(テーマ随筆特別版)

「幕末のキーパーソン・薩摩藩編」

 先日、ふと何故だか分からないのですが、「幕末のキーパーソンって誰だろう?」と考えたことがありました。
 幕末といっても、幕府や薩摩、長州、土佐、会津等、色々な藩出身の人物や在野の人々がキラ星の如く現れた時代ですから、その中で一人のキーパーソンを挙げるとなると非常に難しいと思います。
 それならば、取りあえず最初は幕府を倒した側で考えてみようと思い立ち、夏季特別版の「テーマ随筆」として書くことにしました。

 よく幕府を倒した側の勢力を表現する時、「薩長土肥(さっちょうどひ)」という言葉を使いますよね。まあ、肥前鍋島藩というのは、戊辰戦争に入ってからちょこちょこっと顔を出した程度の藩なので、キーパーソンと呼べるような人物はいないでしょう。なので、今回は薩長土で考えることにしてみました。
 薩長土の中から、今回は「薩摩藩における幕末におけるキーパーソンは誰か?」というのを考えてみたいと思います。
 幕末の歴史が好きな方々には、自分なりのご意見が当然あると思いますが、皆さんは誰だと感じていますでしょうか?
 私は、薩摩藩のキーパーソンは、何と言っても薩摩藩第28代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)以外にいないとそう思っています。理由は結構複雑なのですが、一応簡単にその理由を書いてみたいと思います。

(写真)島津斉彬銅像
島津斉彬銅像(鹿児島市)
(薩摩藩と幕府の関係)
 歴史関係の本や雑誌の中に、よくこういうニュアンスの書き方をしたものが多いと思いませんか?

「明治維新において幕府を倒した藩は、関ヶ原の合戦で敗れた側が中心になっており、反幕府の精神が横溢であった薩摩藩や長州藩が、関ヶ原の恨みを幕末になって晴らした」

 私はこういった表現は、「半分は合っていて、半分は間違っているんじゃないか?」とそう思っています。
 確かに、薩摩も長州も、関ヶ原の合戦では石田三成率いる西軍方につき、敗戦側となった藩です。
 しかし、皆さんもご存知かもしれませんが、薩摩藩は関ヶ原で負けたからといって、徳川家から領地を一合も削られていないのです。薩摩藩が領地を削られなかったのは、ひとえに島津家の巧みな外交政策の結果です。
 反対に、外交に失敗し、領地を大きく(およそ4分の1)削られたのは長州藩であって、長州藩が幕府を恨みに思い、アンチ徳川・アンチ幕府の感情が芽生えたというのはよく分かりますし、当然のことだと思います。長州藩は領地を減封されたばかりではなく、その城下町も日本海側の寂しい片田舎の萩に移され、長州藩士は塗炭の苦しみを味わうことになったのですから。その中には武士では食っていけず、帰農するものもたくさんいたと伝えられています。
 私は、こういった長州藩の特殊事情が、後年一般庶民から徴募された奇兵隊が、最強の部隊として活躍出来た要因になっていると思うのですが、そのことはテーマがそれますので、またの機会に書きたいと思っています。

 以上簡単ですが、このような理由から、長州藩にはアンチ幕府という感情が強く植え付けられたのも当然なのですが、薩摩藩は長州藩のように、こういった苦しみを味わってはいませんので、薩摩藩には特に幕府を恨む理由など無いに等しかったように感じています。
 余談になりますが、現在放映中のNHKの大河ドラマ『葵・徳川三代』をご覧になられている方は、覚えておられると思いますが、「関ヶ原の合戦」にしても、元々島津家は、家康から伏見城に入城して城を守備してくれるよう頼まれていたのです。つまり、島津家は元々徳川方だったのです。それがひょんな行き違いで、薩摩藩は伏見城に入城することが出来ず、結局石田方に付く結果となったのです。なので、関ヶ原においても、島津家は積極果敢には戦闘していません。戦いの最後の最後になって、ようやく動いただけなのです。
 少し話がそれましたが、薩摩藩は幕府を恨んでいたと書いてある本が少なくないのですが、このように薩摩藩にはそれほど根強い反幕府感情はなかったと私は思います。それどころか、薩摩藩は幕府に対し、非常に友好的な態度を取っています。
 例えば、薩摩藩第25代藩主の島津重豪(しまづしげひで)は、幕府と親密な関係になるべく、自分の娘を将軍の妻にしていますし、薩摩藩はその他色々と幕府との関係を良くするための努力を行っています。
 これは薩摩藩に限らず、どの藩にしても当然だと思います。なぜならば、当時の幕府は絶対権力であったという事実を忘れてはなりません。幕府の力が急激に弱まったのは、恐慌的な武断政治をとった井伊直弼が、桜田門で斬られて以降のことなのです。それまでの幕府権力というものは、我々が考える以上に強大であったと言えましょう。そのため、薩摩藩のように、特に恨む理由も無いのに、反幕府の態度をわざわざ取る必要がないのです。

