(写真)咸宜園跡
咸宜園跡(大分県日田市)




(幕末・維新の町を行く「大分県日田市」−広瀬淡窓と咸宜園−)
 2002年3月、私は大分県日田市にある「咸宜園(かんぎえん)」跡を訪ねました。
 咸宜園は、広瀬淡窓(ひろせたんそう)が主催した私塾で、その門下生には、「蛮社の獄」で処罰された蘭学者・高野長英を始め、長州藩出身で幕末に活躍した大村益次郎、長崎で写真業を開業したことでも有名な上野彦馬など、たくさんの著名な人物がおり、塾の最盛期には230人もの塾生がこの咸宜園で学び、そして育ちました。

 天明2(1782)年4月11日、広瀬淡窓は幕府の天領であった豊後国日田の町に生まれました。
 幼少の頃から眼病を患うなど非常に病気がちな生活を送っていた淡窓は、家業であった商家を継ぐことを断念せざるを得なくなり、塾を主催することによって生計を立てようと志します。
 この時、淡窓は24歳の若さです。
 淡窓の言葉に、次のようなものがあります。

「人材を教育するのは、善の大なるものなり」

 淡窓は「教育とは人間社会における最大の善行である」という考えを元に、塾を開いて子弟達を教育することを決心したのです。

 淡窓は、その生涯を通じて、この「善」という言葉に非常にこだわりをみせています。
 例えば、淡窓は『万善簿』という、一日が終わった段階で、その日に行った「善行」と「悪行」を帳面に記載する記録を付けています。その日一日に行なった「善行(善い行い)」と「悪行(悪い行い)」を毎日帳面に記載し、月末になると、その帳面につけた「善行の数」から「悪行の数」を差し引いて、月ごとにいくつ善行を行ったのかを集計しました。
 いわゆる『万善簿』とは、善行から悪行を差し引いた、純粋な善行の数が一万回になるのを目指して行われた淡窓独自の業のことであり、淡窓はこのような業を実践することによって、常に己の生活を戒めることを忘れなかったのです。
 また、この善行と悪行の線引き、つまり淡窓が考えた善と悪との基準は、非常に厳しいものです。
 例えば、「怒ること」は悪行、「過食」つまり「食べ過ぎ」も悪行、「妄想する」ことでさえ悪行であり、はたまた「蚊を殺す」というようなことも、悪行として計算されています。
 このように、淡窓が自らに課した『万善簿』の基準とは、現代世界で言うところの「悪」という基準とは、ほど遠いものであったと言えるでしょう。それほど淡窓は、己の生活態度を厳しく戒めていたのです。淡窓はこの「万善」という業を最終的に12年7ヶ月もかかって実践しているのですから、驚嘆せざるを得ません。

 淡窓が塾を開いて12年経った36歳の時、淡窓は塾の名を「咸宜園(かんぎえん)」と改めました。「咸宜」という言葉は、「ことごとくよろし」と読み、そこには三つの意味が込められていると言われています。
 一つ目は、江戸時代当時は「士農工商」という身分制度があり、武士以外の階級には学問を学ぶ機会が恵まれない状況にありました。淡窓はそのことに常に疑問を持っており、「ことごとくよろし」と塾の名を変更したのは、「どんな階級の出身者でも学ぶことが出来る」という意味を込めたと言われています。
 二つ目は、学問というのは決して偏ってはならない、つまり「一つの学問に拘泥して、偏りがあってはいけない。広く様々な学問を学ぶべきである」という意味を、「ことごとくよろし」という言葉に込めたと言われています。この考え方は、朱子学を始めとする、あらゆる学問を修めた淡窓ならではのものであったと言えるでしょう。
 そして、最後の三つ目は、淡窓は塾生の個性を尊重する教育方針を持っていたことから「咸宜」と名を付けたと言われています。このことについては、それを象徴するような淡窓の和歌が残されています。


「鋭きも 鈍きもともに 捨てがたし 錐(きり)と槌(つち)とに 使い分けなば」

(解説)人間には、人それぞれ違った能力がある。頭脳を鋭く早く回転させることが出来る者も居れば、頭の回転が鈍いものも当然いる。しかし、頭の回転の早い者だけが世の役に立ち、頭の回転が鈍い者は役に立たないものであるかと言えば、そうではあるまい。人間には人それぞれに個性があり、違った能力があるものである。その能力にあった使い方をすれば、役に立たないという者など居ないのである。



 この和歌には、淡窓の教育方針が非常によく表れ、淡窓ならではの深みのある言葉だと感じられてなりません。
 淡窓は75歳でこの世を去るまでの52年間もの長き間、子弟達の教育にいそしみ、淡窓の門弟の数は、淡窓一代で約三千人にものぼると言われています。淡窓の教育にかけた情熱が、この数字からでも実感出来るのではないでしょうか。

 現在の大分県日田市には、淡窓が主催した「咸宜園」の建物が復元され、毎年数多くの観光客が訪れる観光スポットの一つとなっています。
 教育に携わっている職業を俗に「聖職」などと呼びますが、咸宜園を訪れ、そして広瀬淡窓の業績に触れた私は、教育とはまさに「聖なるもの」以外の何物でも無いということを改めて実感しました。
 淡窓が終生大事にした「善」という言葉。そして「聖」。
 まさに広瀬淡窓という人物は、教育に携わるべき聖職者に相応しい人物であったと言えましょう。




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