薩英戦争本陣・千眼寺跡(鹿児島市)



第七話「スイカ売り決死隊 −薩英戦争の一場面−」
 文久3(1863)年6月27日、七隻のイギリス艦隊が鹿児島の錦江湾に姿を現しました。

 世に言う「薩英戦争」の始まりです。

 前年文久2(1862)年8月21日、横浜近郊の生麦村において、日本の大名行列の習慣を知らなかったイギリス人商人のリチャードソン他三名の一行が、薩摩藩主の実父であった島津久光の行列に馬を乗り入れたため、随行していた薩摩藩士によって無礼打ちに合い、殺傷される事件が起こりました。

 この外国人殺傷事件が「生麦事件」と言われるものです。

 イギリス側は、この生麦事件の謝罪と賠償金の支払いを要求するため、艦隊を率いて鹿児島にやって来ました。
 軍艦に搭乗していたイギリスの代理公使・ニールは、生麦事件でリチャードソンを殺害した下手人の死刑と二万五千ポンドの賠償金を要求する国書を薩摩藩に対し突きつけました。イギリス側は、軍艦七隻という大艦隊を率いて威圧すれば、薩摩藩が簡単に屈服すると考えていたのです。これまでの幕府の弱腰外交を見ていたイギリス人にとっては、日本人というものは威圧すれば必ず屈服するものと考えていたからかもしれません。

 しかしながら、そんなイギリス側の思惑に反して、薩摩藩側では既に臨戦態勢が整えられていました。
 薩摩藩はイギリス側の要求に対し、「是非上陸して頂いて、諸々の交渉を行ないたい」と返答しました。薩摩藩は、代理公使・ニール以下重役連中が上陸したところを捕らえて、人質に取ろうという考えだったのです。
 しかし、イギリス側もその薩摩藩の誘いを警戒し、上陸することを拒否しました。
 薩摩藩主・島津忠義の実父であり、実質的な藩の権力者であった島津久光は、このイギリスとのやり取りに業を煮やし、居室の庭前に奈良原喜左衛門、海江田武次の二人の藩士を呼び出し、次のように言いました。


「おはんら、藩内から決死の勇士達を選抜し、エゲレスの将卒を皆殺しにして、七隻の軍艦を奪い、我が薩摩の武威を天下に示せ。そん計略は、おはんらに全て任せる」


 奈良原も海江田も、勇猛剽悍な典型的な薩摩隼人です。二人は久光から直々に命令を受けたことに感激し、喜び勇んで軍艦強奪のための決死隊の編成に取りかかりました。すると、たちまち81名の藩士が、決死隊への参加に名乗りを上げたのです。
 二人は決死隊を結成後、具体的な手はずを整え始めました。
 まず、81名の決死隊を各々八艘の小舟に約10名ずつ分乗させることにしました。八艘の小舟の内の一艘には、イギリスへの国書に対する藩の答書を持った使節団を編成することにしました。もちろん、これは偽装です。藩士・町田六郎左衛門の容姿が非常に立派で、身分の高い者に見えるというので、彼を藩主の一門として偽称させ、使者に変装させたのです。
 また、他の七艘に乗る藩士達は、それぞれ帯びている刀を外し、短い着物と袴を着て、いかにも百姓や商人という装いに変装することにしました。
 時あたかも新暦に直すとは八月中旬の暑い盛り。商売人の一団に扮した七艘の小舟には、季節のスイカや野菜、果物などをたくさん積み込んで、イギリス艦隊への贈答品を運んでいる商船として偽装することにしたのです。
 そして、計画は次のように決まりました。
 まず、偽装使節団が軍艦に乗り込み、イギリス側と談判している間に、偽装商売人の一団が、それぞれ担当の軍艦内にスイカなどの物資を運び込みます。そうして、軍艦に乗り込んだ後、陸からの一発の大砲の音を合図に、船内のイギリス人に斬り込みをかけ、軍艦を奪い取るという、まことに恐れ知らずな破天荒な計画でした。