 「チェスト関ヶ原」という言葉が薩摩に残っているのを皆様はご存知でしょうか?
 この言葉も薩摩藩における反幕府に対する「合い言葉」のように捉われがちですが、これはそういう意味で使われていたのではないと私は考えています。
 つまり、「関ヶ原で幕府に負けたので、幕府に対して良い感情を抱くな」という意味ではなく、ただ純粋に「関ヶ原での敗戦を忘れるな」、「あの時、あの戦に負けた屈辱を忘れるな」という、何より強いものが好きで、負けることが大嫌いな薩摩人が、戦に負けた屈辱を忘れないための意味を込めて表現している言葉であって、別に反幕府の合い言葉で使われたのではないと私は認識しています。勇ましい薩摩隼人が、戦に負けた屈辱を生涯忘れないための標語のようなものと言えるかもしれません。
 しかし、これまで書いてきたとおり、いかに薩摩藩が幕府に対し友好的な態度を取っていたとしても、幕府がそれを額面どおりうのみにしていなかったのは事実です。幕府は開幕当時から、薩摩藩のことを非常に警戒しています。
 このように、幕府内部が当初から薩摩警戒態勢を取っていたので、それが後々に薩長が幕府を倒した後、逆の意味としても捉えられ、薩摩も反幕府感情をずっと抱いていた、という風にも解釈されるようになったのではないか、と私は思っています。

(島津斉彬について)
 さて、今まで薩摩藩と幕府の関係について書いてきましたが、ここでやっとキーパーソンの話に戻ります。
 私が薩摩藩のキーパーソンを島津斉彬だと考えたのは、先程から長々と述べた薩摩藩の幕府に対する感情に絡んでくるからです。つまり、薩摩藩として、幕府に対しそれほどのアンチ感情が無かったことを前提に考えると、斉彬という人物が藩主に就かなければ、薩摩藩として、あれだけ幕末の国政に関与していなかったのではないかと考えられるからです。

 誤解されるといけないので補足しますが、斉彬自身がアンチ幕府の感情を持っていたから、国政に関与したと言っているのでは当然ありません。斉彬にはそんな考えは微塵もありません。斉彬という人物は、幕府を開くとか、将軍になるなんていう考えは毛頭無かった人です。
 斉彬の目的はただ一つ、諸外国の外圧が迫る日本をどう一つにまとめあげていくか、ということなのです。斉彬という人物は、幕府とか藩とか、そういった小さな範囲で物事を考えていないのです。
 私は斉彬という人は、日本いや東洋における一大巨人だと思っています。その斉彬という人物が薩摩藩に出なければ、アンチ幕府の感情をさほど持たない薩摩藩は、藩として、幕末のあの時期にあれだけの活躍が出来ただろうかと疑問に思うのです。

 例えば、斉彬の父の斉興は、物凄く保守的な人物ですので、激動の時代と言えども、おそらく国政なんかには参加する気は毛頭なかったでしょう。それは、斉彬の死後、斉興が薩摩藩内に行った施策を見ても明らかなことです。
 また、斉彬の義母弟の久光も、非常に保守色が濃厚ですし、反幕府の感情などさらさら持っていませんでした。久光が国政に乗り出してきたのは、兄の斉彬の影響が非常に大きいと言えます。
 慶応年間の煮詰まった時期において、薩摩藩内で倒幕に踏み切るか否かで、藩内の保守派と西郷・大久保らの倒幕派が大論戦を繰り広げて、藩内が大もめにもめています。このことから考えても、先程から書いてきた薩摩藩内にはそれほどの根強いアンチ幕府感情なんていうものは無かったと思われるのです。

 しかし、それに反して、薩摩藩が幕府を倒す原動力となったのは、薩摩に斉彬という人物が出て、志ある薩摩藩内の人物を斉彬自身が直接や間接的に教育し、時勢に目覚めさせたからだと思います。斉彬は、特に人材の育成に力を入れた人物でしたので、後年、薩摩藩にキラ星の如く逸材が登場したのは、ひとえに彼の尽力の賜物であると考えられてなりません。西郷隆盛しかり、大久保利通しかりです。斉彬は薩摩藩の土台作りをした人物だと思っています。
 もし、斉彬という存在がなければ、薩摩藩は加賀百万石の前田家のように、幕末にまったく動かない存在になっていたかもしれませんし、水戸藩のように内部抗争を繰り広げ、明治維新には人物がいない状態になったやもしれません。

 島津斉彬。

 私は彼こそが、幕末の薩摩藩のキーパーソンに相応しい人物であると思います。


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