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「盛岡さんさ踊り」の様子(岩手県盛岡市) |
(幕末・維新の町を行く「番外編2」−2002年夏・東北旅行歴史話!−)
<ラインアップ>
(東北旅行の歴史話@−盛岡さんさ踊り−)
(東北旅行の歴史話A−会津若松・清水屋旅館(松蔭と土方が泊まった宿)−)
(東北旅行の歴史話B−米沢散策と謙信ゆかりの「毘」と「龍」の旗−)
(東北旅行の歴史話@ −盛岡さんさ踊り−)
毎年夏の八月に行なわれている盛岡の『さんさ踊り』というお祭りをご存知でしょうか?
実のところを言うと、私自身もこんなお祭りが盛岡で毎年開かれているということを、東北旅行に出かけるまではまったく知りませんでした。現地の盛岡に着いて、初めてそんなお祭りがあることを知ったくらいなのです(恥)。
『さんさ踊り』は、毎年8月の1、2、3日に行なわれている盛岡の一大祭りで、私が盛岡に着いた日が、ちょうど八月一日でした。
今から思えば、本当にラッキーでした。偶然にもこんな楽しいお祭りを見ることが出来たのですから。
それでは、盛岡市が発行しているガイドブックを参考にしながら、『さんさ踊り』の歴史について少し書いてみたいと思います。
さんさ踊りの起源というのは、実は非常に古いものです。さんさ踊りは、盛岡市の北山にある東顕寺に伝わる「三ッ石伝説」というものに由来しています。三ッ石伝説とは次のような伝説です。
その昔、岩手山という火山が大噴火した際に、火口から三つに割れて飛んで来た岩石がありました。民衆はその三つの岩石を「火の中から飛んで来た、ありがたい石じゃ」と非常にありがたがって、その三つの岩石を神として崇めるようになりました。
その頃、その付近には「羅刹(らせつ)」という鬼が現れており、里に出没しては悪さをし、人々を散々に苦しめていました。そのため、その鬼の乱暴に困った人々は、その鬼の退治を火山から降ってきた三つの石の神に祈願したのです。
すると、その三つの石の神様は、人々の願いを聞き入れて、その鬼を懲らしめ、二度とこの里には来ないことを鬼に誓わせ、その証として、三つの岩石に鬼の手形を押させ、鬼を退散させたのです。
鬼の退散に喜んだ人々は、その三つの石を囲んで、「さんさ、さんさ」と歌いながら踊ったのが、実は『さんさ踊り』の起源だと伝えられています。
「さんさ」という言葉は、私も余り詳しくはないのですが、昔から使われている囃子言葉のようですね。例えば、宮城県にも有名な「さんさしぐれ」と呼ばれる、お祝いの時に歌われる歌があります。
「さんさしぐれか 茅野の雨か 音もせできて 濡れかかる」
この歌は伊達政宗が会津攻略を果たした際に作ったものと伝えられていますが、宮城県では結婚式などのお祝い時には必ずと言って良いほど歌われる民謡だそうです。
盛岡の「三ッ石伝説」に戻ります。実はこの三ッ石伝説には、二つの言葉の語源が含まれています。
「二度とこの里には来ない」
と神が鬼に誓わせたと先程書きましたが、これは盛岡の別名でもある「不来方(こずかた)」という言葉の語源となっているのです。この「不来方」という言葉については、有名な歌人である石川啄木も次のような歌を残していますね。
「不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」
(石川啄木『一握の砂』より)
啄木は岩手県の出身で、盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に通っていました。若き日の啄木は、不来方城(盛岡城)の芝生に寝転んで、澄み切った青い空を見ながら、読書にふけっていたのでしょうね。
次に、もう一つの語源ですが、
「三つの岩石に鬼の手形を押させ」
と、三ッ石伝説を説明する際に書きましたが、このことが「岩手」という地名の語源となっているのです。
つまり、「岩手(岩に鬼の手形)」ということからです。
こう考えると、言葉の語源というのは本当に面白いものですね。歴史を勉強する上での一つの醍醐味と言えるかもしれません。
さて、前置きが思いっきり長くなってしまいましたが(笑)、この「さんさ踊り」を2002年8月1日(木)に見てきましたが、素晴らしい踊りで大感動でした(^^)
この年で25周年を迎えた「さんさ踊り」は、5000を越える太鼓や700の横笛が使われ、そして三日間で老若男女を問わず、約三万人もの人々が踊る大きなお祭りです。
「サッコラー、チョイワヤッセー」
という大きな掛け声を元に踊る姿は、ほんとうに勇壮で華麗です。
また、何と言っても、女性の踊る姿が非常にカワイイ!
