせ」

 大久保は、久光の上京計画にはどうしても西郷の力が必要であると考え、何としてでもこの計画に西郷を引っ張り出したかったと思います。それはその後の大久保の動きにも表れています。大久保は頭脳明晰な非常に賢い人物です。もしここで西郷の倒幕策について、あれこれと細かい議論などをしていては、西郷が計画に協力してくれないと考えたのでしょう。
 大久保の頭の中にも、出来れば「倒幕」へという素志は当然ありました。そのため、大久保は「大筋は合意である」という意味で、西郷の提案に納得したのではないかと私は推測します。もし、西郷と大久保の間で、倒幕についての完全な意見の合意が成り立っていたならば、下関での西郷の置手紙に倒幕にかかわるような内容が書かれていたとしても、何も慌てて大久保が久光に先発を願い出る必要などないからです。
 その点から言いますと、西郷と大久保の間には完全な意見の合意はなかったような気がしています。そう考えなければ、大久保が下関から西郷を追って先発したことや、大久保の日記の内容書かれていた「大島(西郷)に少々議論これ有り候」という部分に矛盾が生じてしまうからです。

 ここで少し補足しますが、従来の説では、大久保が先発を願い出たのは、「下関で待て」との命令を無視された久光の立腹を、西郷に告げることが目的であったという風に言われています。確かにそのことも目的の一つであったでしょうが、大久保が先発を申し出た真の理由とは、これまで書いてきたとおり、倒幕についての西郷の考え方を確認するためであったと私は解釈しています。
 先程、積極・消極という言葉を使い、二人の倒幕についての考え方の相違を表現しましたが、それは、大久保の倒幕は「久光あっての倒幕」であり、西郷のはそうではなかったという意味においてです。大久保は久光に見出されて、現在の地位にまでのぼり詰めた人物です。大久保は、大目的を達するためには権力、つまり久光の力は絶対欠かせないと考えを持っていました。これは彼のその後の行動を見ると顕著に出てきます。つまり、大久保は、久光の機嫌を損なってまで、一大決心(つまり倒幕への動き)をする覚悟がこの時点では無かったと言えましょう。そういう意味において、大久保は消極的倒幕派ということになるわけです。寺田屋の同志達を土壇場になって大久保が見捨てたのは(見捨てざるを得なかったのは)、このことに一因があると私は考えています。
 このように、二人の微妙な倒幕策についての考え方の違い、つまり温度差が後の悲劇を生み出す結果の一因となったと私は考えています。

 さて、話を大久保の日記に戻しましょう。
 大久保は、倒幕について、西郷と大久保の間に考え方の相違があると判断したため、西郷の後を追ってきたのですが、大久保が日記の中に「別して大機会にござ候」と書いたことは、大久保自身が、西郷から京・大坂の情勢を聞き、この感じならば倒幕に持っていけると判断した結果だったと思います。つまり、西郷と大久保の間の温度差が二人の再会と話し合いにより、この時点ではなくなったと言えましょう。
 しかし、この大久保の決心は、後に久光が西郷に対して激怒したことにより、がらっと変わってしまいます。大久保は、こういう状況の変化に非常に敏感であり、いち早く自分の考え方を切り替えることが出来る能力を持っています。こういう点に、彼の天性の政治家としての資質の一端が見えているのかもしれません。
 伏見で西郷と話し合い、倒幕に向けて一大決心をした大久保は、その後、余程気分を良くしたのか、久光の行列に戻るための帰路、のん気に近くの男山八幡宮に参詣しています。普段は冷静な大久保自身も、この時ばかりは「よしやるぞ!」という気合いで一杯だったのかもしれません。
 しかしながら、このような西郷・大久保の一大決心をよそに、久光周辺はのっぴきならぬ不穏な情勢に変わっていたのです。西郷の災難はすぐ目の前に迫ろうとしていました。


(8)に続く



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