西郷隆盛と藤田東湖

-忘れられぬ師との出会い-





(写真)東湖誕生地
藤田東湖誕生之地(茨城県水戸市)
 水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の側近を務め、その懐刀として活躍したのが、藤田東湖(ふじたとうこ)です。
 藤田東湖は、文化3(1806)年3月16日に水戸で生れました。
 幼少の頃より、東湖は父であり水戸家の儒臣であった藤田幽谷(ふじたゆうこく)からの薫陶を受けて育ち、学問に精進し、次第に藩内で頭角を現しました。
 文政12(1829)年に水戸藩第8代藩主・徳川斉脩(とくがわなりのぶ)の継嗣問題が生じた際には、東湖は斉昭(当時敬三郎)を擁立する一派の中心人物として活躍し、斉昭の第9代藩主への襲封を成功させました。
 その後、東湖は藩主に就任した斉昭の側近として登用され、水戸藩の天保改革の中心人物として藩政改革を推進するなど、その政治手腕は他藩にも聞こえるようになり、彼の名声は一段と高いものとなったのです。
 嘉永6(1853)年、斉昭が幕政海防参与に任ぜられた時には、東湖も幕府から海防御用掛に任ぜられ、攘夷の政策立案に携わり、水戸一藩だけではなく、日本の政治に参与することとなったのです。
 このようなことから、東湖は同じく斉昭の側近・戸田蓬軒(とだほうけん)と共に、「水戸の両田」と並び称せられ、全国の藩士・志士達から絶大な信頼と輿望を一身に集めました。各藩の志ある若者は、江戸に来た際には必ずと言って良いほど、東湖の元を訪れ、その薫陶を受けたのです。
 そして、薩摩藩の西郷隆盛もまた、その例外ではありませんでした。

 西郷が初めて東湖の元を訪れたのは、安政元(1854)年4月10日のことです。
 西郷は友人であり、同志であった薩摩藩士・樺山三円(かばやまさんえん)と共に東湖の元を訪れました。樺山は嘉永5(1852)年に茶道方として江戸詰を命ぜられ、西郷よりも一足先に江戸薩摩藩邸に勤務していました。
 西郷も遅れること安政元(1854)年3月、ようやく江戸藩邸に勤務することになり、樺山から東湖が一大人物であることを聞いた西郷は、是非一度会いたいと思うようになっていました。また、樺山自身も西郷を東湖に引き合わせたいと考えていたため、この運びとなったのです。
 当時、東湖の住まいがあった小石川の水戸藩邸は、現在の東京都の後楽園の位置にあり、西郷と樺山は連れ立ってそこに向かいました。
 東湖と初めて対面した西郷は、東湖の学識、胆力、そして人柄や態度に大きな感銘を受けました。
 安政元(1854)年7月29日付けで、母方の叔父である椎原与右衛門と椎原権兵衛に宛てた手紙の中で、西郷は東湖の印象を次のように書いています。


「彼の宅へ差し越し申し候と清水に浴し候塩梅(あんばい)にて、心中一点の雲霞なく、唯情浄なる心に相成り、帰路を忘れ候次第に御座候」(情は、清の誤記であると思われる)
(『西郷隆盛全集 第一巻』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「先生(東湖)のお宅を伺った時は、まるで清水を浴びたような気持ちになり、心中一点の雲霞もなく、ただ清浄な気持ちとなり、帰り路まで忘れてしまうほどです」



 西郷の書いたこの手紙の文面からは、西郷が東湖に大きな感銘を受けた様子が溢れんばかりに出ています。
 また、この手紙の中には、次のようにも書かれています。


「自画自讃にて人には申さず候得共、東湖も心に悪(にく)まれ候向きにては御座なく、毎(いつ)も丈夫と呼ばれ、過分の至りに御座候」

(現代語訳 by tsubu)
「自画自讃のようで、他人には申せないことですが、東湖先生も私を憎まれている様子はまったくなく、いつも丈夫と呼んで下さり、過分の待遇を受けてます」



 まさに筆が踊るような感じと言えるのではないでしょうか。
 私にはこの文面を書いている時の西郷の嬉しそうな表情が目に浮かんでくるような気がします。

 このように、初対面以来、東湖に対する西郷の傾倒ぶりは日増しに高くなっていきました。
 また、西郷は東湖の家に出入りするようになってから、戸田蓬軒、桜任蔵(さくらじんぞう)、原田八兵衛(はらだはちべえ)といった水戸の名士と呼ばれた人々と盛んに交流することになり、このことは西郷自身の自己啓発になったばかりでなく、若き日の西郷の人物形成に多大な影響を与えることになったのです。
 しかしながら、このような西郷と東湖の交流は、ある大きな事件のために、長く続くことはありませんでした。

 安政2(1855)年10月2日、江戸にマグニチュード7とも伝えられる大地震が起こりました。

 
「安政の大地震」です。

 東湖は、小石川の水戸藩邸内の自宅でこの大地震に見舞われました。
 東湖自身は何とか危機を脱し、屋敷の庭へと逃れることが出来たのですが、屋敷内に取り残された母親を救出するため、屋敷内に立ち戻ったところ、頭上に大きな梁(はり)が落下し、東湖は母をかばって自らが梁の下敷きとなりました。東湖は残っている全ての力をふりしぼり、体全身で大きな梁を受け止め、母を脱出させた後、ついに力尽きて圧死したのです。
 この東湖の無残な死に方は、西郷に大きな衝撃を与えました。西郷はこの地震の二日後の10月4日付けで、当時鹿児島に戻っていた樺山三円に対し、次のような手紙を書き送っています。


「扨(さて)去る二日の大地震には、誠に天下の大変にて、水戸の両田もゆい打に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。頓と此の限りにて何も申す口は御座なく候。御遙察下さるべく候」

(現代語訳 by tsubu)
「去る二日の大地震は誠に天下の大変で、水戸の両田(この地震で、戸田蓬軒も圧死した)も揺り打ち(地震)に逢われた。何と申してよいか言葉もありません。とんとこれきり、何も話す気になれません。私の気持ちを察して下さい」



 悲しみに打ちひしがれている西郷の様子が痛いほど分かるような手紙です。
 西郷は後年東湖のことを次のように語っています。

「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内、ともにわしの最も尊敬した人である」

 東湖の死後、西郷はその志を受け継ぎ、将軍継嗣問題や水戸藩への密勅降下等、縦横無尽の活躍をすることになります。
 一方、東湖を亡くした水戸藩は、歴史が示している通り、藩内で内部抗争を繰り返し、血の粛清が吹き荒れ、維新を迎えた頃には、ほとんど有為な人材が残っていないかったのです。
 この水戸藩の末路を見ても、東湖の死はその後の水戸藩の歴史を運命付けたとも言えましょう。




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