盛岡の女性に恋してしまいそうになるくらいです(笑)。
冗談はさて置き、それくらいに思うほど、盛岡の女性が踊る「さんさ踊り」は魅力的なものでした。当日は小雨がそぼ降るあいにくの天気でしたが、私は時間を忘れて、路上で食い入るように踊りを見て、そして大きな感動を受けました。
また、各日とも、祭りの最後には、一般の方々も「さんさ踊り」を踊れる「輪踊り」というのが催されています。
さんさ踊りは、岩手県庁前の中央通りをパレード形式で、参加団体が踊って進む形となっているのですが、パレードが終わると、一般の人達を交えて、輪になって「さんさ踊り」を踊るのです。何ともほのぼのとしていて、良いお祭りでした。
私はこの旅で初めて「さんさ踊り」を知り、一度見ただけで、そのトリコになってしまいました。
盛岡に行くなら、「さんさ踊り」が行なわれる8月1,2,3日が絶対にオススメです!
(盛岡商工会議所「さんさ踊り」のWebサイトはこちら↓)
http://www.ccimorioka.or.jp/sansa/
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(東北旅行の歴史話A −会津若松・清水屋旅館(松蔭と土方が泊まった宿)−)
少し時間が遡りますが、2002年の夏の東北旅行で私が最初に目指した土地は、福島県会津若松市です。
大阪から長距離夜行バス「ギャラクシー号」に乗って約11時間。まずは福島県の郡山駅に着いた私は、そこから会津行きのバスに乗り換え約1時間、会津若松へと到着しました。
私が会津を訪れるのは7年ぶりのことだったのですが、結構、町並みが変わっていましたね。昔は「ロッテリア」だった場所が、「マクドナルド」に変わっていたりしてました(笑)。
と、まあそんな話はさて置きまして、会津ではレンタルサイクルを借りて、城下町を隅から隅まで周ってきました。現在の会津は、明治初年の戊辰戦争の影響で、会津藩政当時の姿を残している場所や建物は非常に少ないのですが、会津市内を散策している時、少し面白い史跡を見つけたので、今回はそれをご紹介したいと思います。
会津若松には、「七日町通り」と呼ばれる旧街道があります。七日町通りは、毎月七日に「市」が立ったところからその名が付いたのですが、会津藩政時代には、日光・越後・米沢の三つの街道が通り、旅籠や料理屋など様々な商店が軒を連ね、会津一の賑わいをみせていたところでした。
現在では、会津若松市はこの「七日町通り」を文化の発信地として位置付け、民芸品やお土産物を販売する昔ながらの商店を再現した店が立ち並び、往時の雰囲気を醸し出しています。
この「七日町通り」に、藩政時代一軒の旅籠がありました。その名を「清水屋」と言います。
実はこの「清水屋」は、幕末・維新史に非常に縁が深い旅館なのです。
嘉永4(1851)年12月、長州藩士・吉田松陰は、脱藩して東北各藩を歴訪する旅に出かけました。松陰がなぜ脱藩をしてまで東北を旅行しなければならなかったのかを書くと、おそらく本題までなかなか辿りつけそうにありませんので、ここではそのことは端折らせて頂きます。
脱藩し東北に旅に出た松陰は、嘉永5(1852)年1月、会津若松城下にやって来ました。その際に松陰が泊まった宿が、この七日町通りにあった「清水屋」だったのです。
松陰はこの時約10日間に渡って会津若松に滞在し、その後、青森、仙台、盛岡などをまわった後、3月にまた会津若松に戻ってきています。松陰の会津での行動については詳しく書きませんが、松陰は当時の会津藩に非常に惹かれるものがあったようですね。
