少林塾(鶴田塾)跡(高知県高知市)




(幕末・維新の町を行く「高知県高知市」 少林塾跡を訪ねて-悲劇の改革者・吉田東洋-)
 幕末期には数多くの私塾が誕生しました。
 その中でも長州藩士の吉田松陰が開いた松下村塾や備中足守藩出身の緒方洪庵が主催した適塾(適々斎塾)などは非常に有名な私塾としてその名が知られていますが、土佐に誕生した「少林塾(別名・鶴田塾)」の名を知る方は少ないのではないでしょうか。
 
 土佐の国、つまり現在の高知県は、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太、板垣退助など、幕末・維新期に活躍した人物を多数輩出した土地です。
 高知県内にはたくさんの幕末・維新に関連する史跡が存在していますが、その中の一つ、高知市の中心部から南へ約七キロほど行った長浜という場所に、土佐藩の参政を務め、藩政改革に尽力した吉田東洋が開いた私塾「少林塾」がありました。

 安政元(1854)年6月10日、東洋は江戸上屋敷の土佐藩邸内で行なわれた酒宴の席において、山内家の親戚であった旗本の松下嘉兵衛に侮蔑されたため、松下の頭を殴打する事件を引き起こしました。そのことが原因で、東洋は当時就いていた参政の職を免職となり、高知城下南方にある長浜梶ヶ浦の地に閉居することになったのです。
 東洋は再び参政の地位に復帰するまでの約三年もの間、この長浜の地で過ごすことになるのですが、翌安政2(1855)年4月に長浜の鶴田に移り住んだ際、私塾を開き、青少年達の教育にあたりました。

 これが「少林塾」と呼ばれているものです。

 少林塾の「少林」とは、戦国時代に四国統一を成し遂げた土佐の領主・長宗我部元親の菩提寺・少林山雪蹊寺の山号から取ったもので、東洋はこの少林塾で南学(土佐に起こった朱子学)の講義を中心に、東洋を慕って集まってきた青少年達を教育しました。
 この少林塾で東洋の教えを受けた者には、後藤象二郎、福岡孝弟、神山佐多衛、岩崎弥太郎、小笠原謙吉といった、後年は土佐藩の代表者ともなる人々が数多く存在するのですが、その門弟の中には、間崎哲馬(滄浪)もいました。
 間崎と言えば、武市半平太と共に土佐勤王党を結成した中心人物の一人ですが、彼らが結成した土佐勤王党は、後に東洋の政策と対立し、最終的に高知城下で東洋を暗殺することになります。
 東洋が暗殺された時、間崎は江戸にいたのですが、師の暗殺の報をどのような思いで聞いたのでしょうか……。
 そして、間崎もまた、東洋が暗殺された翌年に藩によって切腹を命ぜられ、この世を去ることになるのです。

 2003年3月、私は高知県へ出かけ、吉田東洋が青少年の教育にあたった少林塾跡を訪れました。現在の少林塾跡は、非常に静かな場所に小さな石碑と看板が立っているだけですが、この場所に立った私は、吉田東洋という人物の悲劇さに、何とも言えない感慨がわいてきたことを今でも覚えています。
 吉田東洋という人物は、武市半平太率いる土佐勤王党に暗殺されたため、「保守派の巨魁」、「佐幕派の巨頭」といったイメージを持たれる方が多いかもしれませんが、東洋の生涯を調べてみると、それが大きな誤解であることに気付きます。実のところ東洋は、土佐藩内でも指折りの革新派とも言える人物で、土佐藩主・山内豊信(容堂)の厚い信任と庇護のもと、数々の改革策を藩内に実施しています。
 例えば、身分階級の整理や世襲制度の撤廃などを行なった身分制度改革に始まり、藩内の経費倹約による財政改革、藩校・文武館の新設などの文武制度改革、そして身分の低い者でも才能があれば藩の重要な要職に就けるようにした人材登用改革など、東洋は様々な改革を藩内に実行しました。
 しかしながら、東洋が行なった身分制度改革は、藩内の門閥派や保守派、つまり家柄が良くて代々藩の要職に就けるような人達の一派に大きな恨みを買ったのです。

 江戸時代を通じて全国どこの藩にでも同じことが当てはまりますが、世襲制などの身分制度を改革しようとした場合、必ずといって良いほど藩内に大きな反発が起こります。
 今でこそ職業選択の自由というものがありますが、封建制度が行なわれていた江戸時代においては、そんな自由は無く、職というものは家柄によって世襲されることになっていたため、家柄の良い門閥派にとっては、職を世襲するということは代々受け継がれてきた権利であり、一種の特権でもあったのです。
 そのため、そういう身分制度を改革しようとすると、門閥派や保守派が反発し、必ず大きな反対が起きたのです。
 東洋の場合もそれは同じで、彼の数々の改革案は藩内の大きな反発を引き起こしました。
 しかし、東洋はそれに負けず、反対派の意見を押し切って改革を断行しました。東洋は、非近代的な制度をとる土佐藩内の諸制度を近代化しようと考えたのです。
 ただ、前述したように、身分制度改革を始めとする東洋の改革は、藩内の門閥派や保守派の大きな恨みを買いました。そのことを暗に示すかのように、土佐勤王党が東洋を暗殺しようとした際、その行動を陰で容認し支持していた人達の中に藩内の門閥派や保守派の人々が数多く存在したのは、藩内の保守派が次々と藩政改革を行なう東洋に不満を持ち、東洋の存在を邪魔に思っていたためと言えるでしょう。
 つまり、藩内の門閥派が土佐勤王党の東洋暗殺を容認した背景には、東洋を暗殺しようと計画した土佐勤皇党と東洋を忌み嫌う保守派との間に利害が一致したからに他ないのです。

 このように吉田東洋という人物は、旧制度を打破する革新派の人物でありながらも、藩政の性急な勤王化を求めた土佐勤王党と意見が衝突したため、結果的に非業にも命を失うことになりました。
 そして世は明治維新を迎え、明治後は土佐勤王党の動きは歴史的に正当化され、土佐勤王党と対立した東洋は、土佐藩の保守派の代表格、改革を邪魔した保守派の巨魁として誤解されることになってしまったのです。
 少林塾を訪れた私は、そんな東洋の悲劇を感じずにはいられませんでした。
 現在の高知県は、坂本竜馬を筆頭に、幕末維新に活躍した志士達ばかりにスポットを当て、彼らのことを一種観光促進の手段にも使っていますが、東洋のように誤ったレッテルを貼られて非業に倒れた人々も、地元としてもっと再顕彰する必要があるのではないでしょうか。




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