(写真)高杉晋作誕生地
高杉晋作誕生地(山口県萩市)



(幕末・維新の町を行く「山口県萩市」−忘れられた町−)
 昨年(1999年)夏、久しぶりに萩・下関・山口・防府など、長州藩の史跡探訪に出かけました。その旅の中でつくづく感じたのですが、特に萩という町は、ほんとうに良い雰囲気の町ですね。年代は忘れてしまいましたが、幕末期より少し前の時期に作られた萩の城下町絵図が、土産物として萩の町で売られています。現在の萩は、その絵地図を元に史跡散策が出来るほど、城下町の形態は今も変わらず生きているのです。
 私は、よく萩の町を表現する時に、「忘れられた町」という言葉を思い付きます。「忘れられた町」という言葉の響きは、何か悪いように聞こえるかもしれませんが、萩という町は、歴史から忘れられたからこそ、昔の面影を現代に色濃く残すことが出来たのです。

 「関ヶ原の戦い」で石田三成率いる西軍側についた毛利家は、江戸幕府の命により、西国百二十万石以上もあった領土を、その四分の一の三十六万石程度にまで削られ、日本海に面した「萩」という片田舎の町に押し込められました。
 毛利家の本拠地は元々瀬戸内海側の安芸広島にあったのですが、そこを没収されたため、長州藩は新たな城下町を広島から山口に移したいと考えていました。しかし、その要望は幕府に認められず、日本海側の萩に城下を建設せざるを得なくなったのです。
 領地が四分の一になり、不便な萩の地に移住せざるを得なくなった毛利家の家臣団は、塗炭の苦しみを味わいました。そのまま武士の身分としては生活出来ず、農民になったものも数多くいたそうです。
 このように関ヶ原の合戦後、萩に移った毛利家臣団にとって、萩という町は幕府から閉じ込められた場所であるという概念が、その時、脳裏に色濃く残ったのだと私は思います。そして、いつの日か、この萩から出たいという思いが、家臣団の心の中に焼き付けられたような気がしています。

 幕末期、幕府との対立姿勢をはっきりと表明し始めた長州藩は、藩庁を萩から山口に移しました。日本海に面した不便な萩よりも、便利で活動がしやすい山口に移したという理由が第一でしたが、私にはその根本に、萩から出たいという一種の長州人的志向や思いがそうさせたのではないかと考えています。前述のとおり、長州藩士にとっては、萩という土地は幕府から押し込められた場所であるという概念が色濃く残っていたからだと思うからです。
 こうして長州藩の政治の中心舞台は、萩ではなく山口へと移りました。そして、幕府が倒れ、世は明治維新を迎えると、長州藩の主立った人々の大半は、東京へ出仕し、そこに居住するようになりました。この時点において、萩という町は、完全に長州の人々から忘れられた町となったのです。
 しかし、その後、新政府の政治に不満を持った人々は、その忘れられた町・萩へと戻ってきます。
 ただ、これらの人々の大半も、明治9(1876)年の「萩の乱」によって、その命を失いました。そして、萩という町は、もう歴史上の表舞台にあがることも無く、歴史上から消え、長い眠りに入ったのです。

 明治維新から130年以上経った今日、萩の城下町には、その至る所に歴史を物語る建物や史跡の多くが残されています。
 少し町を歩けば、藩政時代に築かれたであろう古い土塀が見られ、武士達が内職の一種として植えた夏みかんの木があちらこちらに点在し、訪れる観光客の目を和ませてくれます。まるで昔にタイムスリップしたような、何とも言えない情緒深い雰囲気が、萩の町に漂っています。これほど保存状態の良い城下町は、日本中に一つも無いと言っても過言ではないでしょう。一度萩を訪れた人々は、もう一度この場所に戻って来たいという衝動にかられるほどです。
 忘れられた町である萩は、今では人々にとって、「忘れられない町・萩」へと変わっているのです。



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