さて、時は少し流れて、松陰が清水屋を訪れた16年後の慶応4(1868)年4月、一人の負傷兵が清水屋に運び込まれてきました。
その人物とは、元新撰組の副長であった土方歳三その人です。土方は戊辰戦争において旧幕府軍の一員として参戦し、宇都宮城下の戦いで足を負傷したため、会津若松城下にやって来ました。土方は清水屋に入ると、そこから城下郊外の東山温泉などに行って、足の傷を癒していたようですね。
土方が最初に運び込まれた旅館が、松陰が泊まったことのある清水屋だったというのは、非常に興味深い偶然だと思います。また、この清水屋旅館は、明治に入ってからも、ある歴史的事件に関係する舞台にもなっています。
福島県は、「福島事件」が起こるなど、自由民権運動の盛んな土地だったのですが、その民権運動を推進する人物で、福島県喜多方市出身の宇田成一という人がいました。宇田は、福島県令であった三島通庸(←ちなみに薩摩人です・苦笑)が推し進めた「会津三方道路建設計画」の反対運動を支援するために、会津若松に入り、清水屋に宿泊したのですが、その時、政府の息がかかった帝政党員が、清水屋にいた宇田ら自由民権運動家を襲撃し、多数の負傷者が出ました。
これが福島の自由民権運動の中でも有名な「清水屋事件」と呼ばれるものです。
このように「清水屋」という旅館は、幕末・明治の歴史上の表舞台に登場する由緒ある旅館だったのですが、現在では往時を偲べるような建物は既に無く、旅館は昭和初期に取り壊されてしまったそうです。
現在は、「清水屋」の跡地に大東銀行会津支店が建っており、そこが清水屋旅館であったことを示す案内板が一つ建てられています。
昔の風情を色濃く残す「七日町通り」と「清水屋旅館」。
時間をかけて散策し、往時を偲んでみるのも、会津旅行の一つの醍醐味かもしれませんね。
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(東北旅行の歴史話B −米沢散策と謙信ゆかりの「毘」と「龍」の旗−)
2002年夏の東北旅行の最終日は、山形県米沢市を散策してきました。
米沢と言えば、上杉家15万石の城下町で、私は以前から一度行ってみたい土地の一つでした。上杉謙信の書状や直江兼続の「愛」の一字を飾った兜、上杉鷹山の治世関係の史料などなど、見たいものがたくさんあったからです。
2002年の夏、私はようやくその念願が叶って、米沢を訪れることが出来ました。
私は山形市内のホテルに宿泊していたので、山形駅からJRを利用して米沢に向かいました。山形から米沢までは、普通電車で約45分の道のりです。
米沢に着いた私は、まずは駅前でレンタルサイクルを借りることに。自転車は私の旅の友なんですよね。
少し話はそれますが、東北に旅行に来られている方は、関東方面から車で来られている方が非常に多いですね。駐車場で車のナンバーを見てみると、関東方面の車が多かったです。また、米沢でも自転車を使って周っている人は、ほんと少なかったですし、関西弁なんて、ほとんど聞こえませんでしたよ(笑)。
さて、自転車に乗り換えた私は、まずは米沢城跡へ! と行きたかったのですが、お腹が減っていたので、まずはお昼ご飯を食べに行きました(笑)。(このグルメ話は、「番外編1」でお楽しみ下さい)
お昼を食べ終わった後、ようやく米沢城跡へ!