 彼らは、まさに「スイカ売り決死隊」だったのです。

 こうして準備は万端に整い、文久3(1863)年6月29日、午後三時過ぎ。
 スイカ売り決死隊の一行は、各々海に漕ぎ出して、湾内に停泊するイギリス艦隊へと向かいました。
 まず、偽装使節団の一団とスイカを載せた一艘の小舟がイギリスの旗艦船ユライアラス号へと近づき、「おーい、おーい」と呼びかけると、一人の年少の通訳が甲板上から姿を現しました。
 彼の名はシーボルト。そう、長崎で蘭学塾を開いていたあのシーボルトの息子であったのです。
 シーボルトは流暢な日本語で「何の用ですか?」と彼らに尋ねました。
 偽装使節団一行は、「我が藩の答書を持って来もした。軍艦に上げてたもはんか?」と言い返すと、シーボルトは「では、答書を持っている一人だけ上がって来なさい」と答えました。
 この返答に薩摩側は「しめた!」とばかりに喜び、まずは一人が甲板に登りました。
 シーボルトが「あなたが答書を持っている人ですか?」と尋ねると、最初に乗り込んだ藩士は、

「うんにゃ、おいは持っちょりもはん。(いいえ、私は持っていません)」

 と答えるではありませんか。
 すると、また一人甲板に登って来たので、シーボルトが同じように尋ねると、その藩士も、またもや、

「おいではごわはん。(私ではない)」

 と答えたのです。
 そして、次に登って来た藩士も、

「おいじゃなかど!(私は違います)」

 と答えました。
 薩摩藩側はわざとこういうやり方をして、軍艦内に藩士を乗り込ませようとしたのです。
 しかし、こういったやり方を二、三回続けると、シーボルトはさすがにそのズルイやり方に立腹しました。

「私は答書を持っている人のみ上がってよろしいと言ったのに、これは一体どういうことですか!!!」

 さて、こんな滑稽なやり取りがユライアラス号で行なわれている間、他の六艘の商売人に変装した集団も、各々他の軍艦の下から大きな声で、

「スイカ、いやはんか?(いりませんか?)」

 と叫んで、何とか軍艦に乗り込もうと企んでいたのですが、当時の薩摩弁がイギリス士官に通じるはずがありません。
 イギリス仕官は、「What?」と言うばかりで、彼らをまったく相手にしないのです。
 しかし、軍艦に乗り込めなければこの計画は先に進めませんので、商売人に変装した藩士達は、それでもくじけず、各々スイカを高々と掲げて、

「うんまっか、スイカごわんど!(美味しいスイカですよ!)」

 とばかりに身振り手真似でそれを表現したのですが、イギリス士官は、「ノーサンキュー」と手振りで示すだけで、まったくラチが開かないのです。

 一方、ユライアラス号でも、使者に扮した町田六郎左衛門と交渉役の江夏喜蔵、号砲が鳴ると同時にイギリス側の重役連中を斬る役目を命ぜられていた志岐藤九郎の三人が、藩の答書を代理公使のニールに手渡し、談判を繰り広げていました。
 三人は、談判中もずっと陸からの斬り込みの合図の号砲が鳴るのを、今か今かと待ちわびていたのですが、一向に大砲が鳴る気配がありません。彼らはそれでも頑張って時間伸ばしを続けていたのですが、突然、陸から一艘の小舟が旗を振りながらユライアラス号に近づいて来て、


「計画は中止ごわす。一先ず引き上げよっち、君命ごわす!」


 と叫ぶではありませんか!
 慌てたのは三人です!
 突然の計画中止の知らせにあたふたと慌てふためき、三人は取るものも取りあえず、そそくさとユライアラス号から退去しようとしたのですが、あろうことか、先程イギリス側に渡していた藩の答書までも、間違って持って帰ってしまったのです。
 彼ら三人の狼狽ぶりが目に浮かぶようです。
 また、一方のスイカ売り組も、突然の中止命令に驚き、慌てて舟を陸へと漕ぎ戻したのです。

 こうして、薩摩藩の破天荒な軍艦奪取作戦は、ものの見事に失敗に終わりました。
 戦争とは、悲惨極まりない悲劇話を伴うものですが、この薩英戦争における「スイカ売り決死隊作戦」は、悲劇の中の一つの笑い話として、今でも語り継がれているのです。


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