磯浜に建つ尚古集成館(鹿児島県鹿児島市)




(幕末・維新の町を行く「鹿児島県鹿児島市 −日本最初の近代化を目指した町−」)
 最近、私は毎年の如く鹿児島を訪れています。
 その理由は簡単、鹿児島という土地が好きだからです。最近は、西郷が好きだから鹿児島が好きなのか、それとも鹿児島が好きだから西郷が好きなのか、よく分からなくなっているくらいに鹿児島という土地に愛着を持っています。

 鹿児島は明治維新を推進した原動力となった薩摩藩島津家が城下町を築き上げたところです。
 しかし、残念なことながら、今現在、旧鹿児島城下を歩いても、幕末当時の往時を偲ばせる建物はほとんど残っていません。なぜなら鹿児島という町は、薩英戦争、西南戦争、そして太平洋戦争という三つの大きな戦争によって多大な戦禍を受けたからです。
 ただ、そんな鹿児島の町の中でも、昔ながらの光景を現代に生きる我々に見せてくれる場所が一つあります。

 それは、島津家の別邸磯御殿があった「磯浜(いそのはま)」の周辺です。

 島津家の別邸磯御殿があった磯浜と呼ばれる海岸線の周辺には、幕末期には島津家28代当主で薩摩藩主であった島津斉彬が作り上げた近代工場群が立ち並んでいました。
 様々な紆余曲折を経てようやく藩主に就任した斉彬は、鹿児島の町を近代化するために数多くの大改革を施しました。特に、藩主の別邸の磯御殿があった磯浜を中心に、斉彬は数多くの近代工業事業を興したのです。
 斉彬が推進した事業は、多種多岐にわたります。

蒸気船や帆船の製造、汽車の研究、製鉄のための溶鉱炉の設置、反射炉の設置、小銃の製造、ガラスの製造、ガス灯の設置、紡績事業、洋式製塩術の研究、写真術の研究

 このように一つ一つ挙げていけばキリが無いほどの近代化事業を斉彬は推進し、磯浜周辺に数多くの工場群を作り上げました。
 斉彬の興した事業を総称して、「集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)」と呼ぶのですが、この集成館事業には、最盛期には約四千人の工員が働いていたと伝えられています。

 安政5(1858)年3月、長崎海軍伝習所で航海術を教えていたオランダ人・カッティンディーケは、幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)や海軍伝習所練習生達を引き連れ、航海演習を兼ねて鹿児島を訪問していますが、カッティンディーケは、斉彬が推進する様々な事業や作り上げた近代工場群を目の当たりにして、驚きを隠せなかったことが、彼の回顧録である『長崎海軍伝習所の日々』(東洋文庫)の中に出てきます。当時の薩摩藩は、ヨーロッパの小さな一公国並みの技術力を持ち、そして繁栄を見せていたと伝えているのです。

 しかしながら、磯浜を中心として斉彬が興した様々な近代工場群、今で言うコンビナートは、安政5(1858)年7月の斉彬の突然の死後、実父の斉興によって、その事業は大幅に縮小され、それら工場群のほとんどは操業を停止に追い込まれました。
 斉彬の集成館事業は、日本国内に類を見ない画期的な事業ではあったのですが、その運営には莫大な経費がかかる上、目に見えてすぐにその改革の実績(業績)が出ないものでしたから、斉興自身がその事業に対し大きな不満を持ち、集成館事業の大幅な縮小・削減を命じたのです。
 斉彬は10年、いや50年先の日本を見越し、殖産興業こそが日本の自立する道であると考え、集成館事業というものを興したのですが、斉彬のその意図を正確に理解出来る人間は、当時の薩摩藩内には極少数しかいなかったと言えるでしょう。

 こうして斉彬の死後、集成館事業のほとんどは事業を停止し、往年の集成館事業の繁栄を知るものにとっては、磯浜の工場群は、まさに火が消えたかのような状態になりました。
 しかしながら、斉彬の実父・斉興が亡くなり、斉彬の異母弟の久光が藩内の実権を握るようになると、集成館事業はまた息を吹き返し、斉彬時代の繁栄が蘇ることになります。
 文久3(1863)年の薩英戦争によって、西欧列強諸国の技術力の高さを知り、大きな教訓を経た薩摩藩は、殖産興業の重要性というものを改めて悟りました。そして、藩主の忠義やその実父である久光は、斉彬時代に行なわれていた事業を再開させ、西欧諸国に追いつき追い越すために、新たに薩摩藩を近代化するべく様々な事業を開始したのです。

 先日、私は「平成の展示大改修」と称してリニューアルされた「尚古集成館」(島津家29代当主で薩摩藩主・島津忠義が、慶応元(1865)年に造った機械工場の建物。現在は国の重要文化財に指定され、その内部が島津家の資料館となっている)を見学するため、久しぶりに鹿児島の磯浜周辺を訪れました。
 現在の磯浜周辺には、斉彬や忠義・久光時代に作られたたくさんの近代工場群を偲ばせる建物は、島津家の別邸であった「磯御殿」と「尚古集成館」くらいしか残っていませんが、磯浜周辺を歩いていると、斉彬が作り上げた様々な近代化政策の先跡に出会うことが出来ます。


日本最初の洋式帆船「伊呂波丸」が建造された場所に建つ「照国公製艦記念碑」。
日本最初の近代紡績工場の跡地に建つ「鹿児島紡績所跡碑」。
そして、斉彬が興した集成館事業には欠かすことの出来なかった「反射炉跡」。



 斉彬が情熱を燃やした近代化への夢のかけらが散りばめられた場所。
 それが鹿児島の磯浜なのです。




戻る
戻る