高野長英旧宅(岩手県水沢市)




(幕末・維新の町を行く「岩手県水沢市」−高野長英と角筆漢詩−)
 2002年8月1日、私は岩手県の水沢市を訪れました。
 この年の夏、私は東北を一周する旅を計画し、福島県郡山市を皮切りに、そこから会津若松市へ移動した後、宮城県仙台市を経由して、岩手県盛岡市に入ることを予定していたのですが、盛岡に入る前に、その途中にある水沢市にだけはどうしても立ち寄りたいと考えていました。水沢という町は、高野長英(たかのちょうえい)が生まれた町だからです。

 高野長英と言えば、その名を知っている方はたくさんいるとは思いますが、彼の人となりや、そしてどのような業績を残した人物なのかを詳しく知る人は、案外少ないかもしれません。実はかく言う私自身もその中の一人でした。
 ただ、私は以前から高野長英という存在に対し、非常に興味を持っていました。
 長英が活躍した天保年間という時代は、日本にとっても大きなターニングポイントとなる時代でした。「大塩平八郎の乱」、「モリソン号事件」など、幕府政治の根底を揺るがすような大きな事件が立て続けに起こり、また、中国では「アヘン戦争」が勃発するなど、時代はいよいよ激動の様相を呈していたからです。
 このように天保年間とは、幕末の動乱期へと向かう「玄関口のような時代」だったのです。

 「モリソン号事件」については、長英は自身の著書である『夢物語』の中で、幕府のモリソン号に対する処置を今後日本に大きな災いを降りかけるものだとして大きく批判しています。
 天保8(1837)年6月、アメリカ船籍のモリソン号という商船が、日本の漂流民を乗せて突如浦賀沖に現われました。アメリカ側は漂流民の送還を口実に、幕府に対して通商交易の開始を要求するつもりだったのですが、幕府は文政8(1825)年に布告した「異国船打ち払い令」を元に、そのモリソン号を砲撃して退去させました。

 これがいわゆる「モリソン号事件」と呼ばれているものです。

 長英は、幕府からの罪を避けるため、夢の中で聞いた話を元にしたとの体裁を採り、自らの意見を述べた『夢物語』の中で、この幕府の異国船打ち払い策について、

「有無の御沙汰もなく、いきなり鉄砲で(外国船を)打ち払うというような取り扱いをしている国は、凡そ世界中の国を見渡してもない」

 と、当時の幕府の海防政策を強く批判しています。
 長英は、取りあえず長崎などの適当な港にモリソン号の入港を認め、漂流民を受け取った上で、通商交易の要求については丁重に拒絶すべきであると主張しています。つまり、遮二無二、異国船を打ち払うのではなくて、一度は交渉を持った上で、その後に交易を拒絶することが、国として理にかなった行動であると長英は述べているわけです。この辺りは、後の幕末に日本国内が「攘夷一色」となる状況を考えても、長英の意見は非常に現実性に富んだ意見だったと思われます。
 若き日の長英は、長崎でオランダ人医師のシーボルトに師事し、諸外国の事情や大勢をよく知っていたからこそ、異国船の打ち払いがいかに無謀な挙であるかということを分かっていたのでしょう。長英が記した『夢物語』の中には、長英の西洋知識の豊富さが非常によく出ています。

 しかしながら、長英が書いた『夢物語』は、幕府批判の書として捉えられ、「蛮社の獄」と呼ばれる一大弾圧事件が起こり、長英は投獄されてしまいます。(「蛮社の獄」で捕らえられた者の中には、『慎機論』を書いた渡辺崋山もいます)
 「蛮社の獄」により投獄された長英でしたが、その後、獄舎が出火したことに乗じて彼は脱獄し、全国各地を逃避行することになるのですが、最終的には江戸で幕府の捕吏に捕らえられ、最後は惨殺されることになるのです。
(付記:長英の最期は一般に「自刃」と言われていますが、実際は捕吏に惨殺されたのが真相のようです)
 高野長英、46歳の短い生涯でした。

 高野長英の故郷である現在の岩手県水沢市には、「高野長英記念館」という非常に立派な資料館が建ち、また市内には「高野長英旧宅跡」、「高野長英誕生地碑」など、長英ゆかりの史跡が数多く残っています。(また、高野長英の旧宅は、一部がそのままの形で保存されていますが、残念ながら現在は建物の内部は非公開になっています)
 私は仙台から水沢行きのバスに乗り、約二時間かけてJR水沢駅に到着すると、真っ先に「高野長英記念館」を目指しました。高野長英記念館は、駅から徒歩で約10分程度の水沢公園の一角にひっそりと建っていますが、貴重な資料がたくさん展示されており、長英の人となりがよく分かる非常に素晴らしい資料館です。

 記念館の展示物の中で一際私の目をひいたのは、「蛮社の獄」で投獄された長英が、その獄中で書いた「角筆漢詩」と呼ばれる文書です。
 この角筆漢詩は、一見離れて見てみると、ただの真っ白な紙にしか見えないのですが、実は「角筆」という特殊な筆記用具を使って書かれたものなのです。
 角筆とは、先のとがった木や象牙を使って、紙にくぼみを作って文字を書く筆記用具のことを言います。つまり、角筆は墨などを一切使う必要のないことから、角筆で書かれた文字は、離れて見ると一見何も書かれていない真っ白な紙にしか見えないのですが、近づいて見てみると、光線の加減によって、紙に凹んだ文字が浮かび上がって見える仕組みになっています。
 つまり、角筆とは墨が要らない万能の筆記用具というわけです。

 蛮社の獄で投獄された長英は、この角筆を使って獄中で漢詩を書きました。
 京都の六角獄に投獄された筑前の勤王志士・平野国臣(ひらのくにおみ)が、獄中で筆や墨が手に入らなかったことから、紙縒り(こより)を使って文字を作成し、それを紙に貼り付けて文章を書いたことは有名な話ですが、長英の角筆は、さらに筆や墨が自由に手に入らない不便な獄中の生活の中での素晴らしいアイデアだったと言えるかもしれません。
 長英が書いた「角筆漢詩」を見ながら、私は獄中での長英の苦難を感じると共に、このような角筆を使ってまでも漢詩を書き留めようとした長英の、投獄されても尚まだめげない、強靭な精神力と強い志を同時に感じ取ったのを今でも忘れることが出来ません。




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