(画像)谷干城銅像
谷干城銅像(熊本県熊本市)




(幕末・維新の町を行く「熊本県熊本市 −熊本城と谷干城−」)
 熊本城は、大阪城、名古屋城と共に「日本三名城」の一つとして知られ、肥後半国の領主であった加藤清正によって築かれた城です。
 清正は「城作りの名人」と呼ばれ、名古屋城を始めとして数々の名城を作った人物としても知られていますが、その築城の名人である清正が、慶長6(1601)年から七年間もの長い年月をかけて、精魂込めて作り上げたのが熊本城です。

 明治10(1877)年2月22日、鹿児島で挙兵した西郷隆盛率いる薩軍は、鹿児島から一路北上して熊本城を包囲し、攻撃を開始しました。

 世に言う「西南の役」、「西南戦争」の始まりです。

 当時、熊本城を守備していた新政府軍の統括責任者は、熊本鎮台司令長官の谷干城(たにたてき)という人物でした。
 谷は旧土佐藩出身で当時40歳。明治初年の戊辰戦争で軍功があったことから、明治新政府は当時士族の反乱が続発していた九州地方の要として、明治9(1876)年11月に谷を熊本鎮台司令長官に任命しました。
 薩軍が鹿児島で挙兵し、熊本城に向けて進撃中であることを知った谷は、ここで降伏するか、それとも抗戦するかの究極の二者択一を迫られました。薩軍の兵力は熊本鎮台の兵力のおよそ三倍強。また、当時熊本城を守衛していた兵士達の多くは、武士階級出身者ではなく、徴兵令によって徴募されていた実戦経験に乏しい者が多い状況でした。
 一方で薩軍は戦慣れしている歴戦の兵ばかり。
 谷は苦渋の選択を迫られたのですが、ここで彼は籠城戦を取ることを決意します。加藤清正が計算に計算を重ねて作り上げた難攻不落の名城・熊本城に籠れば、必ず薩軍の攻撃から守りきれるという自信が谷にはあったからです。

 薩軍との戦端が開かれる直前の明治10(1877)年2月19日、熊本城内で原因不明の出火が起こり、天守閣などの建物が焼失する緊急事態が起こりました。
 谷の落胆は非常に大きかったのですが、それでも彼は諦めず、獅子奮迅の働きで戦闘を指揮し、城内の兵士達を叱咤・激励し、薩軍に対し徹底抗戦の態度をとりました。
 熊本城に籠城し、谷を中心として結束した熊本鎮台は、それから約50日間もの長き間、薩軍の激しい猛攻を耐え忍ぶことになります。
 谷の軍人としての類稀なる資質、そして清正が作り上げた難攻不落の名城・熊本城。この二つの要素が重なりあい、そして一体となって、谷は薩軍の攻撃を完全に防ぎ、熊本城は史上最大の危機を乗り切ることが出来たのです。

 薩軍の攻撃に耐え、ようやく新政府軍の援軍が熊本城に入城した際、谷は次のような歌を詠んでいます。


「石なれと 固く守りし かひありて けさ日の御旗 見るぞうれしき」


 谷と熊本城は、まさに石のように硬く一丸となり、熊本城を守り通したのです。

 2004年5月のゴールデンウィーク、私は久しぶり熊本城を訪れました。
 現在の熊本城は、熊本市の観光名所の一つとして、常に多くの観光客で賑わっていますが、前述したとおり、その天守閣は西南戦争の際に焼失したため、現在の天守閣は昭和35年に熊本市によって復元・再建されたものです。
 現在においては、加藤清正が築いた当時の天守閣の姿を見ることは出来ませんが、「武者返し」と呼ばれる独特の曲線を持った、幾重にも連なり重なる豪壮優美な石垣からは、往時の熊本城の壮大な様子を今でも十分に窺い知ることが出来ます。

 昭和44年、「明治百年」を記念して、熊本城内に谷干城の銅像が建立されました。谷の銅像は昭和12年に既に建立されていたのですが、戦時中の金属供出でその姿を失ってしまったため、地元熊本の人々の努力により再建されたのです。
 西南戦争当時の軍服を身にまとい、左手にサーベルを持って腰掛け、熊本城を背にして建てられた谷の銅像は、今もなお彼が熊本城を守備しているのではないかと見間違えるほどに非常に勇壮なものです。
 私自身、熊本城を訪れた際には必ずこの銅像を見に行き、西南戦争当時に思いを馳せることが多かったのですが、非常に残念なことながら、この熊本城内に建てられていた谷の銅像は、現在城外の高橋公園へと移転されてしまいました。関係者の話によると、熊本城の本丸御殿を再建する計画があるため、その敷地内に建てられていた谷の銅像を城外へと移転せざるを得なくなったということです。

 明治10(1877)年9月24日、西南戦争が終結し、その年の暮れを引き続き熊本城で過ごすことになった谷は、次のような七言絶句を詠んでいます。


身似洋中不繋船(身は洋中に繋がれざる船に似たり)
十年官海不安全(十年の官海、安全ならず)
回頭往事都如夢(頭をめぐらせば、往時すべて夢の如し)
又在熊城餞暮年(また熊城に在りて、暮年をおくる)

「自分の身は大海に漂流する船のようである。官に仕えたこの十年間の航海は安全なものばかりではなかった。しかし、今考えてみると、往時は全て夢のようである。今年もまた、この熊本城で年を越すことになった……」



 谷にとって、熊本城で過ごした日々は、非常に感慨深いものであったのでしょう。そして、谷にとっての熊本城は、最も思い出深い、愛着ある城でもあったのです。

 谷の銅像と熊本城は、まさに一体となった風景を醸し出していただけに、私にとっては、銅像の城外への移転が非常に残念で仕方がありませんでした。
 熊本城から移された谷は、今そこで一体何を考えているのでしょうか……。
 また、いつの日か、自分が守り通した思い出深い熊本城に、再び戻る日が来ることを夢見ているかもしれません。




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