米沢城跡の入口の前には、2001年の秋にオープンしたばかりの『米沢市立上杉博物館』が建っています。この博物館に行くことも今回の米沢の旅のメインの一つだったのですが……、内部を見学して、かなりがっかりしてしまいました。どちらかと言うと、ビジュアルばかりを重視した、歴史ファンには物足らないと思える博物館です……。
と、言いますのは、私が博物館内に居た時、ある親子連れが展示物を見ながら、こんな会話をしていたのです。
「お父さん、謙信には子供がいなかったんでしょ? じゃあ、謙信の跡を継いだ上杉景勝って、誰の子供なの?」
確かに素朴な疑問ですよね。尋ねた子供は中学生くらいの子でした。
そう尋ねられたお父さんは、博物館の中をうろついて、色々と調べようとしたのですが、しかし……、この上杉博物館には「上杉家の系図」がどこにも展示されていなかったのです!
そんな博物館ってありますか? 信じられない話です。
普通の博物館や資料館には、展示物の最初に系図のパネルはどこにでもあるものです。それがこの上杉博物館には無いのです。私は正直ガッカリしました……。
少し厳しいことを書きますが、上杉博物館は、ただ建物ばかりが新しくてクーラーが効いているだけの不親切な博物館です。(クーラーが効いていたのは大変有り難かったですが・苦笑)
何だか米沢市が激怒してきそうな事ばかりを書きましたが、巨額の税金を投じて作るのであれば、もっと良い博物館を作って欲しいものです。そういう願いを込めて、少し批判させて頂きました。是非これから良い博物館にしていって頂きたいものです。
そうそう、その疑問を持った子供には、私が疑問を解消させてあげました。景勝は謙信の姉の子供なのです。つまり、謙信からいえば甥にあたるわけですね。
さて、話は少しそれましたが、上杉博物館を後にした私は、次に米沢城跡へと向かいました。現在の米沢城跡には、上杉家藩祖の謙信を祭る上杉神社が建てられています。
米沢城跡の堀にかかる石橋の両脇には、白地に黒で「毘」と「龍」の文字を書いた大きな旗が二本風になびいていました。上杉謙信と言えば、毘沙門天を深く信仰し、戦の軍旗に「毘」の文字を使ったことは非常に有名ですよね。
また、謙信は戦に出陣する前には必ず毘沙門堂にこもって戦勝祈願をしたと伝えられていますし、生涯不犯(女性を近づけない)の誓いを立てたことも非常に有名な話です。
私はこの「毘」の旗の前で記念撮影をしました。
そして、次に「龍」の旗ですが、私はここでふと疑問に思ったのです。
「龍の旗って、一体どういう意味をさしているのだろう?」
「毘」の旗の意味は理解していたのですが、「龍」の旗の持つ意味については、恥ずかしながら私は全然理解していませんでした。
しかし、この私の素朴な疑問は、上杉神社の宝物殿である「稽照殿(けいしょうでん)」を見学することで、すぐに解消されました。上杉博物館とは違い、稽照殿には素晴らしい資料の数々が展示されています。冒頭に書いた直江兼続の「愛」の文字を飾った兜、上杉謙信直筆の願文、上杉家伝来の鎧兜の数々など、素晴らしい資料や展示物で一杯です。そして、その展示品の中に、「毘」と「龍」の旗も陳列されていました。
稽照殿に展示されてあった「毘」と「龍」の旗の展示説明文を読むと、「毘」の旗は、謙信の本陣にいつも立てられていた旗だそうです。前述しましたが、毘沙門天を信仰していた謙信らしいものですね。
次に「龍」の旗についてですが、この旗は全軍が総攻撃に転じた際に、本陣に立てられたものだそうで、この旗が掲げられると、上杉軍は総攻撃に入っているという合図だったそうです。つまり、味方に現在の攻撃状況を知らせると共に、勇気を与える旗印でもあったわけです。
後で調べてみますと、この「龍」の旗は、「懸り乱れ龍の旗(かかりみだれりゅうのはた)」と呼ばれるものだそうです。私は勉強不足で知りませんでしたが、謙信が使用した「毘」と「龍」の旗にも、それぞれ大きな意味が込められていたのですね。
こういった素朴な疑問がすぐに解消され、そして知識になるというのは、とっても嬉しい事ですよね(^^)
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