(写真)出島
出島跡(長崎県長崎市)




(幕末・維新の町を行く「長崎県長崎市」−出島・蘭学のふるさと−」)
 長崎は、鎖国中の日本において唯一外国に開けた港町でした。長崎という地名を聞くと、何か遠い異国のようなイメージを想像してしまうのは、私だけではないかもしれません。
 嘉永6(1853)年6月に浦賀にペリーが来航し、その後、江戸幕府の鎖国政策が解けた後も、長崎は日本の玄関口として繁栄しました。土佐脱藩の坂本龍馬が設立した「亀山社中」という貿易商社は、長崎を拠点として活動したことは非常に有名な話です。

 島津家25代当主で薩摩藩主であった島津重豪(しまづしげひで)は、この長崎という町と非常に関わりが深かった人物です。
 重豪は、外国のあらゆる諸文物に大きな関心を持ち、積極的にその知識を得ようと努力しました。特に、重豪は当時鎖国中の日本と唯一交流があった二つの国、中国とオランダに多大な関心を持っていました。
 例えば、中国については、中国語の辞書の編纂事業に着手し、後年「南山俗語考(なんざんぞくごこう)」という辞書を完成させています。また、重豪は自らの近習と会話する際、中国語で話をすることも多かったと伝えられています。その他にも重豪は、植物の品種などを紹介した「成形図説(せいけいずせつ)」という百科辞典の編纂を手掛け、藩内には「明時館(めいじかん)」と呼ばれる天文観測や暦を研究する役所等を設置するなど、積極的な開化政策を藩内に実施しました。
(付記:明時館は別名「天文館(てんもんかん)」とも呼ばれ、現在鹿児島市最大の繁華街である天文館の呼び名は、そこに由来するものです)
 この重豪の曾孫にあたるのが、現在でも英明藩主と誉れ高い島津斉彬(しまづなりあきら)です。斉彬の進取気鋭の性格と西洋知識を愛する趣向は、曽祖父である重豪の影響が強く出ているといって良いでしょう。

 重豪は、中国に限らず、蘭癖とも言われたほど、オランダに関しても興味を持っていました。
 明和8(1771)年、重豪は江戸から鹿児島に帰国する途中、わざわざ長崎に立ち寄り、約23日間滞在しています。重豪は当時日本人が入ることを禁じられていた、唯一長崎において外国との接点があった「出島」の中に、幕府の特別な許可を得て入っています。重豪はオランダ商館長・アルメノーと面会し、当時長崎に入港していたオランダ船「ブルグ号」に乗船し、船内を見学しています。
 このようなことがあって以来、重豪と歴代のオランダ商館長とは、互いに文通や進物の交換などという形で交流を深めていきました。特に、チチング、ズーフ、ブロムホフといった商館長との交流は深く、その中でもズーフとは大変親しく付き合っています。
 オランダ商館長であったズーフは、蘭日辞書の『ズーフハルマ』を編纂した人物です。大坂の緒方洪庵が開いた私塾「適塾」に、「ズーフ部屋」と呼ばれる「ズーフハルマ」が置かれた部屋があったことは非常に有名な話です。
 また、重豪は、文政9(1826)年、オランダ商館付けの医師であったシーボルトとも、江戸において面会しています。このシーボルトとの面談では、重豪は一部オランダ語の単語を交えながら会話したと、後年シーボルトが書き残しています。
 このように、重豪は積極果敢に西洋知識を学び、そしてそれで得た知識が曾孫の斉彬に受け継がれていくことになるのです。

 今年(2001年)の3月末、私は長崎に行く機会があり、長崎の町並みを散策してきました。
 まずは、長崎のシンボルとも言える「出島」の跡を見に行ったのですが、その狭さを実感して大変驚きました。出島は元々は人工島であり、外周が約564mしかない、ほんとうに小さな区域です。出島の中を端から端へと歩いたとしても、ほんの2〜3分ほどしかかかりません。こんな小さな一つの区域に、当時の日本においては最先端の技術や知識が凝縮されていたのです。
 現在、資料館や博物館等が立ち並ぶ出島を歩いていると、重豪が目を輝かせながら、店先に並んでいる珍しい品物や書物を手に取りながら歩く姿が、私には目に浮かぶような気がしました。長崎・出島という町は、重豪だけでなく、当時蘭学を目指した人々にとっても、一度は踏み入れたい憧れの町であったと言えるのではないでしょうか。



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